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05. 丸山圭三郎『ソシュールを読む』(5〓8)

ソシュールを読む

(2007.2.3.山竹伸二)

第五講 講義〓――記号学とは何か――
11 講義〓の構成と視点 :講義〓は「序説」と「一般言語学序説としてのインド=ヨーロッパ言語学外観」で構成されている。重要なのは前者だが、そこには「記号学とは何か」というテーマの下に、一般言語学講義が凝縮された形で提起されている。「記号学」の対象は文化現象の全てであり、人間が世界を恣意的記号によって分節し客体化するため、本当の〈生きられる世界〉が隠蔽されて見えなくなっている状況を、コトバの本質に光を当てることで解明しようとするものだ。ソシュールは、まずランガージュ、ラング、パロールの概念を明確にし、言語学を〈一般記号学〉の一部門として位置づけている。また、〈言語=名称目録〉観を否定し、コトバの恣意性を説いている。次に〈語る主体〉の意識の問題に立入り、「構造と歴史」の問題として〈共時態〉〈通時態〉を導入する。後半では、ラングの二つの軸である顕在的な〈連辞関係〉と潜在的な〈連合関係〉が「差異の差異化現象」という視点から捉えられ、「ラングには差異しかない」という結論に達する。(この講義では「序説」を中心に説明する)

12 コトバの両義性とランガージュ、ラング、パロール :ソシュールはランガージュ、ラング、パロールを次のように定義している。〓ランガージュ・・・コトバ、人間特有のシンボル化能力(概念的思考を可能にし、予見と計画に基づいて現実を変化させる手段)。〓ラング・・・言語(国語体)、ランガージュが特定の社会の中で制度化した構造・社会制度(コード)。〓パロール・・・言葉、個人の発話行為(メッセージ)。人間は種に共通なゲシュタルトではなく、制度化されたラング(個別文化に共通なゲシュタルト)を通して現実を分節せざるを得ない。ランガージュという潜在能力が「普遍的なもの」だとすれば、ラングは「個別的なもの」なのだ。たとえば、人間はどの共同体でも家族を持ち(普遍的)、かつ家族制度の形態は文化によって異なっている(個別的)。前者がランガージュに、後者がラングに対応するのだ。また、ランガージュは潜在能力であり、ラングは顕在化した社会制度だが、ラングも顕在化したメッセージであるパロールに比べれば、潜在的コードだと言える。日本語を理解できるのも、日本語のコードが(暗号表のように)頭の中にあるからだ。これは生まれた時から身についた文法であり、無意識的「記号と規則の体系」なのである。

13 記号学の誕生 :言語学は記号学という学問に包摂され、〈一般記号学〉の一部門として〈言語記号学〉と呼ばれるが、一方、言語は記号学の原理的モデルであり、記号の本質は言語によってしか見出せない。記号学は言語学を通してしかなし得ないのだ。その意味では、(バルトが主張したように)記号学のほうが言語学の一部門とも言えるが、しかし、文化と言語に共通する〈恣意的価値〉としての記号性そのものは、言語学を超える原理論によって扱われねばならない。ソシュールはこの原理論を記号学と呼んでいる。それは言語を含めた一切の記号の科学、「自らの思考を表現する時に生み出される諸事象の研究」であり、すべての表意活動(身振り、歌、叫び、描画など)を対象とする。

ソシュールは文字法を例にとって、記号性の本質を次のように説明している。《文字法の性質は次の4つ。〓記号の恣意的性格(記号とそれが指示する事物の間には関係がない)。〓記号の否定的で示差的な価値(記号は価値を差異のみに求める)。〓文字法の価値は対立的であり、対立関係においてしか価値とならない。例えば、ロシア人にとってのPは、ギリシア人にとってはRである、など。〓記号の生産手段は非関与的である。記号を白で書こうが黒で書こうが、そんなことは非関与的でしかない。以上の性格はすべてラングにも見出せる。リンゴとして知られる事物には、Apfel(独)でもpomme(仏)でも指示できるし、その結びつきに必然性はないし(〓)、ラングもすべて差異と対立から構成されている(〓〓)。また、ラングは音声器官で発音されることが必然的、というわけでもない(〓)》。

