01. フロイト『夢判断』
・フロイト『夢判断』(『フロイト著作集2巻』人文書院)より作成
(2000.6.13,7.18:フロイト研究会: 山竹伸二)
〓.夢の問題の学問的文献
本書では、夢が目覚めている時の心の動きの中に、ある一定の位置に据え置くことのできるような心の所産だということ、そして夢がなぜ奇妙なとりとめもないものなのか、それを明らかにしたいと思う。古代ギリシア、ローマにおいては、夢は神やデーモンのお告げだと考えられ、外部の別世界からやってきたものとされていた。その後、アリストテレスは夢を魂の働きだと考え、現在の夢に関する研究の端緒を開いたが、本格的な夢の研究が始まるのは近代を待たねばならなかった。以下、夢の学問的文献を問題別にまとめておく。
A 覚醒状態に対する夢の関係
ヒルデブラントによれば、夢は現実の生活から切り離された、それ自体でまとまった存在なのだが、夢の材料は現実の生活から採ってこられたものであり、結局は現実の世界から完全に遊離することはできない。
B 夢の材料――夢の中での記憶
夢が覚醒時には覚えのないような記憶や言葉を材料として駆使することは、多くの報告が物語っている。ヒルデブラントやシュトリュムペルは、夢が覚醒時において意義のあるものではなく、どうでもいいような些細なものを材料にすることを強調し、特に忘れていた幼年時代の生活が材料になるのだと述べている。だからこそ、一見、夢は意識生活と繋がりがないように見えるのである。
C 夢の刺激と夢の源泉
夢の源泉には、外的感覚刺激、内的感覚興奮、内的身体刺激、純粋に心的な刺激の4つがある。外的感覚刺激は睡眠中に外部から受ける刺激で、明らかに夢の源泉となっている。内的感覚興奮は主観的な刺激によるもので、例えば幻覚をみた後で夢に幻覚の内容が出てくるように、これもまた夢の源泉と考えられる。内的身体刺激は身体器官から発するものであり、心臓や肺が悪いと不安な夢を見るし、消化器系統の障害では吐いたりする夢を見る。最後に心的刺激だが、これは覚醒時における関心であり、夢の形象の由来を解き明かす重要な夢の源泉なのだが、これまでの研究では重視されていない。
D 眼が覚めると夢を忘れてしまうのはなぜか
シュトリュムペルによれば、夢には秩序もなければ論理もないため、すぐ次の瞬間バラバラに崩れてしまうような構成になっており、記憶されるための条件を欠いている。しかも眼が覚めると外部の感覚世界のことに忙殺され、わずかに覚えていた夢の記憶も自由勝手に歪められ、忘れられてしまうのである。
E 夢の心理学的な諸特異性
フェヒナーは、夢の舞台は覚醒時の表象生活の舞台とは別物だと主張している。例えば覚醒時の思考は概念によって行われるのだが、夢は概して視覚的形象、聴覚的形象によって思考する。勿論、睡眠時には外界に対して背を向けているため、それは思考というより実際の体験として信じられている。こうした夢の表象を互いに結びつける連想作用は覚醒時の連想作用とは違い、特殊なものである。
F 夢の中における倫理的感情
不道徳な衝動は覚醒時にもあるのだが、実際の行動にならないように普段は抑止されている。しかし、ヒルデブラントやモーリによれば、睡眠時にはこの抑止がなくなり、夢は隠された倫理的欠陥をわれわれに知らせることになる。
G 夢理論と夢の機能
夢理論は主に次の3つの説に分けられる。1)覚醒時の完全な心的活動は夢の中でも継続されるという説。この説では夢の奇妙な連想の説明ができない。2)夢では心的活動が低下し、諸関連が弛緩し、材料が貧弱になるという説。これは夢を部分的覚醒と考える説で、夢における奇妙な連想の説明もできるのだが、何のために夢を見るのかはわからない。3)覚醒時においては不完全か全く行えないような心の仕事への能力が夢にはあるとする説。これなら、夢は覚醒時の不完全なものを補うためにある、と考えることができる。
H 夢と精神病との諸関係
グリージンガーは、願望充足を夢と精神病に共通な表象行為だと述べている。夢と精神障害は一致する点も多く、将来、精神障害のメカニズムを解明する上でも大きな意味を持つであろう。
