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01. 暁烏敏(あけがらすはや)賞受賞論文 自由と主体性を求めて

「第十四回 暁烏敏賞入選論文」(暁烏敏賞事務局)
(1998.9.1.山竹伸二)

【著者による解説】

暁烏敏(あけがらすはや)賞は、石川県松任市が仏教思想家である暁烏敏の功績に因んで創設した哲学論文の賞。応募資格に制限はなく、内容も哲学思想に関する論文であれば何でも対象となる。地方の賞ではあるが、私が受賞した当時の審査員には渡辺二郎氏(東京大学名誉教授)も顔を揃えていた。この論文のテーマである自由と主体性は、現在でも最も関心のある問題であり、未だに模索は続いている。なお、賞の概要は下記のHPに詳細が記されている。

暁烏敏賞
平成10年第1部門受賞作品


【本文】

自由と主体性を求めて 
(1998.9.1)

現代人の心の病

精神的に不安定な母親は、子供に自分が優しい母親だと思われると不安になり、無意識のうちに子供に敵意を抱いてしまうことがあるという。もちろん、この感情は通常意識されることはなく、微妙な身体的反応、行為として現れるのである。例えば母親が子供に対して腕を広げて抱きしめようとすれば、その子は母親の愛情に喜びながら、無心に母親に抱きつこうと駆け寄るだろう。ところが、母親は子供への自分の敵意に気づかないまま、子供の無邪気な愛情表現に不安と戸惑いを感じ、ほんの一瞬、身を引くのである。それを敏感に感じとった子供は一瞬足を止めて母親の顔色を窺う。母親はその様子を見て、「どうしてママにキスをしてくれないの?」と子供に問いかける。それは、「ママはこんなにもおまえを愛しているのに、おまえはママを愛してくれないの? ママがおまえのことを嫌っているとでも思ったの?」という意味が裏にあり、子供を責め立てるようなメッセージが含まれているのである。

これをベイトソンはダブル・バインド(二重拘束)状況と呼び、精神分裂病の原因となることを詳細に述べている。母親に抱きついてキスをすれば、愛してもいない子供に抱きつかれた母親は不安を感じる。それを感じ取った子供は、抱きつけば母親に嫌われるのだと判断する。しかし抱きつかなければ、「ママのことが嫌いなの?」と責められ、やはり嫌われることになる。このように、この子は母親を愛すれば愛するほど、どちらを選ぶこともできなくなってしまうのである。このような矛盾した状況が繰り返されれば、人は正確にコミュニケーションのメッセージを把握することができなくなるだろう。他人のちょっとした身振りや行為に対し、それが一体何を意味しているのかを理解できず、安心感が得られなくなる。全ては曖昧で、何一つはっきりしたものがなくなるのである。

誰でも最も身近な人間から世界の意味を受け取り、その意味を自明だと感じるようになるものだ。母親がリンゴを手にとって「ほら、リンゴよ」と言えば、その物が「リンゴ」という言葉で表現されたものとして記憶され、子供もそれを「リンゴ」と呼ぶことになる。成長してくれば、抽象的なことの意味も同じように習得し、やがて社会規範のような複雑な秩序までも内面化するのである。しかし、実際のコミュニケーションにおいては、全てが言葉で語られるわけではない。ちょっとした身振りや仕草で表現されるメッセージにおいては、その言外の意味を察することが必要となる。ニコッと笑っただけで好意を示したり、肩をポンと叩かれただけで、「お疲れさま」というような意味として受け取ったりするのである。これは言葉以上の共感を生み出すので、身体的表出を理解することは、その社会で安心できる人間関係に加わるには不可欠なのである。

では、この母子の場合はどうだろうか。母親は子供に抱きつかれそうになって一瞬身を引いたわけだから、それを「抱きつくな、あっちへ行け」という意味に受け取った子供は、正確に身体的表出の意味を受け取っていることになる。ところが言葉では正反対のメッセージが送られているため、母親の真意がはっきりしなくなるのである。いっそ言葉でも「あっちへ行け」と言われたほうが、「ああ、ママはぼくのことが嫌いなんだな」と理解することができる。それは決して好ましい親子関係とは言えないが、身体的表出の意味と言葉の意味が一致しているため、論理的な混乱に陥る可能性は少ない。問題があるのは「言っていること」と「やっていること」が矛盾した親なのである。

この矛盾は意識と身体の分裂として捉え直すことができる。まず「自分は子供を愛している」と考え、意識している自分がいる。この意識的な自分を「考える私」と言い換えることもできる。しかしもう一方で、無意識のうちに子供を嫌っている自分がいる。これは意識されずに、身体的な反応として現れたり、予想もしなかった嫌悪感として現れるので、身体で「感じる私」と呼ぶことにしよう。誰でも意識(考える私)と身体(感じる私)の分裂感はあるものだが、この分裂感が意識されるかどうかが問題である。例えばこの母親の場合、子供への嫌悪感が強く意識されていれば「どうしてママにキスをしてくれないの?」などとは言えないはずだ。そう言ってしまう前に、「私はこの子が好きなはずなのに、どうして嫌悪感が出てくるのだろう...」という葛藤に悩むはずである。この場合、母親の方が自己矛盾、意識と身体の分裂感に悩まされるのだが、矛盾した言動は少なくなるので、子供への害はあまりない。しかし、この分裂があまりに強く、自分の気持ちを頭で納得できない場合、この感情は無意識に抑圧され、身体化され、この母親のように全く意識されなくなる。そうなると、無意識のうちに身体だけが反応してしまうことになるのだ。そして、そうした親に育てられた子どもは、自分の行為の規範を作ることが難しくなってしまうのである。