以上のソシュールの主張には、記号とシニフィアン、シニフィエと指向対象の混同が見られるので、いささか問題がある。文字法の場合、シーニュが文字、指示されるものが読み方(発音)なので、確かに両者には自然的絆がない。しかし、リンゴの例では、記号をシニフィアンの意味で使っているので、誤りである。Apfelとpomme が同じ指向対象を持つことがあっても、二つの語の価値は異なり、シニフィエは異なっているからだ。これは〓と〓の性格と矛盾する。〓の主張は、記号を構成しているものは「・・・である」という実定的な特質ではなく、「・・・ではない」という否定的な差異である、ということだ。(「れ」という文字は「わ」でも「ね」でもない限りで、どのようにくずして書いても「れ」という価値に変わりない)。色を二色にしか区切らない人にブラウンの色を教えるため、ブラウン色の物を500集めて学習させても、ブラウンとレッド、イエローなどとの区別を教えなければ、ブラウンの意味を知るには至らない。ブラウンは独立の概念ではなく、他の色との関係によってのみ価値が決まるのであり、指向対象はコトバ以前に存在しないのだ。

ソシュールは次のように主張している。《これまでの言語研究においてこの主題が現われてこなかったのは次の理由による。〓言語を名称目録のように見なし、言語内の価値が相互的に決定される事実を見落としてきた。語は(対象ではなく)体系に依存しているのであり、孤立した記号というものは存在しない。〓記号のメカニズムを、個人の精神的・物理的行為の中に見出そうとしてきた。〓記号を考察すべきだと認めても、人はそれを自分の意志に依存するかのように捉え、言語を契約や協定のようなものとして語る(実際には記号は意志を逃れてしまう)》。

以上のソシュールの主張には、ある循環論が示されている。それは、記号学が成立しなかったのはラングの本質を正しく捉えなかったからであり、しかしそれは記号学によらない限り見えてこない、という循環である。そこでソシュールは次の3つの言語観を批判する。〓言語=名称目録という考え方への批判(コトバ以前に指向対象が存在することはないと主張し、語の価値は体系内の対立関係からのみ生じるとした)。〓個人の心理や生理現象を研究してもラングの本質は捉えられないという批判。〓言語を契約のごとく見なす考え方への批判(ラングという共同幻想は、人為的関係に過ぎないのに、変革不可能な物神性を呈している。惰性化が強く、社会制度のようには意識されないのだ。)以上のように、一切の文化記号の本質は、言語の性質を追求することによってはじめて見えてくる。両者が共通する特徴は、非自然性という意味での恣意的価値体系であることと、記号の形相性なのである。

第六講 講義〓――記号学とは何か(続)――
14 単位、同一性、価値 :ラングは自然的・絶対的特性によって定義される個々の要素が集まって全体を作るのではない。個の価値は、全体との関連と、他の要素との相互関係の中ではじめて生じる。ラングが体系である限りは単位もあるのだが、この単位は非実在的なものである。あるのは単位を存在させる関係だけであり、関係を樹立する人間の視点だけなのだ。文化現象の一切は表象によって二次的に生み出される非自然的価値、共同幻想の世界で、その表象さえもともとは存在しなかった関係の網の目に過ぎない、というこの考え方は、西欧近代思想を根底から揺さぶるように思える。一切のア・プリオリは否定されてしまうからだ。