〓.夢判断の方法――ある夢実例の分析
「夢を解釈する」とは夢に「意味」を与えることであり、心的諸行為の連鎖に、夢を同資格のものとして組み入れることを意味している。夢に意味を与えるやり方には、象徴的夢判断(夢を一つの全体と捉えて類似の内容に置き換える方法)、解読法(解読のキーを頼りに、夢を暗号文のようにみる方法)などが昔からあったが、学問的には無視されている。しかし、夢には実際に意味があり、学問的な夢判断の方法も可能だということを、私は精神分析の治療の中で確信するようになった。病的表象は、それが患者の精神生活から出てきた諸要素へ還元されると、患者はこの表象から解放される。では、夢を一病的症状のように扱い、精神分析の技法を適用してみたらどうかと考え始めたのだ。精神分析が成功するかどうかは、患者が自分の頭の中に浮かんだこと一切を包み隠さず言ってくれるかどうかに懸かっている。そこで、あまり重要でなさそうだとか、関係ないと思っても、これを抑えつけず、批判せずに観察し、報告するよう指示するのである。意識的な批判が後景に退けば、「欲せられざる諸観念」が浮かび上がってくることになる。この方法を夢判断にも同じように適用するのである。
<イルマの注射の夢>
大きなホールに多くの客がおり、その中にイルマもいる。私はイルマに「まだ痛むといったって、それは実際に君自身の咎なのだ」と言うと、イルマは「私がどれほど痛がっているか、頸、胃、お腹なんかがどんなに痛いか、おわかりかしら。まるで締めつけられるようなんです」と言う。私はびっくりしてイルマを凝視すると、蒼白く、むくんでいる。これは内臓器官関係のことを見落としていたかなと思い、喉を診ようとすると、イルマはちょっといやがる。いやがることはないのに……。右側に大きな斑点、別の場所に鼻甲介状の縮れた形の白灰色の結痂がある。ドクター・Mを呼んで診てもらうと、間違いないという。友人のオットーもレーオポルトも傍にいる。Mは「これは伝染病だが、しかし全然問題にならない。その上、赤痢になると思うが、毒物は排泄されるだろう」と言った。どこからこの伝染病がきたかも分かっている。オットーが、イルマが病気になって間もない頃にプロピュール製剤を注射したのだ。……プロピレン……プロピオン酸……トリメチラミン(この化学方程式はゴシック体で見えた)……この注射はそう簡単にはやらないものなのだが……おそらく注射器の消毒も不完全だったのだろう。
分析:
最初のイルマとの会話は、まだイルマが痛みを持っているとしても、それに対してフロイトは責任を持ちたくないということを意味している。また、蒼白く、むくんでいたある女性と、ディフテリアと診断されていたイルマの親友(白い斑点はディフテリアを意味する)の2人が、イルマとすり替えられている。そして、苦痛の原因がディフテリアのように器質的なものならば、フロイトはまたしてもその治癒に責任がないことになる。しかし、イルマをディフテリアという重病にしたままでは良心に咎めるため、「全然問題にならない」というMの慰めの言葉が必要となったのだ。オットーとレーオポルトの2人が登場するのは、用心深いレーオポルトを賞賛し、プロピュール製剤を注射したオットーを批判するためであろう。前日、フロイトはイルマについてのオットーの発言の中に、自分への非難を感じていたのである。トリメチラミンは性的新陳代謝の産物だとフロイトは聞いたことがあるため、ゴシックで強調されていたのは、性的要素の優位に対する暗示を意味しているのだろう。これもまた、フロイト自身の理論(性欲を重視した理論)を正当化することに繋がっている。
以上が分析結果だが、フロイトはこの分析の遂行にあたって、あまりにも多くの思いつきが浮かび上がってくるので、それを追い払うのに苦労したと述べている。この夢は、その日の夜のいくつかの事件(オットーの報せ、病歴執筆)によって生じた願望を充たしている。つまり夢の結論は、現在のイルマの苦痛に対しては私の責任ではなくオットーに責任がある、ということになるのであり、フロイトの願望を充たしているのである。夢は実際に意味を持っており、夢の内容は願望充足なのである。