こうした意識と身体の分裂という問題は、今日の青少年の犯罪、精神障害の増加と深く関わっている。「キレる」という言葉が象徴するように、若い世代の衝動的な傷害事件の増加は、頭では分かっていてもどうしようもない、衝動的な感情を抑えることができない、そんな子供が増えている証しなのである。また、ここ十数年に精神科を訪れる患者には、ボーダーライン(境界性人格障害)の人がかなり増えている。その特徴は、過剰なまでの依存欲求と、見捨てられることへの不安、そして感情の変動が極端に激しく、衝動的なことである。そして、ボーダーラインとともに増加しているのが気分障害である。気分障害にはうつ病、躁うつ病などがあり、抑うつ気分に悩まされる精神障害であることは言うまでもない。こうしたことは、衝動的な欲望、感情のコントロールができないという、現代社会に特有な精神病理を示しているように思われる。

「感情のコントロールができない」と思っているのは、意識的に「考える私」である。つまり「考える私」が、身体で「感じる私」の衝動的な欲望を抑えきれない、ということなのだ。もし衝動的な欲望を無意識に抑圧できるなら、微妙な身体的反応は出ても、極端な衝動的行動や抑うつ感は消え、本人は葛藤に悩む心配はなくなるだろう。このダブル・バインド状況を作り出す母親がいい例である。だとすれば、衝動的欲望、感情が抑制できないのは、欲望を抑圧する機能が働いていないためだと考えられる。普通に考えれば、むしろ欲望を抑圧すれば精神障害を引き起こすのではないか、と思えるかもしれない。しかし、誰もが多くの欲望を抑圧しながら生きており、人間の欲望を衝動的なままに解放すれば、むしろ感情に振り回されて苦しむことにもなるのである。カッとなる度に相手を殴るようでは友人はできないし、面倒だからといって学校や仕事を放棄すれば将来の夢は達成できない。その場その場の衝動的欲望を我慢することで、友情を知ったり、夢を目指す喜びを知ったりできるのであり、それは衝動的な欲望より大きな満足感に繋がっているのである。

しかし、衝動的欲望を抑圧するためには、「...しなければならない」という、自分自身を律する内的規範が必要となる。内的規範とは、「人殺しは悪い」「一生懸命働くべきだ」というような、行動の指針となるような自分自身の心の中の法、ルールのようなものだ。これは社会規範(社会の価値観やルール、法)が、他者とのコミュニケーションを通じて習得され、内面化されたものが基礎となっている。もし社会規範が偏見に満ちた厳しすぎるものであるなら、その社会に生きる人々の内的規範は強大な力を発揮し、理不尽な欲望の抑圧を重ねることなる。そうなると、抑圧された欲望は身体的反応として噴出し、ヒステリーなどの神経症を引き起こすことになるのである。このように、理不尽で強すぎる内的規範は問題が多いのだが、内的規範が弱すぎても、衝動的な欲望、感情のコントロールができなくなる。理に適ったほどよい社会規範と、それが内面化され、理想化された内的規範こそ必要とされているのである。

現代社会は規範の絶対性が失われた社会であり、価値観も相対的で、全てにおいて不確かな雰囲気に包まれている。それを「自由な社会」と呼ぶ人もいるのだが、自分の衝動的欲望を発散することが自由だというなら、自由は決して大きな満足感をもたらすことはできないだろう。場当たり的な衝動的欲望を抑制し、自分自身の意志で行為を選び取ること、それこそが主体的で自由な生き方であり、他者と認め合うことのできる可能性にも繋がっているのである。しかし、社会規範の絶対性が失われた今日、必然的に内的規範も効力を失い、衝動的欲望を抑制できない人が増えている。その結果、自分自身の衝動的な欲望、感情に振り回されたり、抑うつ感や虚無感に苦しむ人が後を絶たないのである。何故そのような状況になったのか、次に近代の歴史を辿りつつ、その原因を検証してみよう。


従属する主体の近代史

近代は自己を律する理性に対して、大きな信頼が寄せられた時代だった。近代以前の宗教的な時代においては、世界の秩序は自分の外側にある神の摂理であり、全ては定められた運命として存在していたのである。しかし、神の権威が失墜してくると、外側の秩序は全く根拠を無くしてしまう。それでも絶対的な秩序(真理)の存在は疑われず、いつかは人間の理性によって発見される、そう信じられていた時代が近代なのである。現在でも、科学が全ての自然法則を解き明かすのだと、そう信じる人々は少なくない。そして近代社会において特に重要だったのは、人々が自由で平和に生きてゆくための、普遍的な社会のルールを発見することだったのである。最初に社会契約説が登場し、市民革命をもたらした。ヘーゲルの『精神現象学』は、私たちがより理想的な社会を実現してゆく過程を描き、その実践版とも言えるマルクス主義が、世界中に革命を引き起こしたのである。だが、私たちは本当に自らの意志によって社会を変えてきたと言えるのだろうか?

