トップページ > 神経症・精神病を知るために > 01. 神経症について  精神分析から実存論的な神経症論へ --

01. 神経症について  精神分析から実存論的な神経症論へ --

神経症の理論はフロイトに多くを負っている。それを一言で言えば、神経症とは不安を避けようとして必死に闘い、防衛し、その結果として日常生活に支障をきたす病だということになる。フロイトは、人間の心には不安や葛藤を避けるための様々な働きがあり、この心の防衛的な働き(防衛機制)こそ、神経症の症状を生みだしていると考えた。神経症の原因は不安であり、不安を避けようとする心の働きが、社会的には不適切と思われるような行為や身体反応として現れるとき、それが神経症の症状として診断されるのである。

この防衛機制には、抑圧、合理化、置き換え、投影など、様々な種類があるのだが、神経症に深く関わっている強力な防衛機制は「抑圧」と呼ばれる心の働きである。例えば、大勢の前で恥ずかしい失敗をしてしまい、それを思い出すのは苦痛だし、自分が情けない人間、どうしようもなくダメな人間に思えてくるとしよう。この不安を避けるために、嫌な記憶を忘れ去ってしまい、思い出さないように心が働く場合がある。嫌な記憶は無意識という場所に追いやられ、封印されるのだ。この場合、その記憶は無意識に抑圧されたのだと、フロイトは言うのである。

ヒステリー

抑圧は多くの神経症の根底に見られるが、ヒステリーは特に抑圧が強く働く神経症だと考えられている。ヒステリーとは、不安はほとんど生じないのだが、その代わりに身体が機能不全になってしまう神経症である。症状としては、運動麻痺、不随意性の運動や痙攣、痛みなどの機能障害が見られる。身体的な苦痛はあるのだが、その代わりに不安に関わる表象、観念は完全に抑圧されるのだ。

例えば、ある人物に会いにいかねばならないのだが、実はその人物を苦手だと感じており、どうしても会いたくないという無意識の欲望があったとする。しかし、もし脚が病気で動かなくなるなら、その人物に会いに行くことはできなくなるだろう。そしてヒステリー患者は、実際、脚が麻痺して動かない、行かねばならないのにどうしようもない、と訴えるのである。勿論、医者が脚を調べてみても脚に何の異常もありはしない。

この場合、ヒステリー患者は脚が動かないという嘘をついているわけではない。彼は心から「行かねばならないのに」と思っているのだ。つまり、このヒステリー患者は自分がその人物に対して、それほど嫌っているという自覚がなく、嫌悪感に関わるイメージや観念は無意識に抑圧されているのである。その人を嫌っていると自覚することは、不寛容な自分、優しさのない自分を意識することになり、自我の不安を引き起こす。だからこそ、「行きたくない」という無意識の欲望が、自意識を傷つけない形で、つまり脚が動かなくなるという形で現れるのである。

恐怖症

ヒステリーのように身体的な機能障害に転化しない神経症においても抑圧は働いているが、その程度はまちまちだと言える。例えば、抑圧の働きが完全でなければ、「置き換え」という防衛機制が生じることもあり、その典型が恐怖症と呼ばれる病である。よく知られているように、恐怖症は特定の対象に対して、常識的には不釣り合いなほど強い恐怖を感じる神経症のことだ。もともとの不安に関わるものが、それに似た物や状況などに置き換えられ、置き換えられたものに対して恐怖を感じるため、もともとの恐怖の対象は抑圧され、忘れられているのである。

フロイトの症例の中に、馬に噛まれるという不安のために、街を歩くこともできなかった少年ハンスの例がある。馬は父親が置き換えられたものであり、原因はエディプス状況における去勢不安だとフロイトは述べている。幼児期には動物と人間の違いがまだはっきり分からないため、容易に動物と置き換えられ、動物恐怖症を生じやすい。ハンスは父に対して愛情と嫌悪というアンビヴァレンツな感情を抱いており、父に愛されたいと感じ、それが馬に噛まれる、つまり父親に食べられるという、受動的な情愛衝動となっている。その一方で、父親以上に母親への情愛衝動が強く、母親との関係を邪魔する存在として、父親を憎むことになる。この憎しみは父親への愛情によって抑圧され、逆に父親からの攻撃という反対物に転化し、さらにそれは馬から攻撃されるという不安(動物恐怖症)に置き換えられているのである。