〓.夢は願望充足である
願望充足が夢の唯一の意図であるから、夢は完全に利己主義的である。夜中に喉がかわけば、水を飲む夢を見る。また、子どもの夢も単純な願望充足を示しており、苦労して解くべき謎も少ない。子どもは性的欲望に関する夢は多くないかもしれないが、食べたいお菓子が出てくるなど、食欲に関する夢は多く、夢が願望充足を意図していることを端的に教えてくれるのである。
〓.夢の歪曲
「夢は願望充足である」という命題の一般化は、苦痛夢や恐怖夢によって否定されるように思える。しかし、夢の顕在内容が苦痛や不安を示していても、分析してみれば、その潜在内容はやはり願望充足夢であることがわかる。イルマの注射の夢にしても、うわべはさりげない内容であったのに、潜在内容は願望充足を意図していた。では、なぜ初めから願望充足という性格を示さないのだろう。夢はなぜ分析してみるまでその意味がわからないほど歪曲されているのだろうか。これについてフロイトは次のような夢を例にして説明している。
<フロイトの教授任命に関わる夢>
その夢の前日、フロイトは助教授に任命されるかもしれないという噂を聞いていたが、それは宗教上の理由から考えても、かなり難しいことであった。夢の内容は、友人Rが伯父であり、かなりの親愛の情を感じていること、友人Rの顔つきがいつもと違っていることなどが思い出された。馬鹿げた夢のように思えたが、フロイトはそれを自分の抵抗の現れだと気づき、分析に取りかか
る。フロイトの伯父ヨゼフは罪を犯して裁きを受けたことがあり、父が「ちょっと足りないところがある」と言いながら心配していたことを思い出す。Rが伯父であるなら、フロイトは「Rには少し足りないところがある」と考えていることになり、それは承認しがたい不愉快なことだという。また、同僚のNも教授候補になっていたが、彼は告訴されたことがあるため、自分の昇進は難しいと言っていたことを思い出す。つまり、夢の中の伯父はRとNの2人とすり替わっているのだ。RとNの教授任命が遅延しているのが宗教上の理由であるなら、それはフロイトにも同じことが考えられる。しかし、遅延の理由が、Rが馬鹿者でNが罪人であるためなら、フロイトの教授昇進には十分な見込みがあることになる。しかし、自分が教授になるために2人の友人をおとしめたのだとすれば、それは納得しがたいことだとフロイトは思う。第一、彼は夢の中でもRに親愛の情を感じているのだ。ところが、この親愛感こそRが馬鹿だという自分の主張を隠すものであり、潜在内容が歪曲(偽装)されたものなのである。最初に馬鹿げた夢だと思ったのも、この不愉快な自分の主張に直面したくなかったのだと言えるだろう。
ここまでの考察から、夢の形成には2つの心的力が関わっていることがわかる。願望を形成する力と、夢の願望に検閲を加え、その表現を歪曲する力である。第二の検問所の検閲特権は、意識への入場を許可するかどうかという点にあり、好都合に変更(歪曲)した上でなければ、検問所の通過を許すことはない。だからこそ、苦痛内容は快楽内容の偽装として夢の舞台に現れるのであり、あらゆる夢の意味は願望充足なのである。(こう考えてみると、「意識する」とは、「表象する」過程とは別種の、「表象する」過程からは独立した独特の心的行為であるように思える。意識は別のところから与えられた内容を知覚する、一個の感覚器官のようなものなのかもしれない。)
<フロイトの患者の夢>
この婦人患者の夢は、人を夕飯に招待しようと思ったが、薫製の鮭が少しあるほかは何の貯えもなかったので断念した、というものである。買い物に行こうと思ったが、日曜の午後なので店は閉まっているし、出前も電話の故障でできなかったのだ。分析の結果、この夢の前日、患者は女友達を訪問していたこと、彼女は「いつまた夕ご飯によんで下さる?」「もっと肥りたい」と言っていたことがわかった。この女性のことを夫は誉めそやしていたが、彼女は痩せており、夫は豊満な女性が好みである。フロイトはこの夢を、夕飯をご馳走したくない願望の充足だという。夕飯をご馳走すれば、女友達の身体はふっくらとし、夫の好みの女性になってしまうからだ。しかしこの願望は、夕飯に招待したかったのにできなかった、というような話に歪曲されている。また、患者は女友達の代わりに自分自身を夢に登場させ、自分の願いが充たされない夢を見ていることになるので、これは女友達への同一化が生じていると考えられる。同一化はヒステリー的思考によるものであり、患者は自分を女友達の位置に置くことで、夫に誉めそやされたいと願っているのである。