確かに私たちは自分の信念や考え方を、自分自身で選んできたのだと思い込んでいる。しかし、学校や職場、そして家さえもが、実はその社会にとって都合のいいイデオロギーを身につける温床となっているなら、その考え方を身につけた私たちは、当然その社会を維持するような行為を選択することになる。資本主義社会では、自主的に働く労働者ほど国家や資本家にとっては都合がいい。「一生懸命働くのは善いことだ」という価値観が社会全体に浸透している場合、それを内面化した規範を身につけた人々は、一生懸命働くことに何の疑問も抱かなくなるだろう。こうして、一生懸命働く労働者の力によって、その国家は維持、再生産されることになるのである。

こうした再生産の機能を果たす学校や職場などのことを、アルチュセールは「国家のイデオロギー装置」と呼んでいるのだが、ブルデューによれば、問題は意識的な信念や考え方だけに止まらない。意識されない日常的な習癖や振る舞いもまた、同じ社会を再生産することになるのである。つまり、考え方だけではなく、その社会に都合のいいような身体になっているというわけだ。しかし、そのイデオロギーを信じ切っていたり、習慣的な振る舞いに違和感がなければ、そうした人々に「あなたは資本家に騙されている」と言ったとしても余計なお世話だと言うべきかもしれない。そうした言葉がリアリティをもつのは、本当に過剰労働などで苦しんでいる場合や、自分の考え方に不信感が芽生えている場合だけなのである。主体を規定する社会構造という、図式化された視点から捉えているだけでは、社会構造を外部から捉えた視点でしかなく、個人の内在的な実感は考慮されないことになる。問題は、そこに「考える私」と「感じる私」のズレた感じ、自分の主体的な行為の選択に違和感があるかどうかなのである。

近代社会における国家のイデオロギー装置(学校、病院、職場等)の中で、フーコーがパノプティコン(一望監視塔)という監獄を分析したことは有名だが、それは絶対的な支配者が眼の前には見えないにもかかわらず、「どこかで監視されている」ような気にさせる監獄である。これは異様な状況と言わねばならない。実際には監視者・支配者がいないかもしれないのに、絶えず何かに怯え、不安を抱き続けることになるからだ。その結果、見られていなくても監視されているかのような行動をとり、自分自身を律する内的規範を身につけることになる。つまり、自分の内なる世界に他者の視点(監視者)を宿し、この「見られている」という感触が残るために、自分の主体的な行為に違和感をもたらすことになるのだ。

主体を規定する社会構造を外部から捉えただけでは、私たち自身の内的な実感が無視されてしまうのだが、このパノプティコンの分析が示しているのは、単に自分自身の内面に規範を作り上げ、その規範に従属する逆説的な主体を生み出した、というだけではない。内的規範は絶えず意識され、理性的判断によって行為が選ばれるわけではなく、むしろ内的規範の多くは身体化され、無意識のうちに習慣化した行為や振る舞いとなって現れる。この意識/無意識という分裂によって、監視されているような違和感が生じることになる。「働かなくてもいいぞ」と言われ、「一生懸命働くのは善いことだ」という価値観にも根拠がないのだと思っていたとしても、無意識化された内的規範は「一生懸命働くべきだ」という命令を身体に刷り込んでいる。そうなると、「やはり働かなくてはだめかな...」という気になってしまうのである。

こうして近代社会は強力な社会規範を内面化し、私たちの意識と身体を統制することになったのだ。しかし、やがて社会規範は絶対的な根拠を失ってしまうことになる。戦後の社会を世界的規模で動かしたマルクス主義も、東西ドイツの統合とソ連の崩壊によって終息を迎え、その一方で、資本主義経済がもたらした豊かな生活は、人々に社会を変革する必要性を失わせてしまう。加えて絶対的な真理などないという主張が強くなり、普遍的なルールに基づいた社会など必要ないし、もともと実現不可能だ、という相対主義的な考え方が主流となるのである。形而上学批判を中心としたポストモダニズムは、こうした考え方に拍車をかけるものではあったが、それはある意味で自由を守ろうとする屈折した反動だったとも言える。すでにアルチュセールやフーコーらの構造主義は、主体性が社会の見えない構造によって規定されてしまうことを暴き出し、主体性を中心とする考え方を批判していた。それを受けたポスト構造主義にとって、どれだけ社会規範の拘束から逃れ、自由に欲望を満たすことができるのか、それが問題だったのである。

そして確かに社会規範の拘束力は弱まり、理不尽な社会的ルールは淘汰されつつある。表面的には自由な社会になってきたようにも思える。しかし、私たちは本当に自由を感じ、生き生きとした生活を送っていると言えるのだろうか。自分の意志で行為を選択している、そんな充足感があるのだろうか? 自由な行動が許されていても、そして他人から「君は自由でいいね」と言われたとしても、自分の選択した行為や考え方に漠然とした違和感があるなら、自由だという満足感を得ることはできない。何かによって動かされている、こんな気分にさせられている、そんな違和感があるなら自由とは言えないのである。

