06. フランクル『精神医学的人間像』
(2004/12/4:臨床心理学研究会;山竹伸二)
(2001.12.4)
第一編 防衛機構の理論
この講演では、今日の人間像に対する心理療法の寄与について、歴史的体系的立場からではなく、批判的立場から接近する。その際、心理療法に内在する危険や誤謬の源として、力動的心理学主義が挙げられる。今日の心理療法は精神分析(フロイト)、個人心理学(アドラー)、分析心理学(ユング)という三つの柱に支えられているが、これらは心理学主義から自由になることができなかったのである。
フロイトは心理療法の開拓者であり、彼が意味への問いを提出した功績は大きいが、それは時代精神(ヴィクトリア朝時代のフラシテン文化→性的禁欲主義)の制約を受けており、そこには力学的モデルがよこたわっている。そのため、ヒステリー症状の意味を無意識の心的生活のなかへ求め、心的存在の全次元を解明するよう強いられた。(*フランクルは、後に単なる衝動的無意識以上のもの、つまり道徳性や信仰心などの精神的無意識を見いだしたことにも触れている)。フロイトにとってヒステリー症状の意味は、「抑圧された」という意味で無意識であったのだ。
精神分析にとって、神経症は葛藤しつつある衝動の間の妥協、エス、自我、超自我の妥協に帰着するものであり、この妥協は錯誤行為をもたらしたり、夢の検閲をも成り立たせる。しかしこの理論には、水流がそれ自身の発電所を建設できないように、抑圧し、検閲し、昇華する審級を衝動から導き出すことはできないという難点がある。また、ホメオスタシスの原理(生体における内部環境の変化を回復しようとする傾向)を取り入れ、すべての行動は乱された均衡を取り戻す役目をしていると主張し、道徳をも衝動的なものの抑圧へ帰着させているが、生長と再生はホメオスタシスの原理には従わない過程であり、ましてや心理学的次元においてはなおさらである。
アドラーによれば、身体的事実としての「器官劣等性」は、心的反応としての劣等感を導き、この劣等感の代償として「共同体感情」が要求されるという。そしてこの共同体に対する人間の態度や構えを決定するのは、個人的なものではなく、社会的なものであり、人間の環境、教育などが決定的なのだ。一方、ユングが神経症を「意味を見いだせない心の病」と定義した功績は大きい。しかし、ユングも心理学主義に陥っており、ゲープザッテルは、ユングの人間像には「無意識の創造」に決定を下す審級が欠けていると批判し、シュミットもユングは原始類型という新しい神々を作り上げた宗教だと非難している。
精神分析などの力動的な心理療法では、コンプレクス、葛藤、心的外傷などの原因を暴露する方法をとっているが、それらは人が想像するほど病因的ではない。一般に病因的と見なされているものも、実は症候的なものであり、病気の徴候なのだ。それは引き潮になると浮かび上がる暗礁に似ており、暗礁は引き潮の原因のように見えるけれど、引き潮こそが暗礁を明るみに出す。これと同じように、分析はコンプレクスを引き出すが、その場合に精神科医は病気の徴候に出会っている。精神分析は原因的療法という意味で効果があるのではなく、それが治療効果を示すのは暗示療法としてである。患者は精神分析を受けたというだけで、すでに自己暗示的な期待感情が生じているのだ。
面接において苦悩を「ともにする」ばかりでなく「打ち明ける」だけでも、患者の負担は半減する。ひどいスラングで話す患者が悩みを訴えてきたとき、フランクルはその話がほとんど理解できなかったが、患者のほうは話しただけで葛藤状況から抜け出していたという。こうした実存的態度変換を見誤らぬかぎりでは、精神分析にも治療的効果がある。転移もこのような人間的出会いの一媒介手段であり、医師と患者の関係自体が治療効果をもつのである。
「実存的態度変換――実存分析はそれを方法論的意識をもって直接に探知するのですが――がそのようなものとして、すなわち実存的な変換として、すくなくともいわゆる転移と同じに、単なる知的、合理的事象の境界を突破して、とにかく情動的なもののなかに根をおろし、それゆえに全体的、全人間的事象を活動させるということは自明です。ところが、実存的態度変換というようなものが必然的にあらゆる方法論や技術をこばむということは、あまり自明ではないかもしれません。しかし、心理療法の枠内ではそのつど適用される方法論や技術がすこしも有効ではないということは、現にこの国でもすでに広く知られているところです。決定的なのは、むしろ、医師と患者のあいだの人間的関係なのです。」(p.21)