フロイトは様々な患者から「自分の夢は願望充足ではない」という反論を受けているが、彼はそれをことごとく願望充足の夢として分析してみせる。例えば、フロイトの言っていることが間違っていてほしい、という願望の充足だった患者もいる。子どもの死を悲しむ夢をみた患者に対しては、愛する人に(葬式で)会えるからだと分析している。「願望に反する夢」の多くは、フロイト(分析医)の言うことが間違っていることを願うような願望か、マゾキズム的要素(攻撃的・サディズム的要素が転化したもの)による願望のいずれかである。後者はマゾキズム的願望を「不快な夢」によって充足しようとするものだ。いずれにしろ、夢が大きく歪曲されているのは、その夢の願望に対する嫌悪・抑圧意図が存在するからであり、「夢は、ある(抑圧され・排斥された)願望の、(偽装した)充足である。」
〓.夢の材料と夢の源泉
A 夢の中に出てくる最近のものと些細なもの
どんな夢の中にも、前日の諸体験への結びつきが見いだされる。二、三日前の印象が出てくることもあるが、前日にその印象を思い出していることがほとんどで、一晩も経っていないような諸体験こそ夢の材料の中心となるのだ。ただし、前日の諸体験がもっと遠い過去の諸体験に結びついている限りでは、その材料を人生のいかなる時期からも選び取ってくることができる。また、夢に関する諸印象の第一のものは、どうでもいいような、付随的な事情であり、ごく些細なものが夢の材料となるのである。この重大なものから些細なものへの心的アクセントの「移動」は、夢の検閲によって願望を隠すように歪曲されたことによるものだ。だからこそ、さして重要ではない諸体験の残滓が夢に使われるのである。また、夢の作業には、存在する夢の刺激源を統一体へとまとめ上げる、一種の強制力がある。前日の二つの異なった体験も、夢の中では一つのものになるのである(圧縮)。
ここで夢源泉を認識させる種々の条件を整理すると、1)夢の中へ直接出てくる最近の重要な体験(イルマの注射の夢、教授任命に関わる夢)、2)夢によってひとつの統一体に結合される数多くの最近の重要な体験、3)夢内容中に些細であるが時を同じくする一体験を通じて表現される一つないしはそれ以上の最近の重要な体験、4)夢の中で必ずある最近の、しかし些細な印象によって代理される内的な重要な体験、の4つに分けることができる。また、いかなる無意味な夢刺激物もなく、無邪気な夢もない。無邪気な夢の中には、性的要素が検閲によって歪曲され、些細なものに移動(偽装)しているものが多い。われわれは些細事のために睡眠の邪魔は絶対させないものなのである。
B 夢の源泉としての幼児的なもの
夢を生み出した願望自体は、幼年時代に由来することも多い。例えば先に挙げた「教授任命に関わる夢」なども、幼年時代(偉い人物になると周囲から言われていた)の欲望に繋がっているのである。たとえ現在の願望であっても、遠い幼児の思い出から強力な援護を受けていることが多い。どんな夢の顕在内容にも、ごく最近体験したことへの繋がりはあるが、これに反して潜在内容の中には、現在にいたるまで「最近のもの」として保存されてきたような、非常に古い体験への繋がりがある。いくつかの願望充足が一つの夢に統一されているばかりでなく、一つの意味、一つの願望充足が他のものを隠蔽していて、その衣をはいでいくと、一番下のところで非常に早い幼児時代の願望の充足実現にぶつかることが非常に多い。これは「必ず」と言った方がいいかもしれない。
C 身体的夢源泉