近代は外部の社会規範を内面化する過程において、自分自身の内側に超越的な他者を作りだし、その監視する他者の視線を無意識のうちに感じてしまう主体、内的規範に従属する主体を生み出してきた。そこに意識と身体、理性と感情の分裂感が生じることになったのである。そして内的規範があまりにも欲望に反するとき、この欲望は無意識に抑圧されることになる。そうなると、意識的には違和感など無くなるのだが、抑圧された欲望は様々な身体的反応として現れはじめるのだ。例えば足が動かなくなったり、身体的機能に異常が現れるヒステリーはその典型である。この今世紀初頭まで多くの人々を悩ませた神経症は、フロイトの精神分析によって、意識化による治療が効果的であることが明らかとなった。つまり、「考える私」と「感じる私」の統合である。

現在ではヒステリーは少なくなり、同じ神経症でも不安発作や身体化障害が主流である。ヒステリーでは不安が無意識に抑圧されるため、身体的な麻痺は起こっても不安は生じない。しかし昨今の神経症は不安が前面にあり、そこに自覚的な苦しみがあるのだ。これは先に述べたように、内的規範による抑圧が失敗している可能性が強いのだ。つまり、抑圧を引き起こす内的規範が弱まり、絶対性を失っていることの証しなのである。ボーダーラインやうつ病の増加もまた、衝動的な欲望、感情のコントロールができない人が増えている証しであった。結局、社会規範が絶対的な根拠を失っているために、その内面化である内的規範の効力が弱まり、衝動的な欲望や感情を抑えることが難しい時代となったのである。

規範がなければ自由になる、というポストモダン的な発想は、自由の意味を捉え損ねているに過ぎない。実際には内的規範があるからこそ、それを基準に主体的な行為の選択が可能となり、自由な意志によって生きることができるのだ。確かに内的規範は超越的な他者の視線を強め、矛盾した言動やヒステリー症状を引き起こす可能性も大きい。しかし内的規範がなければ、主体的に生きるどころか、簡単に他者の判断に身を委ねることにもなるのである。自分なりの価値観も判断基準もないために、他人のやることを模倣して流行ばかりを追い、判断してくれる超越的な他者を求めてオウム真理教に身を委ねる。私たちが本当に自由な生を求めるなら、自らの欲望に極度に反しないような規範、むしろ自ら望んで従えるような内的規範が必要なのである。では、人は一体どのような過程を経て社会規範を内面化し、内的規範を形成してゆくのだろうか。それについて、精神分析学の視点から確認してみることにしよう。


内的規範の形成

人間は生後6ヶ月から一年半ぐらいの間、鏡像段階と言われる想像的な世界を生きている。それは、言語によって分節されていない世界であり、見えるものだけが全ての世界である。母親が乳児に「いない、いない、バア」と言いながら両手で顔を隠すとき、この子にとって母親がそこに存在しているなど、思いもよらないことだろう。象徴の世界を知らない乳児にとって、見えないものは存在しないのであり、「バア」と言いながら顔を現わしたとき、初めて母親がそこにいることを知るのである。両手で隠されたままで、その向こう側に母親が存在することを知るためには、見えないものを別の「何か」で置き換え、表象できなければならない。この置き換えられた代理の「何か」こそ、記号、言語なのである。

ラカンによれば、子どもは目の前に現れては消える母親に対して、その原因が父親の存在と関係があること、しかも父親の身体と母親の身体には決定的な違いがあることに気づかされる。つまり父親のペニスが、母親の「あるべき場所に無いもの」として認識され、見えないペニスの表象(ファルス)が現われることになる。こうして最初のシニフィアン(意味するもの)が、「母親のファルス」という見えないものを代理し、言語が誕生するのである。見えないものは言語によって表わされることで、「無」いものから「有」るものへと変換する。無を出現させる領野こそ言語の世界(象徴界)なのである。このファルスに視点を当てた仮説には疑問も残るのだが、重要なのは私たちが言葉の世界に生きてゆくためには、必ず「見えないもの」「無いもの」を表象する必要があり、「見えないもの」は、言葉で表されることで「見えるもの」になる、ということなのである。

その後、シニフィアンは次々に連鎖しながら象徴界の秩序を形成し、言語の世界を構成する。一方では無意識に抑圧されるシニフィアンをも生じ、無意識の構造を形成するのである。こうして世界は言語によって分節され、様々な意味として現れることになる。その意味が他者と共通の意味であり得るのは、この象徴界の形成には他者とのコミュニケーションが不可欠だからである。特に社会規範の内面化においては父親の役割が重要となる。それまで絶対的だった母親との関係は、父親の介入によって崩れることになり、父親は社会規範のモデルとなるのだ。父〓母〓子における葛藤(エディプス・コンプレックス)を乗り越えることで、子どもは内的規範を有する主体的な存在となってゆくのである。ジンメルは社会秩序の成立する条件として、第三者の存在を重視しており、三者関係はメタ・レベルの関係(関係に対する関係)を可能にし、効力のあるルールを成立させるのだという。それと同じことを、ラカンは母親と子どもの二者関係に介入する第三者、父親の存在として捉えている。父親は全ての他者を代表する存在なのであり、父親の発言は社会を代弁したものとなるのである。

