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12. コフート『自己の修復』

自己の修復

・コフート『自己の修復』(みすず書房)より作成

(2002.11)

第1章 自己愛パーソナリティ障害における分析の終結

自己愛パーソナリティ障害は、構造神経症のように欠陥のない構造と構造の間の葛藤が問題なのではなく、子供時代の獲得された自己の心理構造における欠陥と、この欠陥に対する防衛構造、または欠陥を埋め合わせる代償構造が問題となっている。また、自己愛パーソナリティ障害の分析を終結する時期は、次の二つのうち一つが完成された時である。1.分析によって自己の一次欠陥が露呈され、徹底操作と変容性内在化を通じてその欠陥が満たされ、その欠陥構造が機能的に信頼できるものになったとき、または、2.自己の一次欠陥をめぐる防衛や代償構造に関して、患者が認知的感情的な支配を完了し、代償構造が機能的に信頼できるものになったとき、分析は終結期に達したと言えるのだ。

M氏の分析の終結期

30代前半の著作家であるM氏は、自己評価の重い障害と深い内的空虚感、つまり一次的な構造欠陥の顕在化に陥っていた。この原因は、母親が子どもと波長を合わせることができず、適切な共感性をもって反応することができなかったこと(一次的な鏡映反応による自己対象機能の失敗)にある。通常、母親が最初は喜んで受け入れてくれる反応があり、次第に選択的な反応が増えていくことで、子どもに適度の欲求不満が生じることが望ましい。しかし、M氏は最初の無条件な受け入れを十分に体験できていないため、この欲求不満に耐えることができず、顕示性の蒼古的な形態に固着してしまった。そしてオール・オア・ナッシング型の壊れやすい防衛構造を発達させたのである。一方、この欠陥を代償するはずの著作家としての仕事にも障害があった。母親の反応性の欠如によって生じた自己構造の欠陥は、理想化された自己対象である父親との関係で癒すことができる。実際、M氏は父親が言語能力を高く評価し、顕示性の欲求を著作家という社会的に受け入れられる仕方で実現させようとしたし、それはある程度の成功をもたらしはした。しかし、M氏の父親は息子に理想化されるのを喜べなかったし、共感的に関与しながら反応することもできなかったため、視覚的イメージを適切な言語に翻訳する能力に障害を持ち続けることになったのだ(二次的な自己対象機能の失敗による代償構造の欠陥)。

終結を予期すること――被分析者にのこされた課題

自己愛パーソナリティ障害の分析では、自己の構造における一次欠陥を治癒するために、変容性内在化を通して新たな構造を獲得しなければならない。解釈が防衛を取り除き、蒼古的願望が自我のなかに侵入することで、自我に新しい構造が形成される。分析家は自己対象として用いられ、分析家の中の不安?緩和的、遅延?耐性的、その他の現実的側面が、変容性内在化を通して患者の心理的装備の部分になってくるのだ。「徹底操作によってもたらされる本質的な構造変形はこのような知的洞察に支えられた結果生じるのではなく、かつての子供時代の体験がより成熟した精神によって、くりかえし再体験されるという事実によって生み出される、ゆるやかな内在化の結果生じるのである」(p.24)。つまり、分析による構造変形は洞察の結果生じるのではなく、患者を治すのは解釈ではないのだ。これは自己愛パーソナリティ障害だけでなく、構造神経症の分析にも当てはまるのだと、コフートは強調している。

M氏の分析では、まず(母性的)鏡転移の層を活性化することに成功し、その成果をもとに(父性的)理想化転移の重要な局面を活性化することができ、心的構造の強化を達成できた。分析の終結期においては、患者は自己対象としての分析家との分離に直面するため、一時的な退行が起こる。自己愛転移の再具体化見られる場合、一次的な構造欠陥に関連していると考えられ、自己 - 対象が心理構造に変換したように見えていたのは、単なる見せかけであったように見えるのだ。徹底操作の過程で適度の欲求不満を経験していれば、分析家に依存しないですむようになるのだが、それがうまくいっていなかった可能性もある。また、代償構造の「行動化」が見られる場合は、二次的な代償構造に関連している。