身体的刺激源には、1)外部の諸対象から出てくる客観的感覚刺激、2)主体的にのみ基礎づけられるところの感覚器官の内的興奮状態、3)身体内部から発する身体刺激の3種類がある。これらが夢に影響を与えることは、幾多の観察、実験によって確かめられている。しかし、このような外的刺激源(生理的刺激源)だけで夢が十分説明されるわけではない。夢を見させる動機が身体的刺激源以外のところになければ、夢形成ということはあり得ないのである。すでに述べたように、夢は最近の材料と幼児期の材料を好むのだが、ここに睡眠中における新しい興奮材料(身体的刺激)が加わると、これも一緒になって夢形成に(些細な印象として)材料を提供する。特に身体的刺激が睡眠を妨害し、夢を中断させることになりそうな場合は、その材料を夢にさりげなく織り込むことで、睡眠を続けることを可能にしている。目覚まし時計が鳴り響いても、その音が夢の中でサイレンに偽装されていれば、睡眠を続けることができる。眠り続けたいという願望はつねに夢形成の動機となるのであり、夢を見ること自体がこの願望の充足となるのである。
D 類型的な夢
誰にでも同じように現れてくる夢は、同一の源泉から出てくると推測できるため、夢の源泉を解き明かすのに都合がよい。いくつか例を挙げてみよう。
a)裸で困惑する夢
他人の前で裸だったり、無様な服装でいたりする夢で、羞恥と困惑を覚え、その場から逃げ出したくともできない。しかし、周囲はそれに対して無関心である、という夢である。幼児時代は、裸は少しも恥ずかしいものではなかったし、何も恥ずかしがる必要のないパラダイスであった。裸体夢はこのパラダイスへと連れ戻すことで、願望充足を意図している。しかし、露出場面は第二の心的組織によって拒否されているため、この表象は羞恥と困惑を生じさせるのである。検閲の要求に従えば、この露出は中断すべきものなのだ。なお、同じ露出の夢でも、困惑や羞恥を感じない場合は類型夢ではない。
b)近親者が死ぬ夢
これは夢の中で悲しみを感じる場合と感じない場合があるのだが、後者は類型夢とは言い難い。何故なら、甥の死によって愛人と再会できたというような夢は、甥の死を願望するとか願望しないとかは、些末な問題であるからだ。このことから、夢の中の感情は潜在内容に属するものであり、表象内容のようには歪曲を受けない、ということがわかる。これとは逆に、類型夢としての近親者の死は苦痛に満ちており、しかも近親者の死を願望しているものである。勿論、夢を見た時点でその人の死を願っていることはほとんどない。多くは、幼児時代のある時期に抱いた願望なのである。
子どもは利己的であり、何が何でも自分の欲求を満足させようとする。妹や弟が生まれれば、親の愛情が自分から離れてしまうので、この世にいなければいいと感じるだろう。しかし、子どもが軽々しく「死んじゃえ」と言ったとしても、その子はまだ死の悲惨や恐怖については何も知らないのだ。子どもにとって「死んだ」ということは、「行ってしまった」というくらいの意味なのである。また、親の場合は自分と同性の親が死ぬ夢を見る。これは、男の子は母親に、女の子は父親に最初の愛情を向け、同性の親を自分の恋仇と見なすためである。これには父親が娘を可愛がったり、母親が息子に加担するといったような、親の態度によるところが大きい。子どもは自分を可愛がってくれない方の親に反抗するのである。(この見解を支持するような伝説として、エディプス王伝説とソポクレスの同名の劇がある。また、シェイクスピアの「ハムレット」は、父の亡霊が命じた伯父殺しをなかなか遂行しない。これは、ハムレットの幼児時代の願望が伯父と同じであるため、その罪悪感から伯父殺しを遂行できないのだ。)近親者が死ぬ夢は、その途方もない願望ゆえに検閲を免れ、歪曲されずに現れる。だからこそ苦痛がともなっているのである。
c)試験の夢
この類型夢は、試験に落第して、もう一度繰り返さなければならないという夢である。試験に落第する夢は、幼年時代にしてはならないことをして受けた罰への、消し去りがたい記憶がもとになっている。この記憶が、厳格な試験の日において、心の中に戻ってくるのである。