例えば「他人を殴ってはいけない」と、父が命令すれば、その言葉は内面化され、相手に腹が立った場面においても、「殴ってはいけないんだ」と無意識のうちに感じてしまうことがある。つまり、内的規範は必ずしも意識的に機能するわけではなく、無意識のうちに内的規範に従ってしまう場合が多いのである。「殴ってはいけないんだ」と意識的に感じる場合もあれば、「殴りたい」と思っていても手が出ない場合もある。後者の場合は、「殴ってはいけない」という規範が無意識のうちに身体化されているのである。逆に「殴ってはいけない」と思っていても手が出てしまうこともある。それは「殴りたい」という欲望が無意識のうちに働くからであり、欲望もまた意識的な面と無意識的な面があるのだ。そこに、意識的に「考える私」と身体で「感じる私」のズレが生じ、考える私には予測できない行為や感情を生みだすのである。

このような過程を経て私たちの内的規範は形成され、欲望を抑制することが可能となる。シニフィアンの連鎖によって形成された言語の秩序において、父をモデルとして形成されたものこそ内的規範の基礎になるのである。この「〓すべきだ」と指示する内的規範のことを、フロイトは超自我と呼び、「〓したい」というエスの欲望とぶつかり合うことで、自我は行為を選択するのだと述べている。また、超自我は命令するばかりではなく、理想の役割をも有している。父の言葉が内的規範のモデルになるということは、この規範を有する父親が理想的な自己像の原型になるということでもあり、私たちはこの理想を求めながら、自分が何者であるのかを絶えず問い続けているのである。こうした理想的な自己像をフロイトは自我理想と呼んでいるのだが、このことは大きな意味を持っている。内的規範は単に衝動的な欲望をコントロールするだけではなく、それによって理想的人間像に近づくことになり、しかも「〓すべきだ」という命令を守ることによって、父親と母親に褒められ、愛されるという喜びをも得ることになる。つまり、小さな欲望を抑えることによって、より大きな欲望を満たす可能性を有しているのである。

こうした欲望に導かれながら、私たちは自我を形成してゆくことになる。ここで重要になるのが他者とのコミュニケーションだ。例えば、他者の「君は楽観的だね」という発言から、「私は楽観的な人間なんだ」という自己像を作り上げ、「考える私」はこの自己像に同一化するのである。しかし、悲観的な考えを紛らわすために明るく振る舞っていただけだとしたら、そこには違和感が残ることになる。この違和感によって、まだ語られていない本当の自分、楽観的ではない自分がいるように思えてくる。そこには、意識して「考える私」と、無意識のうちに「感じる私」のズレがある。このズレの感じは、無意識的な言動を指摘されたとき、例えば自分は楽観的だと思っていたのに、「君は楽観的に振る舞っているけど、何か無理があるんじゃないの?」と言われれば、「私は本当は楽観的ではない」ようにも思え、自己像を修正してゆくことになる。私たちは、絶えず無意識的に「感じる私」を「考える私」に統合させつつ、自我を形成しているのであり、それと同様、こちらも他者の無意識的な言動を相手に伝えている。つまり、他者との対話を通じてお互いの自己像を修正しているのである。

さて、私たちの内的規範がどのような過程を経て形成されるのか、いまや明らかになったと思う。それは初期の母子関係、そして父〓母〓子の三者関係が重要な意味を持つことを示している。社会規範を代表する父の存在は、「〓すべきだ」と命令する厳格な規範であると同時に、その規範を身につけた模範的人間像でもある。そしてこの模範的人間像に基づいて自我理想を形成し、他者と関わる中で自己像を修正しつつ、「こうありたい」という自分を探し続けるのである。つまり、内的規範は単なる社会規範のコピーなのではなく、そこには自分が「こうありたい」という理想が含まれている。だからこそ、内的規範に準じた行為の選択は、理想へ近づくような自由の充足感が生じるのだ。逆に言えば、理想が失われた内的規範は、根拠のない単なるルールに過ぎなくなり、他のものに動かされ、従わされているような違和感を生じることになるのである。


無意識の現象学

このように、内的規範は衝動的な欲望を抑制するだけでなく、この抑制によって他者に認められる欲望を満たすことができるのであり、他者に認められる理想的な自己像に近づくことを可能にする。しかし、社会規範が絶対的な根拠を失い、確かな価値基準を持てない時代になってきたために、その中で育てられた子どもは、確かな内的規範を形成することが困難な状況にある。内的規範がなければ、理想的な自己像を抱けない慢性的な虚無感に支配され、抑制されない衝動的な欲望は、極端な行動や違和感を引き起こしてしまうのである。この意識が身体、感情をコントロールできない状態を、ここまで無意識という概念を使って明らかにしてきたわけだが、実際には無意識や外部の世界というものは確認することはできない。そもそも確認できないはずの無意識の存在が信じられているのは、むしろ意識的に身体をコントロールできない状態に直面するからなのである。

例えば、スポーツの訓練や車の運転の場合、自分ではそんなに注意深く意識していなくても、身体が勝手に動いてくれることがある。習慣化してしまった行動も同じことで、ほとんど意識しないままに身体を動かしているものでる。この場合、身体は意識的なコントロールを超えて動いているのだが、「考える私」の望み通りに身体が動くために「感じる私」は強く意識されない。逆に「身体がいうことをきかない」、「感情のコントロールがきかない」ということもある。いつのまにか愛してしまう、楽しいはずなのに悲しくなる、そんな状況は誰もが頻繁に経験することだろう。身体や感情のコントロールがきかないとき、何かによって身体や感情が動かされている、という感じが強くなり、自分の意識の外部に無意識が存在し、それが私をコントロールしている、と考えることになるのだ。というより、私を動かしているように感じさせるものを無意識と呼んでいる、と言ったほうがいいだろう。意識と身体が、あるいは理性と感情が分裂しているように感じるとき、その原因として措定されたものこそ無意識なのである。