「同一性とは何か」という問いが、単位を決定する鍵となるが、同一性には次の2種類がある。〓個的・実体的同一性・・・自然な世界の中に見出される実定的関係から生まれる。これは感覚=運動能力を用いて本能的に見出す実体的同一性であり、人間という種に固有の分節によって生み出される(種のゲシュタルト:これも一種の意味構成であり、自然の中に存在する物理的構造の反映ではない)。〓構造的・関係的同一性・・・人間の文化の中にだけ見出される同一性で、関係が生み出した一切実体的裏づけのない同一性。これは次の二つに分けられる。1)実体的に同じでも関係的に異なる場合(例:1ドル紙幣と百ドル紙幣は同じ紙質で同じ形・重さでも、価値には差がある)。2)実体的に異なっていても関係的に同一である場合(例:1ドル紙幣と260円は価値は同じでも実体的には異なる)。

文化の本質は関係であり、実質はその支えに過ぎない。チェスの例で言えば、それぞれの駒の「価値」は体系の中の価値でしかなく、即自的な価値ではない(駒が象牙で作られているなど、物質性や形は関係ない=非関与的)。また、語の「意義」も文の中に置かれてはじめて生まれる。(「価値」と「意義」はラングのレヴェルに属するが、「意味」パロールに属する。文脈という抽象的コンテクストによって生み出される有限数の「意義」は、発話の状況や聞き手との関係性など具体的コンテクストに置かれることで、無限数の「意味」を生み出す・・・丸山説)

15 構造と歴史 :ラングの本質を探るためには、価値の均衡状態とその変動を明るみに出す必要があり、「体系の歴史」(b)と「実体的個の変遷」(B)を混同してはならない(「実質」の次元の構造Aと歴史B、「形相」の次元の構造aと歴史b:p.151図参照)。〈特定共時態〉が関係的同一性によって構成される恣意的価値体系だとすれば、〈通時態〉は関係的変化であり、価値体系の変動としての「構造史」と見なすことができる。「実質」の次元にある均衡(A)も変化(B)も、主体の意識の外に置かれているため、文化の体系という視点からは非関与的であり、「形相」の次元にある均衡(a)と変動(b)は、主体の意識に到達するため、その文化体系に関与性がある(厳密には、価値の変動(b)も特定共時態に組み込まれてはじめて意識されるので、主体の意識にあるのは不連続な複数の特定共時態だけである)。実質には、〓形相という関係の支えとしてこれを物質化・感覚与件化する素材、〓形相化される以前のマグマ状の意識と世界、という二重性がある。(主体の)意識に訴える関与的な変化とは、価値構造の布置が変わったことであり、実質がそれまでとは異なったやり方で分節されたこと(新たなコスモス化)を意味するので、〓ではなく〓の再分節化こそが真の歴史である。

言語学には「共時言語学」(静態言語学)と「通時言語学」(動態言語学)の二つがある。方法論的には共時言語学が先行すべきだが、通時言語学も重要であることに変わりはない。ただ、それは個々の要素の歴史的変遷が対象ではなく、言語の意味体系や文法体系が全体としてどう変遷したかを対象とする。変遷1:A(x)→A (y)と、変遷2:A(x)→B(x)があるとしよう。変遷1は「Aという要素は変化していないので歴史は変わっていない」とか、変遷2は「Aは要素Bに変わったので歴史は変わった」と考えることはできるだろうか? ラングの諸要素は、実質的支えに変化がなくとも体系内での役割が変わることもあれば(変遷1)、実質面で変化があっても同じ機能を果たしていることもある(変遷2)。たとえば、「つま」はかつて「妻」と「夫」の両者を意味していたが、今では「妻」のみを意味する(変遷1)。また、かつての軍隊は自衛隊に変わったが、その本質は変わっていない(変遷2)。A→Bではなく、x→yの変化こそが、歴史的変化と言えるのだ。(厳密にはp.161図参照)

ソシュールによれば、時代の様々な段階で、まず共時的断面に目を据え、その俯瞰図と俯瞰図を比較することで、体系総体の不連続的変化を記述するのが通時的研究なのである。これは19世紀的な要素主義的歴史観を否定する、構造史の方法を提起するものであった。また、彼は因果律に支配される機械論やその反対に未来のユートピアを設定する目的論的歴史観も否定した。なぜなら、言語は社会的産物であると同時に歴史的産物以外の何物でもないからだ。つまりは全くの人為であり、共同幻想としての恣意的価値体系なのである。