〓 夢の作業
本章の課題は、夢思想(潜在内容)がいかなる過程を通じて夢内容(顕在内容)へと変わっていくのか、それを探求することにある。顕在内容は一種の象形文字で綴られていて、その一つ一つを潜在内容の言葉に翻訳してみなければならない。これらの象形文字を記号関係に従って読もうとせずに、その形象価値に従って読んでしまえば、必ず迷路に踏み込むことになるのである。
A 圧縮の作業
夢の圧縮作業とは、夢思想における複数の人物や物の要素だけが選択され、綜合人物や混合物など、新たな統一的形象を作り上げることである。例えば「イルマの注射の夢」においては、イルマはフロイトの娘や妻、中毒のために死んでしまった女性患者、小児施療所の子ども等、複数の人物の特性が統合され、一個の綜合人物が作り上げられている。また、圧縮作業を示す絶好の材料として、夢における言語形成物(合成語)がある。夢の作業が圧縮しようとする対象に言葉と名称とを選び与える時、滑稽な、そして奇妙な造語が作られるのだ。例えば、ある女性患者の夢における「Maistollmutz」(マイストルミュッツ)という綴り字は、Mais(玉蜀黍)、toll(乱痴気騒ぎ)、manstoll(男狂いの)、Olmutz(オルミュッツ=地名)などが圧縮されたものである。また、こうした言語の変造は、妄想症やヒステリー症、強迫観念にも見られる。
* 意識における言語は物表象と語表象の二つからなるのだが、無意識では物表象しかないため、夢で
は語が物のように現れて、圧縮されたり分割されたりする。
B 移動の作業
夢思想の中で強い関心のあった要素は、価値度の低かった別の要素に変換されて夢内容に現れ、まるで価値なき要素のごとく取り扱われることがある。夢の作業に働いている心的な力は、一方では心的に価値の高い諸要素からエネルギーを剥奪し、他方では多面的制約(多方面に繋がっていること)の途を通じて、価値度の低い諸要素を価値ある要素に作り変え、この新しい諸要素が夢内容に入ってくるのだ。このように、夢形成においては個々の心的強度の転移および移動(置き換え)が行われる。
C 夢の表現手段のいろいろ
夢は、個々の夢思想の間にある論理的諸関係を表現すべき手段を持ち合わせていない。「もしも」「……がゆえに」「ちょうど……のように」「といえども」「……か、あるいは……か」といったような前置詞は、夢の中では無視され、具体的な内容だけが加工されるのである。したがって、夢の作業が打ち壊したこれらの関連を復元するのは、夢判断の手に委ねられることになる。夢の外見上の思考によって表現されているものは、夢思想の材料の属性なのであって、夢思想間の関係、夢における知的作業の表現ではないのだ。しかし、この論理的な組立てをできるだけ暗示しようと努める夢もある。以下、その例を挙げよう。
1.夢の中で二つのものが近接して出てくる場合は、夢思想における緊密な関連を示している。2.短い夢Aと長い夢Bに分けられていれば、「Aであるから、Bである」というように、両者の因果関係を意味することもある。3.「……か……か」という二者択一の表現は夢にはない。夢の話し手が「庭か部屋かどっちかでした」と言う場合、それは「庭と部屋」という、単なる並列と見るべきである。4.夢に「否」は存在しないので、その反対物によってしか表現されない。5.夢は類似性、合致、「ちょうど……のように」などの論理的諸関係については、すでにある夢材料に同一化するか、新たな統一へと混合化することによって見事に表現する。「Aは……だが、Bも……だ」という場合、Bのような行動をとるAが出てきたり、AとBを合わせた混合人物が出てくる。6.夢の形式は、しばしば隠蔽された内容表現のために利用される。例えば夢に不明瞭な箇所(欠如)があれば、女子性器(ペニスの欠如)を意味する等。
* 夢においては、思考形式は物のように形象化し、思考対象となる。例えば、「2+2=4」における「+」や「=」のような形式が、夢においては「2++=4」のように「2」や「4」のような要素として現れる。無意識には思考形式と思考対象の峻別はないのである。