「狼男」という症例もそうなのだが、フロイトの論文を読んでいると、父親への去勢不安が原因で動物恐怖症になった症例が多い。フロイトによれば、幼い年齢では動物と人は混同されやすく、しかも去勢不安は幼少期の男の子なら誰でも抱くものだからであるという。去勢不安によって父親に対して恐怖と憎しみを感じる一方で、父親を愛してもいるため、その父を憎みたくない、父への恐怖を認めたくないという葛藤が生じることになる。そのため、父への恐怖は抑圧され、動物への恐怖に置き換えられるのである。

フロイトが恐怖症を「置き換え」という心の働きで説明したこと自体は、それなりに理に適っていると言えるのだが、しかし恐怖症の全てを「置き換え」で説明することはできないし、恐怖症の全ての原因を去勢不安に還元することもできない。不安や恐怖を感じた状況を克明に覚えており、それによって似たような状況に恐怖を感じるという場合も多いし、むしろそのほうが一般的だと言えるからだ。

例えば、大勢の前で恥ずかしい失敗をしてしまった場合でも、大勢の人間の前に出ることに不安を感じるようになることがある。あるいは高い場所で極度の不安を経験したとすれば、高い場所そのものに対して恐怖を感じるようになり、高所恐怖症となる。この場合、最初に恐怖を感じた体験を覚えているなら、それはその状況を連想させる対象に恐怖を感じるということであって、特にそれを防衛機制としての「置き換え」で考える必要はないのである。

対人恐怖も、他人と接していると必ず失敗する、恥をかくという不安などが原因で、人間そのものへの恐怖になる場合が多い。対人恐怖症は日本人に多いことでも有名だが、特に最近では、他人にどう見られているのかを過剰に気にし、見られること自体への恐怖感に変わる視線恐怖も多いようだ。この不安がさらに強くなると、自分の顔や姿を醜いと感じる醜形恐怖となるだろう。そうなると、整形手術をしたり、過激なダイエットをしたり、拒食症になることさえある。それは、「きれいであらねばならない」とか、「やせなければならない」と感じるからなのだ。

これらは、他人からどう評価されるのかという、自我の不安に原因があると言える。勿論、それは誰にでもある不安だが、それが過剰な反応になっている場合が問題なのだ。そして、「〓ねばならない」という歪んだルールが内的規範にあり、この「〓ねばならない」が強迫的な行為に結びつくとき、それは強迫神経症と呼ばれることになるのである。

強迫神経症

強迫神経症者は、「〓ねばならない」という強迫的な思考や行動に悩まされる。その強迫的な行為は、それによって不安な状況を防ぎ、不安を吹き払おうとするために行われる。例えば、おまじないのような言動を繰り返したり、寝る前に必ず同じ儀礼的行為をしたりして、不安を打ち消そうとするのである。ジンクスを信じるスポーツ選手のように、ある儀礼的な行為を繰り返すことで不安を解消しようとすること自体は、多かれ少なかれ普通の人にも見られることだ。しかし、そうした行為が明らかにやりすぎ、異常と思われるような場合はどうであろうか。

例えば、適度に戸締まりには気をつけるのは望ましいが、出かけた後も何度も戻って戸締まりを確かめるようなら、それは強迫神経症と呼ばれることになるだろう。あるいは、適度なきれい好きも望ましいが、一時間も二時間も手を洗い続けるようなら、それは明らかに強迫神経症だと言える。つまり、その行為が日常生活に支障をきたすレベルとなって、どんどん自分を苦しめる状況になってくれば、それは強迫神経症だと診断され、治療の必要が出てくるのである。

強迫神経症ではヒステリーのように不安な体験を完全に忘れ去ること(抑圧)はできないが、その観念を遠ざけ、注意を逸らしておくことはできる。しかし、遠ざけられている不安な観念は別の観念に置き換えられ、もともとの不安な理由が意識されなくなってしまう。そして、その置き換えられた観念は繰り返し思い出されることになり、その強迫観念を振り払おうと、何らかの強迫行為を繰り返すことになるのである。例えば、自分が汚れている、汚染されているという不安な観念が襲ってくれば、繰り返し何度も何度も手を洗い、汚れを落とそうとするように。

強迫神経症についてはこれだけの説明で十分だと私は思うのだが、フロイトの解釈はさらに複雑なものである。フロイトの「制止、不安、症状」によれば、強迫神経症の症状には、まず禁止、警戒、処罰などの否定的な性質のものがあり、その後、これと反対の代償満足が生じる場合がある。原因は性的欲望だが、性器期的体制が弱いこともあり、「抑圧」という防衛方法がうまくいかない。その結果、性器的体制はサディズム的肛門期へ「退行」し、衝動解離によって性的欲望は攻撃衝動へと変わり、対象への破壊衝動と同時に、超自我の破壊性を強めることになる。そして、自我は厳格化した超自我に服従するあまり、高度な「反動形成」を発展させ、極度に良心的、同情的、潔癖となる。しかし、超自我の過酷な批判を甘受する(禁止を守る)ことによって、自我は罪悪感を自覚せずに済む(代償満足を得る)ことができるのだ。