精神分析を通しての自己の機能的回復についての概要

M氏の場合、母親が自己愛的な誇示に喜びをもって反応できなかったことによる欠陥は、治療の早期には鏡転移を通して徹底操作され、多少は内在化による自己受容をもたらした。勿論、それだけでは自己が修復されたと言えないのだが、治療の中期以後、分析は父親との関係による代償構造(理想化されたイマーゴ)に焦点が当てられ、これが理想化転移を通して徹底操作されたことによって、自己愛満足を得ることが可能になった。つまり、鏡転移によって一次的な構造欠陥が完全に治療できなくても、理想化転移によって代償構造が治療できれば、自己愛の衝動は満たされることができるようになり、治療を終えることができるのだ。

第2章 精神分析は自己の心理学を必要とするか

科学的客観性について

「フロイトの理論的概念化が構造神経症、あるいはその他の同じ構造をもつ心理現象に関してはいかに適切なものでありつづけるにしても、本書において示そうとするように、そっらの概念化は、自己の病理あるいは自己心理学の領域に存在するその他の心理現象に関しては十分適切とはいいがたい。こうした現象を観察し説明するためには、十九世紀の科学者のそれよりももっと幅広いものに基礎づけられた科学的客観性――内省的 ? 共感的観察と関与的自己の理論的概念化を含むような客観性――が必要である。」(p.54)。

欲動理論と自己の心理学

自己愛パーソナリティ障害の改善は、末梢的で無意味に見えるような分析家の反応によってもたらされる。そうした反応は多くの直観的分析家が自然にしていることで、それはよい結果をもたらしてきている。意識していようといまいと、分析家の共感的反応によって、自己の病理が治癒されるケースがあるのだ。欲動心理学の立場からすれば、そうした反応は分析家の中立性を損なうものであり、欲動の葛藤を解釈することが治癒をもたらすのだと主張するだろう。しかし、欲動体験は自己と自己対象の関係に従属しているのであり、自己の病理を考えるなら、口唇期や肛門期といった発達段階への固着や退行からでは説明しきれない。例えば子供の食物への願望は、単に食欲や口唇的欲動を満たしているだけでなく、食物を与える自己対象を求めているのであり、親が共感的に食物を与えてくれることを求めている。母親の共感性が維持されているなら、食物を与えるのが多少遅れても、心的外傷にはならないのだ。「欲動への認識の増大(本質的には、欲動の統御の教育的強調)ではなく、非共感的な自己 - 対象環境への抑うつ的 ? 崩壊的な反応についての認識の増大こそが、精神的健康へ向けてのあらたな動きの生じる基盤となる。」(p.64)。欲動固着が生じるのは自己が弱くなった結果であり、自己の心理学こそこの問題を包括的に捉えうるのである。

解釈と抵抗

自己心理学では、自己の一部として体験される対象(自己対象)と、自己とは独立したものとして経験される対象を区別する。「欲動心理学の仮定によると、正常発達では自己愛は対象愛へと変換され、欲動は徐々に「馴化される」。自己の心理学の仮定によると、正常発達では、自己と自己 - 対象の関係が心理構造の前駆をなしており、自己対象の変容性内在化によって自己が徐々に強化される。」(p.65)。子供は自己対象の共感的な人間環境(母親)が、自分の欲求に波長を合わせてくれることを予期しており、不安や欲求に対して母親が共感的に反応すれば、自己対象との融合を体験できる。自己の不安は自己対象の穏やかな不安にかわり、自己対象の平穏さへと至ることで、子供の不安は消失するのだ。「この一連の心理的出来事を共感的全能的な自己 - 対象との融合を通して体験することが、自己 - 対象の適量の(非外傷的、時期 - 相応的)失敗が、正常な状況にあっては、変容性内在化を通じて構造構築をみちびくことになる一つの基本線をつくりあげる。」(p.68)。

まず自己対象との共感的融合があり、次に自己対象による欲求 - 満足の行為を経験することは、子供の精神的健康に大きな影響を与えるのだが、この二段階の重要性は分析においても言える。「まず最初に被分析者は、自分が理解されたということに気づかなければならない。そしてはじめて第二の段階として分析家は、最初に共感的に把握した心理的内容を説明する、特定の力動的発生的因子を被分析者に提示することができる。」(p.69)。理解されたという段階を経ていなければ、患者は解釈に対して強い抵抗を示すだろう。解釈が受け入れられる前に、「ただ」理解するという長い期間が必要なのである。