D 表現可能性への顧慮
夢思想の平板で抽象的な表現は、夢内容においては形象的で具象的な表現と置き換えられる。夢の材料には視覚的形象が優先的に採り上げられ、それによって夢の様々な表現が可能になっているのである。
E 夢における象徴的表現――続・類型夢
夢は様々な象徴を偽装的表現にさいして利用するのだが、これらの象徴の中には必ずといっていいほど同一の意味を有するものがある。長くとがった武器は男性性器、部屋や容器類は女体、階段での昇降は性行為、等々。これらは特に類型夢の分析には有効である。類型夢は、「歯の刺激の夢」(手淫欲望を示している)のようにいつも同じ意味を持つものと、飛行したり墜落する夢のように、内容が同一でも全然意味が違うものの2つに分けられる。しかし、象徴の意義を過大に見積もるべきではなく、夢を見た本人の自由連想にこそ決定的な意義がある。
F 実例――夢における計算と会話
夢の作業は計算などしない。夢に計算する場面が出てきても、それは表現できない材料への暗示となる数字を並べているにすぎないのだ。また、夢は文句や会話を新たに創造したりはしない。筋の通った会話であろうとなかろうと、実際の会話や小耳にはさんだ文句の切れ端を夢思想の中から借用し、本来の文脈とは無関係な形に組み合わせたり、こま切れにしているだけである。
G 荒唐無稽な夢――夢における知的業績
夢内容の荒唐無稽性は表面だけのものにすぎない。それは、批評と嘲笑が夢を見ている本人の無意識を動機づけている場合、「ばかげたことだ、無意味だ」という批判が、夢の荒唐無稽性として現れているだけなのだ。一方、夢内容における批判のような活動は、夢作業の思考活動ではなく、夢思想の材料に属している。それは夢思想における批判の繰り返しであり、それが仕上げの済んだ形成物として夢内容に入ってくるのである。また、ひとが覚醒後に夢に下す批判、夢の再現が呼び起こす諸感情などは、その大部分が潜在夢に属している。
H 夢の中の情動
情動は表象との結合においてのみ考えられるのだが、夢においては、危険な表象であっても全く怖くなかったり、些細なことに激怒している場合がある。このように、夢において情動と表象が適合しないのは、情動の方は元のままであるのに、表象内容の方だけは移動と代理という夢作業を受けているからである。情動は検閲の作用に屈服しないため、表象群から離脱して夢内容に現れる。しかし、情動も全く夢検閲の影響を受けないわけではなく、抑制されたり、反対物に変えられることもある。また、夢の中の情動が単一の源泉によるものとは限らず、複数の情動源泉が夢作業において同一の情動を形成していることも少なくない。(この情動と表象の関係は、夢よりも神経症においてはっきり現れる。ヒステリー患者や強迫神経症患者は、些細なことを怖がったり、自己非難のきっかけにしてしまい、そんな自分自身を不審に思うものだ。神経症者における情動はつねに本物なのであり、精神分析はこの情動に釣り合っていたはずの、抑圧された表象を探し求めるのである。)
I 第二次加工
夢の検問所は夢内容を制限したり削除したりするだけではなく、夢内容に新しいものを添加し、不合理で支離滅裂なものを筋の通った体験に加工する機能もある。このため、夢はその加工された筋立てに意味があるように見えるのだが、これは実際の夢の意味からひどくかけ離れている。この夢を形成する第四の契機を第二次加工という。
以上、これまでの夢を形成する契機を4つにまとめると、1.検閲の目を逃れようとする要求(移動)、2.心的材料の圧縮、3.感覚的形象による表現可能性への顧慮、4.合理的外観への顧慮(第二次加工)、となる。
〓 夢事象の心理学
A 夢を忘れるということ