強迫神経症においては、ヒステリーと違って欲望が完全には抑圧されていない。だからこそ、罪悪感が生じ、それを償おうと禁止を守る強迫的行為に及ぶのである。また、強迫神経症には「取り消し」と「分離」という二つの防衛機制が用いられる。取り消しは否定を中心とする魔術的な儀式であり、ある行為によって不安な状況が起こらないようにし、その状況自体を吹き払おうとする防衛反応である。強迫神経症ではヒステリーのように不安な体験を忘れ去ること(完全な抑圧)はできないが、その不安な情緒を失い、連想的な関係を中断することはできる。これを分離といい、正常者が都合の悪いことを遠ざけたり、注意を逸らしたりするのと基本的には同じなのである。

かなり複雑な理論に思えるかもしれないが、詳しく説明するとかなり長くなるのでこれ以上は触れない。要するに、フロイトの考えでは、強迫神経症は複数の心の働き(防衛機制)が絡み合ったものなのである。しかし、正直言ってこのフロイトの説明はかなり強引な辻褄合わせだと言える。よくよく考えてみれば、フロイトは自らが創り出した心の装置を組合せ、いかにも合理的な説明に仕立て上げているだけなのだ。

フロイト理論の功罪

フロイトの神経症理論には卓越した論理性と、根拠なき物語が混在していると言える。今日においては、去勢不安を神経症の中心に据える考え方、口唇期や肛門期などの各発達段階における性的衝動に還元する理論は、ほとんど顧みられていない。確かにこの理論が当てはまる症例はあるだろうし、フロイトの患者に関してはその通りなのかもしれない。しかし、これを神経症一般に当てはめるのは、公平に考えてみても無理な話なのである。様々な神経症を考えれば考えるほど、神経症の原因の多くを去勢不安に還元することには無理があるし、強迫神経症を肛門期への退行に還元する考え方も、不要な仮説としか言えないのだ。

また、フロイトは人間には死の本能があり、それが根源的な攻撃性となって現れるという、証明し得ない仮説を信じている。そのため、強迫神経症者の罪悪感を自分への攻撃性(死の本能)の現れだと述べておきながら、その一方で、攻撃性に対する罪悪感が反動形成としての強迫行為を生みだす、と矛盾したことを述べている。罪悪感が攻撃性の現れであるなら、攻撃性への罪悪感が反動形成を生みだす必要などあるだろうか? しかも、罪悪感を攻撃性の現れだと見なしているために、攻撃性が強くなるのは、攻撃性の強い肛門期へ退行しているからだ、という強引な説明になっている。そもそも肛門期には攻撃性が強くなる、などという説明は説得力がないし、死の本能があるという説も不要な仮説でしかないだろう。

しかし、それでも不要な仮説を排除して考えるなら、フロイトの神経症理論はやはり優れている面がある。フロイトの理論は、今日の様々な神経症理論の土台となっており、少なくともその優れた部分はフロイトが独力で体系化したものである。確かに過去の去勢不安や性的体制への固着という考え方は、到底一般化できるものではない。しかし、フロイトの諸論文を熟読すれば、どこまでが仮説の域を出ない物語であり、どこまでが内省によって確認しうる真実であるか、それは簡単に確かめることができるだろう。そして、フロイトの最大の功績は、不安を神経症の根本原因と見なし、その不安への心の反応、防衛機制こそ、神経症の症状を生みだす、と考えたことである。彼は次のように述べている。

「すなわち不安は危険状況への反応であり、自我が何とかしてこの状況をさけ、そこから脱するならば不安をまぬかれる。そこで、症状は不安の発展をさけるためにつくられるのだといえるが、それでは深く考察したことにはならない。むしろ、不安の発生が合図となった状況をさけるために症状がつくられる、といったほうが正しい。」(フロイト「制止、症状、不安」)。

不安は神経症の根本原因であり、症状形成はすべて不安の指し示す危険な状況を避けるために生じている。このフロイトの説明は神経症の本質を鋭く言い当てていると思う。ただ、フロイトは不安をいつでも去勢不安や性的欲望への罪悪感、死の本能による攻撃性などに結びつけてしまうので、症状形成のメカニズムを証明しえないほど複雑にしてしまっているに過ぎないのだ。私に言わせれば、まず何らかの不安があり、その不安に対して様々な心の働きが生じ、そのことが神経症の症状に繋がるとだけ言えばよかったのである。