16 連辞関係と連合関係 :形態論(語の構造分析)、統辞論(語同士の結合による文の規則を記述)、語彙論・意味論(語の意味を分析)、といった伝統的区分は、語という感覚与件が自らに外在する意味を指しているという実体論的発想に立っている。しかしソシュールによれば、シニフィアンとシニフィエは切り離せないため、この伝統的区分を認めることはできない。形態は他の形態との対立によってしか存在しない。言語主体は辞項の差異と関係しか知覚せず、別々に分けられたシニフィアン、シニフィエとか、個々の辞項(他の辞項と切り離された個別抽象体)は意識に達しない。残された唯一の区分は、潜在的かつ同時的意識の次元である〈連合関係〉と、顕在的かつ線状的空間の次元である〈連辞関係〉の二つしかない。〈連合関係〉は記憶の倉庫に蓄積された同系列の要素群の関係であり、〈連辞関係〉は言述における顕在的な関係である。私たちが語る時には、記憶の倉庫から既存の差異を引き出してきて連辞と呼ばれる句なり文なりを生産するのだが、その際、新しい関係を生み出すこともできる。既存の語を組み合わせて、かつて存在しなかったメッセージを形成することが可能なのは、シーニュがそれだけでは何も意味しない差異にすぎず、意味は差異が織りなすモザイクから生じるからである。

第七講 講義〓――ラングの解明――
17 講義〓の構成と視点 :講義〓では、パロールがラングという構造の産物でありながら、構造を変えていくという図式(社会制度と個人の実践の弁証法)が語られたが、講義〓と〓では、ラング、パロールは構造と実践に加えて、記号学的還元のための概念装置としても用いられている。つまり、「言語が社会制度である」という視点を、「恣意的価値体系としてのラング」という記号学的認識に掘り下げている。言語だけでなく、一切の文化現象が事実としてのパロールだとすれば、その本質としてのラングは、自然主義的態度による一般的定立(客体化された世界確信)をエポケーすることでしか見えてこない。講義〓では「ラングとは何か」というテーマの下、〓恣意性と必然性、〓線状性と時間、〓否定性と実定性、の三つの問題が扱われる。

18 恣意性の原理 :ランガージュ(人間のシンボル化能力)は、ラング(社会の産物、記号学的制度)によってしか顕在化しないため、ランガージュの問題を解明するためには、まず諸言語を研究し、そこからラングを解明する必要がある。ソシュールによれば、「ラング=受動的なもので、集団の中に存在する。これはランガージュを組織化し、言語能力の行使に必要な道具を構成する社会的なコードである。パロール=能動的で個人的なもの。次の二つのパロールを区別せねばならない。(1)ランガージュを実現するための一般的な諸能力の使用(発声作用など)。(2)個人の思想に基づいた、ラングというコードの個人的行使」(p.188)。(1)は生理・物理的側面で、無意識化に起こるが、(2)は心理・精神的側面で、意識的なものであり、主体の意志に基づく言行為、世界の再布置化、価値創造、という点で重要である。ただ、こうした創造行為も、ラングを前提としてはじめて可能になる。ラングもパロール活動の沈殿した差異の体系なので、ラングとパロールは相互依存的なのだ。

シーニュには〈聴覚映像〉(=シニフィアン)と〈概念〉(=シニフィエ)の二面があり、二つは心的存在であり、不可分離で相互依存的である。しかし、シーニュとシニフィアンを混同する人たちも少なくない。彼らは、シニフィエを言語以前の純粋概念や指向対象と見なすような誤謬に陥っている。多くの人にとって、シーニュとは自らとは別物を指さしている感覚与件=シニフィアンに過ぎないため、自らのうちにシニフィエを担っているという〈非記号性〉が見えてこないのだ。シニフィアンとシニフィエを結ぶ絆は根底的に「恣意的」である。(シーニュと指向対象を結ぶ恣意性のことではない)。