広場恐怖症のKは13年間家を出ることもできなかったのに、「ロゴセラピー」がはじまって13日目には街へ出かけ、4週間の入院治療の後に退院。以後、まったく症状もない。夫との性的関係も復活していたが、この場合、性的禁欲が神経症の原因だったのではなく、むしろ性的禁欲は神経症の結果だったのである。また、強迫神経症のR夫人は、ひきだしを締めたかどうかを確認するために、一定のリズムでそれを叩かなければ気がすまなかったが、ロゴセラピーの2日後には確認強迫が消失した。彼女は5歳のとき、兄が人形を壊したので玩具を箱へしまうようになったこと、16歳のとき、妹が勝手に着物をきたのでそれもしまいこむようになったらしい。しかし、幼児もしくは思春期の心的外傷が病因的であるように見える場合でも、その原因を暴露したことが効果をもたらしたのではないのである。
病因には身体因性、心因性、精神因性が考えられるが、精神分析では心因以外は無視されている。たとえば5年も精神分析を受けたが効果なく、薬を投与したら数ヶ月で完治した患者の場合、分析家が心因にばかり目を向け、身体因性を度外視していたことがわかる。しかし、身体因がじかに不安をみちびくわけではなく、それがもたらすのは不安準備状態である。ある症状が一時的にでもおこると、患者はそれが再びやってくるのではないかと恐怖的懸念を抱き、この期待不安が症状を強めることになる。したがって精神科医は、薬物投与によって不安準備状態へ向かうと同時に、期待不安へも向かわねばならない。
期待不安を誘発するものは、典型的には、不安そのものに対する不安であり、自分が心臓麻痺か脳卒中でやられはしないだろうか、というふうに、不安な興奮から生じる健康上の結果を恐れる場合である。このような不安で不安発作に反応する不安神経症とは反対に、強迫神経症では強迫に対する不安から、強迫に対して戦いを挑む。強迫神経症には精神病的素質も指摘されており、この点では患者に責任はないのだが、強迫症に対する態度については自由であり、責任もある。治療で大切なのは、そうした自由の活動する余地を広げることであり、症状をあまり問題とせず、患者の態度を変えさせようとすることだ。「ロゴテラピーがまさに症状そのものに向けられるのではなく、一種の態度の変化、症状に対する個人的態度変換を導きだそうと試みるかぎり、ロゴテラピーは真の人格主義的心理療法なのです。」(p.31)。
意図されぬ場合にはじめて成立する「結果」というものがある。たとえば睡眠は、寝ようとすればするほど眠れなくなるし、健康であろうとすればするほどすでに心気症にかかっている。目的を意識すれば調子が狂ってしまうのだ。あまりに強すぎる願望は、すでにそれだけで願望の実現を不可能にする。ロゴテラピーではこの原理を逆に利用し、患者が恐れているものを志向し、望み、企図するようにしむけることを試みる(逆説志向)。それによって期待不安の活動がさまたげられるのであり、強迫神経症もこの方法によって短期間で治療できる。戸が開いているかどうを確認する強迫患者には、「開いたままにしておこう」と考えてもらえば、強迫症状は消えてゆく。
逆説志向が対象にしているのは、その背後にひそむ深い原不安の表面的な症状にすぎないかもしれない。「しかし逆説的志向もそれはそれでさらに深層のそして実存的に断乎たる態度変更の手段であり、すなわち現存在に対する根源的信頼を回復する手段なのであって、結局、このような中心点からのみ恐怖症や原不安は癒されうるわけです。」(p.38)。神経症的人間は、自分を軽蔑しすぎたり注意しすぎるより、そのことを忘れ去るほうが効果的である。そのためには、忘れようと努力するのではなく(これは逆効果)、何か別のものを目指して生きることが必要になる。それができたとき、心理療法はロゴテラピーに、実存分析に変化する。その本質は、人間が彼の個人的現存在の具体的意味に方向づけられ秩序づけられる点にある。
第二講