こうして、無意識によって動かされている、こんな気分にさせられている、という直観から出てくるのが構造主義である。すでに見てきたように、それは無意識の構造、社会の見えない構造によって個人の信念や行動が規定されてしまう、という考え方だ。また、身体が意識を生み出している、他者こそ自分の言動を規定しているというような考え方も、結局は「自分以外の何かによって動かされている」という直観から理論化されているのである。しかし、フッサールが主張したように、私たちは意識の外部を確認することは不可能なのだ。意識の外部に無意識や他者を措定する考え方は、優れた仮説としては有効であり、だからこそ、私はここまで構造主義的な視点から述べてもきた。しかし、そのことは外部の構造を自明なものと考えることとは違うのである。

無意識という仮説を使わずに考えるなら、何かによって動かされているという直観は、ただ身体、感情が主体的な選択によっては動かないことだけを示している。そのことを被投性という概念によって、気分は考えるより先に動いてしまうことを示したのがハイデガーである。この考えは、人間の主体的選択という自由の可能性に疑問を投げ掛けることになり、後期の主体性に批判的な言説へと転回してゆくことになる。そして、この後期ハイデガーの思想は、戦後の主体性批判、理性批判に大きな影響を与えることになる。つまり、他者、身体、無意識によって主体性が規定され、理性の判断に限界があることを主張するような現代思想は、その基本的発想をハイデガーから受け継いでいるように考えられるのである。

しかし、外部の構造を前提にした考えでは、私たちの内的な実感が考慮されないことになる。すでに述べたように、主体性が無意識や他者によって規定されてしまうのだとしても、私たち自身が納得し、満足できていれば問題はないはずだ。敬虔なキリスト教徒が誰に迷惑をかけることもなく幸福を感じて生きているとすれば、彼から神を奪う権利など誰にもありはしないのだ。もちろん、規範なら何でもいいわけではない。身体的な快楽、性的な欲望を極度に抑圧した西欧の近代社会では、意識と身体の極度な分裂によって、多くのヒステリーや強迫神経症を生み出している。衝動的な欲望を抑えることで、社会的な承認への欲望を満たすことができるとしても、極度な抑圧はどこかで無理を生じさせるのであり、その内容とバランスが問題なのである。

社会規範の根拠が確かなものでなければ、子を育てる親自身の内的規範も根拠を失い、自信を持って社会のルールやモラルを教えることができなくなる。したがって、いま必要なのは、子供たちが確かな内的規範を形成できるよう、私たちが共通に了解できる社会規範の可能性を考えることであるはずだ。言うまでもなく、客観的に絶対正しい社会規範などというものは存在し得ない。だからこそポストモダン的な相対主義が強くなったのであり、社会規範の絶対性を求めれば、それはイデオロギーという信仰対象に変質する危険性が高くなる。それは得てして極度な抑圧を引き起こし、意識と身体の乖離を引き起こす。したがって必要なのは、私たち自身が選び取った規範、私たちの欲望に見合った規範なのである。

では、私たちの欲望とは何なのだろうか? それを知るためには、私たちは欲望に関する様々な仮説に頼ることをやめ、自分自身の意識に問わねばならない。欲望を内在的な視点から捉え直すことで、私たちは「自分が何を求めているのか」を明らかにすることができるはずだ。そこで有効になるのがハイデガーの実存論的な考え方と、ヘーゲルの相互承認の欲望についての考え方である。自分自身の欲望がはっきりしてくれば、その欲望に即して社会規範を考える可能性が開かれる。私たちが求めているような規範を作ることで、極度な抑圧が生じない内的規範を持つことができるだろう。そして、この客観的に正しいわけではない規範、それでいて多くの人が認め得る規範を考えるためには、フッサールの現象学的方法が必要になるのである。


欲望と共通了解

ハイデガーの『存在と時間』によれば、目の前の「いま、ここ」においては、私たちの関心(気遣い)に応じて様々な意味が現れていることになる。言い換えれば、世界の意味は自分自身の欲望に相関して現れているのである。それらの意味は相互に連関しており、この意味連関を辿れば、私たちが何であり何でありうるかという、存在の可能性に繋がっている。それは、これまで自分が「何であったか」という了解から、今後「何でありうるか」という可能性をめがけて生きている、ということでもある。例えば「いま、ここ」において、嫌いな相手と会ってムカムカした気分になったとしたら、自分がその相手と「会いたくない」という欲望を抱いているのだと、即座に了解するだろう。しかし、ずっと先の自分の姿を思い浮かべ、人生を長い時間において捉え直すことができるなら、その場限りの衝動的な欲望を超えた、自分の将来における大きな可能性を求めることもできるのだ。可能性への欲望、それは内的規範が衝動的な欲望を抑制し、理想的な自我像ともなることによって初めて可能になるのである。