例えば、洗浄強迫の場合、手を洗うという強迫行為は、汚れることへの不安を防ぐという意図を持っている。この場合、フロイトのように洗浄強迫の原因を肛門期への退行による攻撃性、反動形成といった理論で説明する必要はない。汚れていれば母親に怒られ、友だちにも疎まれるような経験があったなら、その不安から「きれいにしなければならない」と思うようになるのはあたり前であろう。ただ、その不安があまりにも強ければ、不安を解消するために過剰な努力が必要になり、死ぬほど手を洗い続けたり、強迫行為に走るようになるのである。

また、フロイトは神経症を自我、エス、超自我の葛藤として捉えているが、これはかなりよく考えられた理論だと私は思う。エスとは無意識の欲望であり、超自我は親の命じたルールが身につき、内的規範の重要な部分として無意識化されたものである。幼少期に親から与えられたルールは、強力で変更しがたいものとして取り込まれる。そして親のルール、特に道徳的なルールは、自分のルールとして身についていくのであり、これが超自我と呼ばれるものなのだ。

エスの欲望がある一方で、その欲望を禁止する超自我の命令があり、自我はその葛藤の中で調整を行い、場合によっては様々な防衛を試みる。「エス」対「自我」、「エス」対「超自我」、フロイトはこれが神経症の基本図式だと言うのである。これは「〓したい」と「〓ねばならない」の葛藤ということと基本的には同じなのだが、フロイトはエスを性的欲望に、超自我を道徳的要求にばかり還元してしまうので、またしても余計な仮説が鋭い直観を歪めていると言えるだろう。

実存から考える神経症

最後に、神経症を「〓したい」と「〓ねばならない」の葛藤として、私なりに捉え直しみることにしよう。

私たちは様々な「〓ねばならない」ルールを抱えており、その中でも幼少期に親に与えられたルールは、確かに強い影響力を持っている。「きれいにしなければならない」といつも親に言われ、怒られていれば、そのルールは自分の価値観として定着するようになるのである。しかし、その親の命令が過剰に神経質なものであるか、あるいは幼稚園や学校などで「汚い」とか「近よるな」といったいじめにあえば、「きれいにしなければならない」というルールは強迫的なものになるだろう。

「〓ねばならない」という内的規範のルールが過度に強すぎたり、あるいは不合理なものであれば、それに対立する「〓したい」欲望との間に葛藤が生じることになる。「〓したい」行為をそのまま実行すれば、他者から認められない、愛されない、という不安が生じるため、その欲望を抑え「ねばならない」ことになる。そのため、「〓したい」という欲望を抑圧し、「〓したい」を抑えるための「〓ねばならない」行為(強迫行為)を繰り返すことになるのである。

父親や母親の発するルールを内側に取り込むということは、そのルールを守ることで母親に愛されたいという欲望を満たすこと、父親に怒られたくない、父親のような存在になりたい、という欲望を満たすことに繋がっている。この身体化されたルールは、他の様々な人々からも認められること、他者から愛され、認められる人間であるために「〓ねばならない」という行為の基準になる。つまり、内的規範は将来において「〓したい」という欲望や、「こうありたい」という自我の欲望に繋がっていればいいのだが、そこに繋がっていない場合に神経症になるのである。

このように、神経症のほとんどは「〓したい」と「〓ねばならない」の葛藤として考えることができる。それをフロイトのように、「〓したい」を全て性的欲望に、「〓ねばならない」を全て道徳的な罪悪感に還元することはできない。フロイトが神経症の根底に不安を据え、その本質を欲望と現実原則や超自我の要請だと考えたのは全く正当なことだと言える。しかし、彼はそれを性的欲望に関わる不安(去勢不安)へと還元したことで、その本質を見えにくいものにしてしまったのである。

現在、ヒステリー患者は減少し、その代わりに不安神経症(全般性不安障害、パニック障害)の患者が増えている。このことは、社会規範の絶対性が失われ、はっきりした内的規範が形成されにくくなっていることと無関係ではないだろう。不安神経症とは、まさに不安を強く感じてしまう病であり、ヒステリーのような身体症状も、強迫神経症のような強迫行為も見られない。そのため、周囲の人間から見ると「単に不安の強い人で、病気ではない」と思われやすい面があるのだが、不安を避けるための防衛的な心の働きがないため、むしろヒステリーや恐怖症、強迫神経症よりも不安は強いと言えるかもしれない。