「精神分析はわれわれに快楽への意志を呈示しておりまして、それをわれわれは快楽原則として把握することができますし、個人心理学は権力の追求という形での力への意志をわれわれに明らかにします。しかし人間には、もっとはるかに深いところに根ざした、私が意味への意志と呼んだものがあります。すなわちそれは、自分の現存在をできるかぎり意味に満ちたものにしようという苦闘です。」(p.40)。自分の存在がなんの意味をもっていないという感情、それは意味への意志が欲求不満の形をとった状態、すなわち「実存的欲求不満」の状態である。この無意味感は、今日、神経症の病因となる点で、劣等感を凌駕している。
実存的欲求不満のある人は、自分の実存的真空をどうやって埋めていいかわからない。性的欲求不満の背後にも、多くの場合、意味への意志の欲求不満がひそんでおり、「実存的真空のなかではじめて性的リビドーははびこってくる」。(実存的欲求不満の背後に性的欲求不満があるのではない)。今日の社会では自動化(機械による生活の単純化など)によって余暇が増大し、退屈な生活のなかで、生きる意味を見失いやすい状態にある。さらには、人間は自動化のなかで自分を思考機械、計算機のようなものだと、誤って理解してしまうかもしれない。反射ロボット、衝動装置、心的機制、生産関係の産物「にすぎないもの」だと考えてしまう危険性もある。このような人間合成術的人間観からガス室の集団虐殺にいたるのは当然の帰結なのである。
人間の意味に対する悩み、実存の無意味さについての絶望は、決して病理的現象ではない。自己の実存の意味に対する配慮は人間そのものの特徴であり、こうした精神的な苦悩はむしろ心の病気と除外しあう関係にある。心の病気である間は、意味に対する悩みが現れない(心気的な観念にとらわれるなど、症状によって意味への意志が覆い隠される)。むしろこうした意味への意志を取り戻すことこそ、心の病の治療に必要なのである。
「しかし、実存的な欲求不満、あるいは、こうも言えるのですが、意味への意志の欲求不満がけっして病的なものでないばかりではありません。つまりこのようなことは意味への意志そのものについてはもっとも当てはまらないのです――それ、つまり、できるかぎり意味に満ちた現存在を求める人間的要求はそれだけですでになにか病的なものであるというわけではなく、治療の武器として動員しうるし――またそうしなければならぬほどなのです。それを配慮することこそ実にロゴテラピーのもっとも主要な関心事のひとつであります。ロゴテラピーはロゴスに、具体的には、意味に向けられた(そして患者をふたたび向け代える)治療なのであります。」(p.50)
具体的な意味可能性を呼び起こすことがロゴテラピーの課題であり、そのためには患者の具体的な現存在、個人実存の分析、要するに「実存分析」が必要になる。これは生活誌を媒介として行われる。なぜなら、人生はそれだけですでに一種の個人的現存在の自己説明を表しており、そこでこそ存在の現実性についても、意味可能性についてもよく読みとれるからだ。実存分析は道徳論や宗教とはなんの関係もないし、むしろ生の意味を押しつけるようなことがあっては絶対にならない。意味は医師から強制されるのではなく、あくまでも患者自身の責任において認識される必要がある。
「たしかに、患者の価値視野をひろげてやって、それによって患者が意味と価値の可能性の充実に、いわば価値の全スペクトルに気づくようにさせてやることは、ロゴテラピーの課題のひとつです。しかし患者は、その価値の実現を、ロゴテラピーによって回復された自己の十分な責任性意識によってとらえるのです。そして、われわれは、ある真実が、それが価値判断、価値の認識や承認の真実でも、患者のなかにひとりでに擡頭してくるもので――いまさら医者の側からの強制を必要としないものであることを信頼しようとしないならば、それは、意味や価値といったものの客観性を非常に低く評価することになりましょう。」(p.52)
心理療法の目標は心の治療だが、宗教の目標は心の救済である。だが、宗教は超越と絶対のなかでの安全性と確実性を可能にするため、結果として心理療法的に作用することがある。逆に心理療法が抑圧された信仰心を再発見し、結果として心の救済につながることもある。それは最初から意図することが少ないほど、結果としてそうなる可能性があるのだ。現存在の意味もまた、最近お題目のように言われている自己充足や自己実現を意図するのではなく、自己責任性を回復する結果として答が可能になる。自己充足や自己実現は、本来、それ自体が目的なのではない。それは人生の意味を見失ったとき、はじめて目的として念頭に浮かんでくるのだ。しかしそれは欠損的な志向のあり方であり、自己充足と自己実現は意味充足と価値実現の結果なのである。