さらに突き詰めるなら、私たちの欲望は他者との関係を抜きにしては考えられないことに気づかされる。他者との関係の基本はお互いを認め合うことによる愉悦にある。つまり私たちは他者に認められること、他者の欲望するものを欲しているのであり、社会から離れて生きたり、社会とは全く違う価値観を固持して生きることは、多くの人々には耐え難いことなのである。ポストモダニズムでは、あらゆるルールからの解放を自由と考えているが、それは私たちの日常の実感からかけ離れている。行為の選択を主体的に選び取ることができなければ、自由に生きていることを感じることもできない。自由を感じるためには、他者と共通に了解できる社会規範が必要であり、ほどよい社会規範を他者と共に選び直す可能性があるのなら、その規範は他者との関係を繋ぎ、自由の感触をもたらすはずなのである。共通に了解されたルールには自分の意志で選び取ったものだという充足感があり、他者と認め合える喜びや、自ら選んだ行為だという納得が生じるのである。

しかし、この相対主義的な価値観の支配する世の中にあって、絶対的で客観的なルールを持ち出すような愚を繰り返すことなく、誰もが共通に了解し合えるようなルールを作ることなど、一体可能なことだろうか? ここで重要になるのが現象学の本質直観という考え方である。本質直観とは、様々な物事を認識する際、意識に直接与えられた(思い浮かんだ)意味を受け取ることだが、これを自覚的に誰にでも成り立つ共通の本質として取り出す作業でもある。例えば「よいルール」を作ろうとした場合、何が「よいルール」の本質であるのかを本質直観し、はっきりさせる必要がある。その際、宗教や思想的なイデオロギー等、いかなる前提をも持ち込んではならない。「よいルール」という言葉から直接思い浮かぶイメージや意味だけを意識に問い、その意味が誰にとっても成り立つような共通本質を求める必要があるのだ。

客観的な善悪の基準が有り得ないとしても、誰もが勝手気ままに行動すれば社会は成り立たない。そこで、お互いが共通に認め合うルールが不可欠となる。しかし、いかに民主的に決定されたルールであろうと、自分の欲望を制限するものでしかなければ、「何かが違う...」と感じてしまう。それは自分にとっては「よいルール」とは言えない。しかし、相手が恋人や友人であれば喜んで譲歩もするだろうし、ルールを甘んじて引き受けることができるだろう。子供が衝動的な欲望を、母親に「だめ」と禁止されることで次第にそれを守り始めるのは、一時的な衝動的欲望よりも、母親に喜ばれ、褒められることを欲望するようになるためだ。こうした他者との関係性のエロスによって、むしろ積極的に他者とのルールを含んだ関係を作ってゆくことになるだろう。このとき、そのルールは押し付けられたものではなく、自ら望んだ関係として、「よいルール」だと感じられるようになる。私なりに本質直観するなら、他者に迷惑を掛けないだけでなく、「他者と共に選んだ」という関係性のエロスがあること、それが「よいルール」の本質なのだと思う。

だとすれば、共通に了解できる社会規範があるということは、その規範に従う義務だけではなく、人間が他者と認め合えるものを共有することでもある。そこには単なる規範からの解放よりも、一層大きな喜びがあるのである。こうして自分なりに取り出した本質を他の人たちと話し合うことができるなら、多くの人が納得するような共通本質を取り出すことが可能になるだろう。共通本質から話し合わなければ、根拠のないルールを作ってしまうことになりかねない。個々人の本質直観から共通了解を求めて話し合うこと、そこに私たちの欲望に見合った社会規範を作る可能性が開かれるのである。

勿論、現実に共通了解できるルールを作ることは簡単なことではない。特に社会全体の大きな問題については、私たち一人一人の声は届きにくくなっており、話し合うだけ無駄だという空気が拡がっている。しかも、ポストモダン的な「絶対正しいルールは存在しない」という考え方が、「何をやっても無駄だ」という実感を補強し、社会全体にニヒリズムを蔓延させているのである。そのため、未来の可能性への欲望は断念され、その場限りの欲望を満たすだけの、変わることのない日常を生きるしかない、そんな気にさせられてしまうのだ。しかし、自らが参加して社会規範を作り直すことができるなら、多くの人にとって大きな可能性が開かれることになる。それは、他者と認め合える社会に変え得るという可能性、平板な日常を打破する可能性であり、この可能性のエロスを感じることが、ニヒリズムを克服することになるのである。

今日のように社会規範の絶対性が失われ、相対主義的な価値観の強い時代であれば、各個人の内的規範も共通性が少なくなる。そして、ある程度共通の内的規範が成立していなければ、共通了解といっても簡単にはいかないだろう。しかし、共通了解がなかなかできない人、拒否反応を示す人でも、自分の考えや感じ方を理解してもらいたい、他人と共有したいと感じているものだ。自分たちの欲望が結局は他者を必要とし、可能性を必要とするのだと気づくなら、そしてそのことが確認し合えるなら、それだけで欲望の本質については共通了解ができるのだ。その上で、自分が何故そのような考え方をするのか、その理由を相手に伝えようと努力すれば、相手と自分の考えが全く違うものだとしても、求めているものは同じだと納得できるはずである。そして、相手の考え方をすぐには受け容れられなくとも、もう一度自分の考え方を反省し、もっと相手と分かり合いたいと思い始めるに違いない。そこから少しづつ進んでいけばいいのである。