自己の起源

アンナ・フロイトは、相互に葛藤下にある心的構造の内容は内省的意識に上るが、互いに調和している構造の内容は意識に上らないという原則があることを主張したが、自己心理学の見地からは、衰弱し断片化した自己は意識の上るが、凝集した強い自己は意識に上らないと言える。つまり、重度の精神障害のように自己が解体している状態や、正常者や神経症者のように自己が強く確立されている状態には、自己心理学はあまり重要とならない。自己心理学が重要になるのは、自己愛パーソナリティ障害のように、自己の断片化の経験が中心を占めているような状態なのである。重度の精神障害はともかく、堅固な自己における葛藤が問題であるときは、欲動心理学の古典的モデルのほうが有効であろう。しかし、自己が堅固であっても、様々な環境において自己の状態が変化することはあり、そうした変化が意識に上ることもある。特定の危険に対する不安ではなく、自己の崩壊する不安が浮かび上がってきた場合には、欲動に関する合理化ではなく、自己を支えることこそ必要になるだろう、したがって、自己心理学は欲動心理学が活躍している領域においても、長い目で見れば有効だと言えるのである。また、中核自己は意識的な賞賛や非難などによって形成されるのではなく、自己対象のなかに深く根ざした反応性によって形成される。だとすれば、早期の幼児期においても最初から自己が存在するのだと考えられるだろう。

攻撃理論と自己の分析

欲動心理学(欲動 - 防衛 - 構造モデル)では、自己心理学(自己と自己対象の関係モデル)とは対照的に、リビドー衝動に焦点が向けられている。人間の攻撃性を欲動理論の枠組みで示すなら、攻撃性は一次的(本能的)なものであり、それを抑制するのは二次的(文化的)なものだと言うことになる。例えば歯や爪で引き裂く快楽は口唇期的サディズムの問題ということになるだろう。しかし、転移における攻撃性(陰性転移、抵抗)を検討してみると、攻撃性は一次的な欲動ではなく、しばしば分析家の共感不全によるものであることがわかる。つまり、子供時代における自己 - 対象の共感不全への反応が再現しているのであり、攻撃性の起源は過去にあるのだ。「破壊性は元来、自己 - 対象環境が、適量の――最大ではないことを強調しておかねばならないが――共感反応を求める子供の要求に応じることができなかったために生じるものである」(p.91)。破壊的な怒りは、自己が傷つくことによって引き起こされる、いわば自己の断片化による崩壊産物なのであり、生物的な一次的欲求ではない。分析が到達するべき最も深いレベルは、欲動ではなく自己の構造への脅威、自己対象の共感的反応性という生命維持母胎が欠けているという体験である。被分析者が共感的となり、憤怒や罪責感が強化されるようになった発生的脈絡に気づくことが、分析において重要になるのだ。

分析の終結と自己の心理学

構造論モデルは自我心理学によって洗練されたとはいえ、基本的には局所論モデルと大きな違いはない。どちらも人間の状態を、欲動(快楽追求と破壊傾向)と欲動抑制装置(自我と超自我)の間の葛藤と見なしている。それに対して自己心理学は、人間の機能が二つの方向を目指していると考える。「もし目標が欲動の活動に向けられていれば、これを罪責人間とよび、目標が自己の充足に向けられていれば、これを悲劇人間とよぶ」(p.103)。罪責人間は快楽を追求する欲動を満足させ、性感帯に生じる緊張を減じようと試みるのだが、内的葛藤(罪責感)の結果、目標を達成することができない。これは欲動心理学でよく説明できるだろう。しかし、悲劇人間は中核自己のパターンを表現しようと求めるのであり、自己心理学でなければ説明するのが困難なのである。