「一般に人間の現存在において自己充足や自己実現が問題になる場合、それらはただ結果として達せられるのであって、意図してではありません。われわれが自分をゆだね、われわれが専心し、われわれが世界に、そしてそこからわれわれの生活のなかへ投げかけられる任務や要請に献身するその程度に応じてのみ、われわれが自分自身や自分だけの欲求でなく、外の世界や対象にかかわるその程度に応じてのみ、われわれが任務や要請を充足し、意味を充足し、そして価値を実現するその程度に応じてのみ、われわれはわれわれ自身をも充足し、そして実現するのです。」(p.55)
患者は病苦に直面して、自分の人生も無意味ではないかという疑問を医師に投げつける。そのとき医師は、患者を働けるように、楽しめるようにするだけでなく、「苦悩する能力」を与える必要がある。それは態度価値を実現する能力であり、病気に対する正しい態度(誠実な苦悩)へと向かわせることだ。創造だけが現存在に意味を与えるのではなく(創造的価値)、体験、出会い、愛だけが人生を意味あるものにあるのでもなく(体験価値)、苦悩もまた現存在に意味を与えることができる(態度的価値)。いやむしろ、そこには最高の価値を実現する可能性、最深の意味を成就する機会がある。なぜなら、創造しつつ自己の存在価値を充足する場合は、成功と失敗しか考えないが、苦悩する人間は最悪の失敗や挫折の場合でも、なお自己を充足することができるからだ。しかし、宿命的に必然な苦悩ではなく、不必要な苦悩をになったからといって、それは好き勝手な苦悩である。患者が麻酔や鎮痛剤などを拒否して苦しんでも、それは意味のない苦悩であり、そのような拒否はやめさせなければならない。
ふつうの生き方においては、人は創造(労働など)や体験(愛など)をつうじて人生に意味を与えているが、病気になってそれらを断念する状況になっても、苦悩に満ちた運命の甘受をつうじて現存在に意味を与えることができる。(それを手助けすることは、医師にとって重要な課題である)。不治の病に直面して苦しんでいる患者に対し、医師は慰めることしかできないが、それでも心を癒すことはあらゆる臨床医に必要なことだ。そこで「医学的精神指導」が必要になる。医師は牧師の代役を買ってでるべきではない、という意見もあるが、患者の苦痛に直面しながらそんな態度でいるのは思い上がりである。医師は溺れかかっている人間を見たら、水泳救助の資格がなくとも、追って飛び込みもしなければならないのだ。
現代のような実存的欲求不満の時代では、多くの人が自分の人生の意味を疑い、しかも苦悩することができず、労働能力や享受能力ばかりを過大評価して絶望する。実存的欲求不満はそれだけでは病気ではないが、それが病因となって神経症をひきおこすことがあり、このような精神因性の神経症を「精神因神経症」と呼んでいる。すべての神経症が良心の葛藤や価値の問題(精神因性)から発生するわけではないし、神経症は心的身体的な層にも根ざしている。むしろ狭義の神経症は心因性の疾患であり、絶望だけが神経症の原因だと考えれば、精神主義のあやまちをおかすことになるだろう。まして心身医学のように身体因性疾患まで精神因性と考えるべきではない。たしかに、どんな病気にも意味はあるが、その意味は(心身解釈のように)病態そのものに見いだされるのではなく、いかに苦悩するかというところにあるのだ。
「このように医師は、いや、医師も、意味への意志ばかりでなく苦悩の意味についても知らざるをえないのですが、意味への疑いが生じた時には今まで以上につぎのことが必要なのです。つまり、医師は、苦悩する人間の生命さえも意味をもつのをやめるのではなく、――それどころか――もっとも深い意味を充足しそしてもっとも高い価値を実現する可能性をあたえるものであることをたえず自覚し――また患者にも意識させる必要があるのです。」(p.72)
第三講