ソシュールのいう恣意性は、次の二つの射程を持っている。(1)カオスがランガージュの網(形相)によってコスモス化され、分節化された結果生じる恣意性(シニフィアンとシニフィエの絆の非論理性:p.198図参照)。(2)網の構成自体に見られる恣意性(分節尺度の相対性)。(1)の恣意性の場合、シニフィアンは音のイメージである必然性すらなく、文字のイメージでも、触覚のイメージでもよい。これは、〓自然に見られる指標(「黒雲」が「嵐」を予告する場合、そこには因果律に基づく自然的絆がある)、〓人工の指標(「ナイフとフォークの絵」が「レストラン」を示す場合はある程度自然的感覚が働いているが、「信号の色」が「停止」や「注意」を示す場合はかなり恣意的)、〓言語記号(完全に恣意的であるばかりか、シーニュの中にシニフィエが包み込まれている)、に分けられる(p.199図)。実は〓の記号はあらかじめ分節された事物と概念を指しているシニフィアンに過ぎず、シニフィエの方はすべて言語記号によって誕生した指向対象か概念である。このような事物や概念の分節は、言語の網をかける以前には存在せず、その分節の基盤は言語体系自体のうちにある。だからこそ、言語は記号一般のモデルになるのだ。このように、シニフィアンとシニフィエの結びつきは恣意的だが、勝手に作り変えられるわけではなく、私たちの意識に到達するものは、シニフィアンとシニフィエが一体となったシーニュであり、それは必然的なものとして押し付けられるのである。

19 線状性の原理と言語の本質体 :〈恣意性の原理〉とならぶ記号の本質として〈線状性の原理〉がある。恣意性が記号の非自然性、非実体性という面での形相性を生じせしめる原理だとすれば、線状性の方は、言語記号の離散的、デジタル的性質という面での形相性を生み出す原理と言える。言語においては、シニフィアンが聴覚的性質を持っているため、時間の中でのみ展開し、一方向の拡がりを表し(一方向性=非可逆性)、また唯一の次元においてしか形作られない拡がりを現す(一次元性=線性)。この場合の時間とは、一線に置き代えられた時間であり、だからこそ不連続な離散的、デジタル的性格が現われてくる。「すなわち、言語記号の本質は、非実体としての関係にのみ基づく非自然的価値であり(←恣意性の原理)、連続体である多次元の現実であるモノ(未分節の生ける自然)を非連続的一次元の世界に置きかえて、これをコト化している(←線状性の原理)という点に見出されるのです。恣意性は記号学的原理であり、線状性は言語学的原理であるという意味で、前者の方がより根源的です」(p.205)。

言語にしても、文化現象一般にしても、その記号の世界は自らの本質を蔽い隠していて、あたかも有機体とか物体としての実質の世界があるかの観を呈している。この常識を一旦括弧に入れなければ(記号学的還元)、その本質(文化のフェティシズムの正体)に到達することはできない。文化現象一般が言語と同じく人為によって生み出されたコトという関係に過ぎず、モノ自体は生の形では存在しないということ、コトの本質は非自然であり、コトバ以前の感覚=運動的なものを保持しながらも、これが破綻していて、二重、三重に自然から引離されていることを、見極めねばならない。そうでなければ「二重にして不可分離な本質体」(シニフィアンとシニフィエの不可分離性)が捉えられない。

この不可分離性が理解できなければ、「一つの表現が多くの内容を持つ場合」(例:sensというシニフィアンが「意味」「感覚」「方向」というシニフィエを持つ)と、「多くの表現が一つの内容を持つ場合」(例:「父」「パパ」「おやじ」が同じシニフィエを持つ)を例に挙げ、シニフィアンとシニフィエは非対称的だと考えてしまう。しかし、これはシニフィアンとシーニュの混同、シニフィエと指向対象の同一視から起きた誤解なのだ。(正しくは、sensというシーニュは/sa:s/というシニフィアンであると同時にsensという唯一のシニフィエでもあり、文脈次第で「意味」「感覚」「方向」など複数の意義群として顕在化し得る価値である。「父」「パパ」「おやじ」は、状況次第では同一の指向対象を持つことがあっても、異なるシーニュであり、別々のシニフィアンとシニフィエから成り立っている:p.211図参照)。