構造神経症の場合、症状と性格特徴に関する知識や、獲得された制御がどれくらい信頼できるかを評価することによって、分析の進行と成功を測ることができる。自己愛パーソナリティ障害の場合には、自己の凝集性と堅固さを評価することによって、分析の成功を測ることができる。自己 - 対象転移と変容性内在化を通して自己の構造欠陥を埋め合わせることが、自己愛パーソナリティ障害の治癒をもたらすのである。それは一次欠陥を埋めることができなくとも、M氏のように代償構造を再建すればよい。「被分析者の自己が強固なものとなり、自己 - 対象の喪失に対して断片化とか重い衰弱とか制御できない憤怒というかたちで反応しなくなったとき、自己愛パーソナリティ障害の分析は終結期に達した、といえるのである」(p.107)。

第4章  双極的自己

理論的考察

早期精神発達の過程で、自己に属するものとして体験されてきた蒼古的心的内容のうち、あるものは抹殺されるか非自己の領域に加えられ、他のものは自己のうちに保持されるか付け加えられる。この過程によって核心的自己(中核自己)が確立され、それは自分が自主性と認識の独立した中心であるという感覚の基盤となる。早期乳児期にはわずかな野心と理想化目標は獲得され始め、中核的誇大性の大部分は2〓4歳にかけて、母親的な自己対象との関係から獲得され、中核的野心へと強化される。中核的理想化目標の大部分は4〓6歳にかけて、父母いずれかの親人物像に関係して獲得される。この野心と理想という自己の二つの極は心理的活動の持続的な流れをなしている。野心によって「駆り立てられ」、理想によって「みちびかれる」ような人間の基本的な追求を、「緊張勾配」「緊張弓」という用語で言い表すこともできる(分離された電極の間には電圧の勾配があり、勾配の高いレベルから低いレベルへ電気が流れ、電気的アーチの形成を誘発している)。中核自己の基礎は心理構造を選択的に包摂したり排除したりする過程によって形成され、時間的に同一であるという感覚は、中核自己の二つの主要な構成要素間に存在する活動促進的な緊張勾配の結果として形成される。したがって、断片化した自己や不完全な自己を分析によって修復するには、構造葛藤の無意識を意識化するのではなく、自己の凝集性を高めることが必要になるのだ。

種々の構造を選択的に包摂、排除する過程(第一の過程)によって、自己の原基が確立される。この過程において自己の構成要素に発達障害が生じても、第二の過程が別の構成要素を発達させることで代償し、究極的に凝集的な自己を形成することができる。つまり、子供は自己の強化に向かう機会を二度持っているのであり、この発達機会の両方に失敗すれば、病的な自己の障害に至るのだ。「二つの機会は一方では(共感的に反応する融合的 - 鏡映的 - 承認的な自己 - 対象との関係を介して)子供の凝集した誇大的 - 顕示的な自己の確立に関わり、他方では(自分を理想化し融合することをゆるし、またそのことを真から喜ぶような、共感的に反応する自己 - 対象である親との関係を介して)子供の凝集的な理想化された親イマーゴの確立に関わっている。」(p.146)。この鏡映的自己対象から理想化自己対象への発達的推移は、少年の場合では母親から父親へ移行するが、少女の場合は自己対象への欲求が同一の親へ向けられることも多い。要するに母親が子供の中核自己を確立するのに失敗しても、父親が補える、ということである。

自己の病理についての一つの分類

自己の障害は一次障害と二次障害に分けられる。二次障害は強固に確立されていた自己が、人生経験において挫折したりする中で生じるものに過ぎないが、一次障害には次の5つの精神病理が属している。1.精神病(自己の永続的あるいは遷延性の崩壊、衰弱、歪み)、2.境界状態(自己の永続的あるいは遷延性の崩壊、衰弱、歪みが、防衛構造によって覆い隠されている)、3.スキゾイド・パーソナリティとパラノイド・パーソナリティ(前者は冷たさと浅薄さ、後者は敵意と疑い深さによって、他人に対して安全な感情的距離を保つ)。4.自己愛パーソナリティ障害(軽蔑に対する過敏性や心気症、抑うつなど、自己変容的症候の形で現れる、自己の一次的な崩壊、衰弱、歪曲)。5.自己愛行動障害(性倒錯や非行、嗜癖など、外界変容的症候の形で現れる、自己の一次的な崩壊、衰弱、歪曲)。最初の3つは分析不能であり、ラポールは確立できるかもしれないが、自己対象(分析家)との限局された転移性融合にまでは至らない。後の2つは分析可能であり、自己対象としての分析家と転移性融合に向かうことができる。