「意味への意志」と「苦悩の意味」の他に、「意志の自由」について話せば、心理療法における人間像の考察は完全なものになる。どの心理療法も特有の人間像を掲げており、人間学的な前提にもとづいている。ロゴテラピーの場合は次のことを志している。「すなわち、患者の価値に対する視野をひろげさせ、ついで、なにか具体的な意味の充足とその人格的価値の実現に対して――また、だれかのためにではなく一般になにものかのために――かれ自身に決断させ、かれが自分の現存在を責任存在として理解するようにしむけるのです。」(p.75)
精神分析も例外ではなく、寝椅子に座らせて人格的出会いを回避させ、すべての価値評価を中止すること自体、ひとつの人間像にもとづく価値判断と言ってよい。アメリカの精神分析者は、患者に価値を押しつけることの恐怖症にとりつかれているが、沈黙はときとして承認、催促を意味する。ロゴテラピーのように、心理療法と自らの哲学的世界観の関係を明言するほうが安全なのである。教育分析は無意識の価値づけを防止するどころか、むしろそれを発生させる。(フロイト派は去勢コンプレクス、出産外傷へ、アドラー派は名誉欲や優越への欲求へ、ユング派は古代類型へと、無意識を価値づける)。「仮面を剥ぐもの」である深層心理学の「価値剥奪傾向」は、人生の高い意味について憂い悩んでいる状態さえ、抑圧された衝動に還元してしまう。これは実存的危機(精神因性神経症)から逃避するために、精神分析が乱用されているのであり、現存在の意味への苦闘は一次的な特性なのである。
心理療法は「意味への意志」(意味を充足させようとする人間の配慮・憂慮)を無視することはできない。ニーチェは「生きる理由をもつ者は、ほとんどどんな事態にも耐えられる」と述べているが、実際、そういう人はどんな事態にも耐えられるのだ。仮面を剥ぎ正体を暴露することが必要な場合もあるが、それは真実なものを引き立たせる目的の単なる手段としてであり、正体暴露が自己目的となればそれ自身が虚無主義の仮面になりはてる。精神分析を終えた後、教会や寺院へ行くような患者に対し、分析家たちは本当に治っているのかどうか疑念を抱くというが、それは精神分析のなかに暗に含まれている人間学を物語っているのだ。したがって、精神分析を無限に拡張するのではなく、それを心理療法の古典的基礎として、その上に新たなものを築き上げることが必要である。フロイトが心的存在の全次元を切り開いたことは、やはり高く評価すべきことなのだから。
無意識の精神性、無意識の道徳性、無意識の信仰心というものがある。今日、性倒錯を無遠慮に語る患者でさえも、宗教心の話題では抑制を示し、無意識的なものになっているのだ。無意識の宗教心、それは衝動的無意識の領域ではなく、精神的無意識の領域に属するものであり、性衝動と同じ意味での道徳的無意識、宗教的衝動心などというものは存在しない。さればこそ、良心によって駆り立てられることもなく、良心のまえでそのつど決断しなければならないのだ。精神分析が汎性的であるという批判は時代おくれなもので、もともと精神分析は汎性的ではなかった。問題はただ、精神分析、心理力動学が人間を駆り立てられるものとして見なすところにある(性衝動だけでなく、なんらかの衝動に還元すること自体が問題)。自我がエスから駆り立てられるのか、超自我から駆り立てられるのかということは、二次的な意味しかない。人間は決して駆り立てられる存在でもなければ、衝動を満足させる存在でもないのである。
超自我のとげ(良心の呵責)を免れるためだけ道徳的にふるまうなら、それは実際には道徳的にふるまうことにはならない。「私が善良であるのは、ある事柄において、よい事柄のために、ある人のために、あるいは究極的・本来的に良心の背後にいます神のため、なのです」(p.89)。なぜなら、良心は固有の心理学的事実として超越性を指示しており、人間的人格の良心をとおして人間外の審級が反響してくるのだ(*良心は利己心を超えた無意識的なものであり、自我の判断がともなうという意味)。しかし、フロイトは無意識の道徳心から「自我」を抜き取り、「エス」化してしまった。ユングは宗教心を宗教的衝動に還元し、その起源を集団的無意識にもとめている。「心理力動的人間学の枠のなかで露わになるのは、駆りたてられる人間の像であり、エスと超自我の衝動および要求を満足させ、葛藤する自我、エスおよび超自我の諸審級間の妥協を心がける存在としての人間の像です。」(p.90)。しかし、人間は衝動によって決定された存在、快楽に向かって努力する存在ではなく、意味に方向づけられ、価値に向かって努力する存在なのである。