第八講 講義〓――ラングの解明(続)――
20 相対的恣意性 :「恣意的」という語の代わりに「無動機」という用語を使った場合、動機の有無によって絶対的恣意性と相対的恣意性の二つがあるように見える。例えば、vingt(二十)というシーニュが絶対的に無動機であるのに対して、dix-neuf(十九)はdix(十)とneuf(九)という言語内に共存する辞項の助けを借りて構成されているので、相対的な動機づけの中に身を置いている。dix-neufの音のイメージ/diznoef/が、共存している/dis/と/noef/というイメージと結びつき、「十九」というシニフィエを動機づけているのだ。しかし、この動機づけは非自然的(文化的、制度的)なものであり、dix-neufに有縁性(透明性)を感じ取るのはフランス語を知っている人だけだ。(日本語で言えば、「酒屋」という語が透明で動機づけを感じるのに対し、「魚」という語は不透明)。つまり、vingtもdix-neufも非自然的であり、恣意的なのであり、「動機づけ」と「恣意性」が相反するように見えても、それは文化現象内の位相の違いに過ぎない。ラングとは恣意的動機づけの世界なのだ。

21 時間のファクター :文化の構成基準は「恣意的必然」であり、私たちは必然の世界に住んでいるため、恣意的とは言っても自由に変えられない。必然性には二つある。〓自然的、実体的な種のゲシュタルトが本能的に読み取っている生体的な次元での必然性(老いて死ぬとか、爆発で物理的衝撃を受ける、といった必然性)。〓文化的必然性(人間の歴史が押しつける非自然的必然性)。ラングを構成しているのは〓であり、ラングは時間によって過去と連帯し、人々はそれを否応なしに継承する。しかし、ラングはこの時間というファクターゆえに変化する。なぜなら、恣意的価値はその基準を自然の中に持たず、全ては相対的であるからだ。絶対的な価値がないからこそ、人々は文化の抑圧に順応し、自らを共同幻想の中に組み込むことでこれを強化し硬直化させ、変革不可能な非自由の世界に沈み込む。その一方で、絶対的基準がないからこそ、時間の流れとともに実質面で起きる偶発事が体系に組み込まれ、関係そのものを再布置化することを妨げる力もない。通時態が共時態に食い込み、偶然性が必然性に食い込んで、変化させるのだ。これが価値の変動であり、時間のファクターの下で恣意性がもたらす第二の結果である。ラングは恣意的であるがゆえに硬直化し、恣意的であるがゆえに変化するのだ。

22 価値の恣意性と示差性 :言語の恣意性には二つある。〓シーニュ内部のシニフィアンとシニフィエの関係における恣意性((〓)↑)。〓[価値の恣意性]:言語体系内のシーニュ同士の関係における恣意性((〓)⇔ (〓)⇔ (〓))。〓は〓の二次的産物に過ぎない。価値の恣意性〓は、連合関係においてはシーニュの布置の恣意性であり、連辞関係においてはシーニュ同士の結合の恣意性を意味する。このように、ラングの価値を生み出すのはシーニュ間の差異なのである。しかもシーニュは否定的にしか規定できない関係存在であり、それ自体が差異でしかないのに(〓と〓の積である+でしかない)、即自的価値を有するかのように実定性を帯びて、他のシーニュと対立するのだ。これが、私たちが言語の中に自然的なものがあると錯覚する理由であり、言語記号は(+)となってはじめて私たちの意識に達する。したがって、抽象的に切り離されたシニフィエとシニフィエの差異、シニフィアンとシニフィアンの差異、というものは意識に達していない。意識に達するのはシーニュ同士のポジティブな対立だけであり、だから関係に過ぎない存在が実体化され、コトが物として意識されるのである。