身体的表出と暗黙の了解

さて、確かな社会規範を作り直す可能性、他者と認め合える社会を作る可能性が、現象学的方法によって開かれ得ることを示してきた。しかし、社会規範は必ずしもはっきりと言語化され、公開された形で機能しているわけではない。私たちの規範は二重性を帯びているのであり、はっきりと意識され、誰もが口に出して認め合っている規範の他に、はっきりと口に出されない規範、暗黙のうちに成り立っている規範があるのだ。暗黙の了解という言葉が示すように、この規範の了解は身体的表出が深く関わっており、言語化されたコミュニケーションとは別の次元で行われる。それは意識的な身体表現というより、なかば無意識的な振る舞いや表情による身体的表出なのである。

日本人はそうした身体的表出に対して、口に出さず、それとなく察することを大事にしている。「日本人は何を考えているのか分からない」という外国人が多いのは、日本人がこのような暗黙の了解を大事にし、「敢えて口に出すことではない」と考えることが多いからなのである。暗黙の了解がうまく機能している場合は、強い共有感を生み出し、他者から認められたい欲望は、言語化された場合以上に満たされる。また、日本は「罪」の意識よりも「恥」の意識が優位な社会だと言われている。西欧の人たちは社会規範に反する行為をした場合、その規範の命令を発する超越的な他者(神、父)への罪責感が生じるのだが、日本人の場合は世間への羞恥心が生じるというのだ。つまり、日本人は社会規範に準じて行為するというより、その都度の他者との関係性に準じて行為を選択するのである。その場の雰囲気を察し、「間がわるい」と言われないように気をつけ、他者に対して恥をかかないように振る舞っているのである。だからといって、日本人にとって言語化された社会規範が重要でないわけではない。暗黙の了解は「多分、こう思っているだろう」という不安定な了解なのであり、言語化された社会規範が確かな根拠を失っていれば、バランスを失ってしまうのである。

また、身体的表出の意味をどう受け取るかという問題は、言葉を発する行為そのものにもつきまとう。言葉を話すことは単にメッセージを伝えるだけではなく、それ自体が行為を遂行しているのであり、言葉で表現された意味以外の意味を含んでいる。この行為遂行的な発言における暗黙のメッセージを察することができない人は、他人のちょっとしたしぐさや表情から本音を読み取ろうと努力したり、そのことで不安を抱き続けることにもなる。それが過剰な疑心暗鬼に変化すれば、対人恐怖症になるだろう。対人恐怖症は日本人に多い神経症として有名だが、それは日本が暗黙の了解を強く求められる社会だからである。

このように、暗黙の規範が強く機能している社会では、身体的表出によって送られるメッセージの意味を受け取ることは不可欠となり、それができなければ疎外感と対人不安が強くなる。そしてこの他者の身体的表出の受け取り方は、母親の態度から学んでいる面が大きいのだ。最初に述べたダブル・バインド状況にある親子を考えれば分かるように、言動が矛盾した母親に接している状況の中では、身体的表出の意味を理解する力を培うことは非常に困難なのである。日本は父性の欠如した母性中心の社会と言われているが、それは父〓母〓子の三者関係よりも、母〓子の二者関係のほうが優位な社会だということである。第三者としての父親の力が弱ければ、言語化されたルールは効力を発揮しにくく、その場の雰囲気、身体的表出の暗黙の了解、そうした確認し得ないメッセージのやりとりが多くなる。

暗黙の了解には他者との強い繋がりを感じさせる力を持っているのだが、それは外部の人間を寄せ付けない閉鎖性をも有しており、現実的に効力のあるルールにはなりにくい。言語化された社会規範の根拠が失われれば、暗黙の規範はさらに不確かな了解、不信感の残る意味の受け取り、不安定なコミュニケーションに変質する危険性さえあるのだ。しかし、私はこの暗黙の了解が強く働く日本社会を批判し、西欧的な父権社会の実現を主張したいわけではない。話し合いによっては解決できない暗黙の規範、それが私たちの社会に機能している事実をよく踏まえた上で、話し合いによって成り立つ社会規範を考えてゆくことが必要なのである。十分に納得できる社会規範でなければ、あのダブル・バインド状況の母親のように無理な抑圧が生じ、多くの言動が一致しない人たちを生み出すことになる。そうなれば、いかに言語化された社会規範があっても、暗黙の了解を理解できない子どもたちを生み出してしまい、悪循環に陥ってしまうことにもなる。言語化された規範が確かなものになれば、身体的表出による暗黙の規範もうまく機能し、この二つが調和された形で内面化されるなら、私たちの内的規範はより納得できるもの、理想的なモデルと感じることができるはずだ。そうなれば、「...しなければならない」という義務感より、敢えて「...することを望む」という気持ちの中で行為を選択できるだろう。それこそが自由の実感に繋がっているのである。

自分の人生を自分の意志で選び取り、主体的で自由に生きること、それを全く望まない人はいないはずだ。それなのに、その場の衝動的欲望に振り回されたり、他者の模倣や宗教の教祖に絶対服従してしまう人たちが増えている。彼らは自分の意志で自由を放棄したのではなく、内的規範がうまく機能していないだけなのである。そうした社会を少しでも自由な社会に変えてゆくために、確かな社会規範を築く必要性、そしてその具体的方策として現象学の有効性を、様々な側面から本論では主張してきた。無論、実際には困難な問題も多いだろう。しかし、「何をやっても無駄だ」という空気の漂う現代社会の中で、「社会は望ましい方向に変えることができる」のだと思えるよう、その可能性を少しでも拡げてゆくべきなのである。