人間の衝動は精神性から支配され、統御されており、その抑制が解かれるときでも、精神はつねに働いている。衝動が人間を駆り立てるのではなく、人間によって衝動がかき鳴らされるのである。ケラーによれば、衝動は「抽象的で、仮説的な、または構成的な単位」であり、繰り返し実体化されているが、もともと存在しないものだ。精神分析においては、まず「自我」が抜き取られ、「エス」化され、その後で人間が合成されているので、衝動は人間が合成される前から存在するものとして実体化されている。こうした観点においては、「自我」がいだく目標は「エス」が貫徹する目的、単なる手段にすぎないことになる。しかし、精神的人格は根源的なものであり、実存分析では、意欲のまえに意識的な当為があると考えるのだ。つまり、そこには「意志の自由」があるのだ。
「エス」のために「自我」がその位置を退くこと、人格性や実存性を断念することは、神経症の本質に属することである。神経症患者は、自分の現存在を「ひとたびそうであればもはや変わるはずのないもの」だと解釈している。とはいえ、神経症にも意志の自由はあるし、自分の神経症への態度には責任もある。「ですから、決定論的で宿命論的な人間学をもつ心理療法は、神経症を克服する代わりにそれをただ模倣するだけに終わる危険がつねにあることが明らかです」(p.96)。人間の自由と精神性は、身体と身-心から障害されることはあるが、精神-心までが破壊されるわけではなく、そこにはいぜんとして自由が残されている。精神的なものこそ、病気になるどころか、疾患事象と対決できるようにしてくれるのだ。
人間の責任存在は「なんに対して」ばかりでなく、「なんのまえで」という点にもある。それは人格的な構造として生じる審級であり、「神のまえで」という意味をもつ。意識していようとなかろうと、良心の背後には神がいるのであり。それは眼に見えぬ存在、姿を見せぬ証人である。舞台俳優が暗い客席の存在を知っているように、人間は人生という舞台の上である役を演じつつ、見えない偉大な証人を予感しているのだ。ひとたび神がいることに思い至ると、人間は苦悩の意味をも含めて、どんな条件下でも生きるに値する次元へと押しやられ、生きる価値を見いだすのである。(*神は比喩として捉えるべきか?)
フロイトは「決定づけられている」という事実を「無意識に動機づけられている」という事実と同一視しているが、このような分析的心理学主義は客観的対象を内在化し、世界を非現実化、無価値化してしまう。問題をすべて過去の葛藤、親の像に還元することで、現実は「分析家〓患者」チームの視界から消え失せてしまい、想像の彼岸にある現実世界、現実的問題は存在しなくなる。「分析は、世界と無関係なやり方で自己解釈や自己了解を行なうことで、患者を――私はあえて言いたいのですが――単子論的人間像のなかへ引き寄せたのです」(p.104)。こうして現実世界の価値は下落し、価値が単なる欲求満足のための手段に見えるのだが、本当はむしろ逆なのだ。
「私が実存分析やロゴテラピーで試みてきたことはけっして、今までの心理療法に代わることなどではなく――むしろただひとえに心理療法を完全にすることであり――また、心理療法の基礎としていつも据えられる人間像を「完全な」ものにして、真の人間の全体像をうちたてること、つまり、人間という本質の全次元的現実、人間をそして人間だけを特徴づけるあの現実を公正に評価しようと努めるかぎりで立体的であり浮き彫りをもつような人間像をうちたてることであります。なぜなら、心理療法は正しい人間像を必要としますし、またそれは正しい方法論や技術論よりもはるかに必要です。」(p.109)
今日の心理療法にあるのは、まだ真の人間像ではなく、虚無主義に満ちた時代精神に影響を受けた人工人間的人間像である。しかし、心理療法が実存的欲求不満や虚無主義と太刀打ちできるとすれば、まず虚無主義から、人工人間的人間像から自由になる必要がある。自由や責任性に訴えかけることをしなければ、時代精神の病理、人類の集団神経症を克服することはできないであろう。