X氏の分析から

X氏の母親は彼を理想化し、その誇大性を支持する一方で、父親に対しては非常に侮蔑的な態度を取っていた。そのため、彼は父性的理想による代償構造を十分に発達させることもなく、あらわな誇大観念、自己顕示性を示すようになっていた。コフートによれば、X氏のパーソナリティは垂直に分割されており、第一の区域では母親との融合をもとにした誇大性が維持され、第二の区域では、反応を受けない誇大的 - 顕示的断片と、父親に対する賞賛的態度に関係した理想化 - 目標構造によって特徴づけられる断片がある。しかも、理想化された自己対象との融合による中核自己の理想部分は抑圧され、水平分割によって分離されている。(p.163図参照)。

X氏の分析過程は、まず垂直分割を維持していた障害を打ち壊すことに焦点を向ける必要がある。この障壁が撤去されれば、それまで優勢であった自己体験は母親との融合によって生じていたに過ぎず、独立した自己から生じていたわけではないこと、その一方であまり意識されていなかったが自己体験があり、それは正当な自己を構成していることに気づくことができる。垂直分割が除去された後、水平障壁(抑圧障壁)に焦点を移行し、意識的な自己体験の下にある、無意識的な構造(中核自己の理想部分)を意識化させることが必要になる。強さの感覚を一時的にしか与えない嗜癖的・性愛的表現から、理想化自己対象との関係を再活性させる基本的欲求へと連れ戻す必要があるのだ。精神病理の最早期の層は、それに対してわずかの作業がなされた後は自己から後退することが多く、重要な作業に進行するものである。X氏の場合、それは父親イマーゴの回復と代償構造の確立であった。蒼古的材料に執着してこのような進行を無視してしまうのは、明らかに誤りなのである。

「われわれが精神分析の目標についての定義を認識の領域(無意識を意識化すること)に限定するかぎり、精神分析は患者に新たな選択権(「決定を下す自由」)を与えるというのは当を得たことである。しかし、われわれが構造的欠陥を満たすという問題について、つまり自己の修復について語るときは、事態は別のものとなる。」(p.167)。

第6章  自己の心理学と精神分析状況

「精神分析過程で、分析家の心は、深みに関わっている。注意を等しく漂わせることの本質は、意識的で目標 - 指向的で論理的な思考過程を停止するといった否定的な言葉で定義づけられるべきではなく、被分析者のおこなう自由連想に対する分析家の側の対応物として、つまり分析家の側の認知と思考の前論理的な様式の出現ならびに利用として、肯定的に定義づけられるべきである。いいかえるなら、等しく漂う注意は、被分析者の自由連想への分析家の積極的な共感的反応である。あるいは、分析家の漸進的中性化の領域に由来する無意識の最も深い層(コフート 一九六一年、コフートとザイツ 一九六三年)が関与する反応である。」(p.199)。

精神分析において中立的な分析雰囲気が重要であることは確かだが、それは別に「できるだけ少ない反応」という意味ではない。分析家の人間的温かさは、分析家の心の深層がたえず関与しているということであり、それは分析過程にとって必須条件なのである。例えば患者の執拗な質問が幼児期の転移の現れであり、共感的反応を求めている場合、これを不自然に拒否するのでなければ、子供時代の反応はより明確に理解できるだろう。分析状況における適切な中立性とは、悩んでいる人に対して理解の鋭敏な人がとる態度のように、普通に共感的な態度であるべきなのだ。構造神経症であれば、子供の頃過度に刺激されたために傷ついているので、分析家の感情抑制や沈黙反応は被分析者の要求と波長が合いやすいが、それでも非共感的なものとして体験される可能性はある。自己愛パーソナリティ障害の場合、感情抑制や沈黙反応は明らかに有害な結果を引き起こす。それは患者の幼少期における親の反応を反復してしまうからである。「新たな心理的構造の構築とともに、被分析者の憤怒への傾向を軽減するのは、子供時代の病因的な自己 - 対象が転移のなかで復活することと――有害な子供時代の環境を再構成することと――自己 - 対象の反応の失敗にもとづく人生早期の外傷状態を徹底操作することである。」(p.207)。