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17.現象学的心理学の可能性

朝日カルチャーセンター講座「現象学的心理学の可能性 第1回」を終えて


従来の現象学的心理学は、個々人の主観的な意味の了解や記述にとどまる記述心理学にすぎない、と長い間考えてきた。事実、現象学的心理学関係の文献の多くは、本質観取と超越論的還元に対する正当な理解と応用、という方向性が見えてこない。

たとえば、ロジャーズやロロ・メイ、フランクルらの心理療法は、しばしば現象学的なアプローチと呼ばれているが、これは患者の主観的な意味の了解といった程度の意味しか持っていない。患者の自己理解を重視している点で、確かに治療法としての効果はあるだろう。しかし、これらの心理療法では本質観取や超越論的還元についてまったく触れていない。

近年特に心理学や医療・看護などの領域で注目されている質的研究にも同じことが言える。質的研究は自然科学的な量的研究、すなわち実験・観察のデータから問題を数値化(量化)して考える研究とは異なり、対話などをとおして相手の心理的内容を記述、整理し、何らかの答を引き出すものだ。相手の主観的な世界理解、自己理解に留意する点で、現象学に近接する領域とみなされているが、基本的にはディルタイやブレンターノを始祖とする記述心理学に近く、本質観取などの方法はほとんど使われていない。

一方、精神医学への応用を試みた現象学的精神病理学には、比較的フッサールの現象学に忠実なものもある。といっても、その創始者であるヤスパースはディルタイの記述心理学を受け継いでおり、本質観取は不要だと主張し、自覚的にフッサール現象学とは距離を置いている。そして、こうしたヤスパース流の記述現象学を受け継いだシュナイダー、コンラート、フーバーらは、後に精神病理学の主流派となっている。(彼らは心身二元論を前提にしているため、その後、生物学的精神医学に接近し、ますますフッサール現象学からは遠ざかっている。)

しかし、ヤスパースの記述現象学を批判し、フッサールの現象学あるいはハイデガーの実存論を忠実に応用しようと試みた現象学的精神病理学の精神科医も存在する。それは、ビンスワンガー、ミンコフスキー、メダルト・ボス、テレンバッハ、ブランケンブルク、木村敏といった人たちだ。しかし、ここでも現象学に対する多くの誤解があることを指摘しなければならない。それは本質直観(本質観取)と超越論的還元に関する彼らの記述の中に見ることができる。

現象学的方法としての本質直観は、「自由」「不安」「死」「心」「欲望」等々の概念を対象とし、誰もが共通して了解し得る意味(普遍的な意味)を取り出す作業である。このことによって、さまざな心理学的な概念や精神病理の症状について、個別的な主観性の記述・了解を超えた本質を明らかにし、精神病理の解明や治療に寄与することができる、と私は考えている。

ところが、現象学的精神病理学者でこの方法を自覚的に用いている者はおらず、多くは本質直観を無視しており、本質直観に触れている者も、「他者の内面を直観する」というような誤った意味で理解している。たとえばミンコフスキーは、単なる患者の内面の記述ではなく、現象学的直観が必要だと主張しながらも、それは本来の本質直観とはほど遠い。彼にとっての現象学的直観とは、患者の話に耳を傾けると、ある瞬間、全体の核心を知り得たという確信が生じる、というものであるからだ。

一方、ビンスワンガーやメダルト・ボスのように、フッサール現象学よりもハイデガーの現存在分析に大きな影響を受けている者もいる。もともとハイデガーの現存在分析は、フッサールの本質観取(本質直観)を人間の存在(あり方)に適用したものであり、優れて現象学的な仕事でもあった。したがって、現存在分析を精神病理や心理的治療の問題に応用することには、確かに大きな可能性があるはずだ。しかし、ビンスワンガーの現存在分析はハイデガー思想を教条的に守っている面があり、あまり実りのある分析にはなっていない。ボスには優れた本質的分析も見られるが、彼は後期ハイデガーの形而上学的側面まで受け継いでいるため、理論的な矛盾を生じている。

晩年のビンスワンガーはフッサール現象学に回帰し、躁鬱病を超越論的還元などの概念を用いて分析しているが、これは彼の現存在分析に比べ、あまり評判のいいものではなかった。おそらくそれは、実存的な記述がなりを潜め、妄想や躁鬱などの症状が意識でいかにして構成されるのか、というやや無機質な記述になっているからだろう。木村敏はこれについて、分析対象が分裂病ではなく躁鬱病であったことが、現象学的分析の利点を活かせなかった原因ではないか、と指摘している。現象学では日常の現実性を還元するため、現実性にゆらぎのある分裂病(統失調症)の分析に向いている、というわけだ。これはなかなか鋭い指摘である。

なるほど、確かに分裂病者の特徴として、現実感の喪失、日常性のゆらぎというものがある。こうした日常の現実感は「客観的世界が実在している」という確信(信憑)に基づいているが、現象学ではこの確信を保留にし(エポケー)、確信の根拠を問い直す。これが超越論的還元と呼ばれる作業なのだ。したがって、超越論的還元は分裂病における現実感喪失の本質を解明する上で、きわめて有効な方法でもある。(ただし、フッサールは「意識における世界の確信」とは言わず、「意識における世界の構成」といった言い方で説明しているため、多くの誤解が生じている。)

このような方向性で分裂病を分析し、優れた成果を残したのがブランケンブルクである。彼は分裂病の根幹には「自明性の喪失」があると考え、この問題を透徹した論理で記述している。日常の自明性は自然であたり前な実感であり、現実感と密接な関係にある。彼はこれを間主観性によって構成される、と論じており、ここに現象学的理解の深さが窺える。実際、他者の言動は世界の実在性を確信させる重要な契機となっており、自明性の喪失が他者との関係性における障害に起因することは、きわめてわかりやすい理屈である。ブランケンブルクはこれを意識における「構成」として論じているため、やや問題を不明確にしている面もあるが、それでも彼の分析は現象学的精神病理学における最良の仕事と言っていいだろう。

しかし、その後、半世紀近くを経たいまでも、現象学的精神病理はブランケンブルクの水準をまったく超えていない。いや、むしろこの偉大な仕事は忘れられつつあり、現象学的精神病理は退潮の兆しを見せている。それはやはり、現象学における本質観取、超越論的還元が正確に理解されてこなかったからだろう。

実はフッサール自身も自分なりに「現象学的心理学」なるものを構想していた。それはエポケーによって意識の現象に眼を向け、「心」に関わる諸概念(知覚、感情、記憶、欲望など)を本質観取によって明らかにする、というものだ。しかも心の本質を突き詰めていくと、あらゆる対象は意識において確信されている、という超越論的問題に突き当たらざるを得ない。それは心理学の宿命であり、心理学は超越論的問題を明らかにする役割を担っている、というのがフッサールの主張であった。

フッサールの言うことには一理ある。現にブランケンブルクが突き当たったのも超越論的問題であった。(もっとも彼が超越論的問題にどこまで自覚的であったかはわからない。)心理学の諸概念のみならず、「心」という対象そのものが超越論的問題を含んでおり、超越論的還元の理解なくして心の本質はわからない。したがって、今後、現象学的心理学を構想するとしたら、超越論的還元を十分に理解し、「心」という認識対象の本質を明らかにすることが重要な課題となるはずだ。従来の現象学的心理学には超越論的還元への理解が不十分で、本質直観への誤解も少なくない。超越論的還元をとおして「心」の本質を明らかにできれば、心理学全体の土台となる基礎的な考え方が確立されるだろう。それこそが、現象学的心理学の真に重要な仕事なのである。