夢の忘却はその大部分が抵抗の仕業である。したがって、夢分析に際して忘れられた夢の箇所は偽装(夢作業)の成功しなかった箇所であり、それが突然思い出された場合、それこそが夢の最も重要な部分だと考えてよい。(しかし、夢にはどうしても解けない結び玉(夢の臍)があり、それについては放置しておかざるを得ない)。抵抗は日中も働いているが、夜の間はその力の一部を失っており、このことが夢の形成を可能にしている。睡眠状態は検閲の威力を減退させることで夢形成を可能にしているのである。夢判断は目標のない表象に身を委ねているという批判があるが、無意識の目標表象が諸表象の流れを決定しているのであり、目標表象のない思考というものはない。意識的な目標表象は抵抗の支配下にあるのだが、抵抗が弱まれば抑圧されていた目標表象へ導かれ、一見不合理にも思えるような連想に結びつくのである。
B 退行
心という装置を一つの組立て道具(顕微鏡や写真機のようなもの)として考えると、それぞれの映像(表象)がどのようにして成り立っているのかを考えることができる。まず、心的活動を何らかの刺激から発して反応へ至るものだとすれば、第1図(442頁)のように、心的過程は知覚を受け取る組織(知覚末端)から身体的反応を起こす組織(運動末端)へと経過する。その際、諸知覚が心の中に痕跡(記憶痕跡)を残すことは、連想が生じることからも明らかである。だとすれば、記憶力を持たない知覚末端の背後には、記憶する組織があることになるだろう。しかも、同一の興奮(知覚刺激)が様々な定着化を受けていると考えられるので、記憶組織は複数あるのだと仮定できる(第2図:443頁)。また、記憶が様々な抵抗を受けながら運動末端に達するのだとすれば、運動末端の直前には批判を加える組織(検問所)があるのだと想定できる(前意識)。そして、前意識の背後には、前意識を通過する以外に意識に通じる途を持たない組織(無意識)がある(第3図:445頁)。
この心的装置で夢を考えると、興奮は覚醒時のように運動末端の方へ移動するのではなく、逆に知覚末端の方へ移動するのだと考えられる。これは複雑な表象(観念)から、それがかつて出てきたところの感性的形象へ逆戻りしていることを意味する。日中は知覚末端から運動力へ向かって流れる潮流も、夜間は抵抗の力が弱まり、意識へと逆流するのである。前意識における夢思想の構造は解体し、夢思想は元の素材に還ってしまう。夢は退行的性格を持つのである。これは、夢が幼児期場面の代用物でもあることからも言える。また、ヒステリーや妄想症の幻覚、正常人の幻影なども退行と見なすことができる。
C 願望充足について
思考活動によって衝動を制御するようになると、子どもに見られるような強烈な願望の形成は断念される。そのため、自我の意識的願望は同内容の無意識的願望によって強化されなければ、夢を作り出すだけの十分な力を持たない。この無意識的願望とは、検閲がまだ存在しなかった頃の幼児期願望なのである。しかし、意識的願望が無意識的願望と合致しない場合もあり、抑圧されていた無意識的願望の充足に対して、自我は苦痛な観念を夢に登場させて抵抗しようとする。これが不快夢や刑罰夢である。それは、ある意味で自我の願望充足(懲罰願望)を示している。したがって、夢の願望は、「意識」対「無意識」という対立より、「自我」対「抑圧物」という対立によって考えた方がわかりやすい。(これは、後に上位自我の議論に繋がっている)。ヒステリー症の症状も夢と同じで、二つの対立的願望充足が一つの表現において出会う場合にのみ生じている。
もともと人間の心は、最初はできるだけ自分を無刺激な状態に置こうとするものだったに違いない。だからこそ、外部からの刺激・興奮を直ちに運動として放出するという、先の図式を採用したのだ。だが、内的欲求に発する興奮(例えば食欲)は、単に手足をバタバタすれば解消できるものではない。そのため、この願望が一度満たされれば、その興奮(欲求)が生じる度に、これを解消しようという原始的思考がこの時の知覚の記憶像を呼び起こすことになるのだ。しかし、この知覚の再生は満足をもたらさないため、より合目的的な思考活動が始まり、興奮の抑制を可能にしていったのであろう。夢は原始的思考への退行であり、幼児期に由来する無意識的願望の充足、その願望に結合した記憶像の再生(知覚の再出現)を目指しているのである。
D 夢による覚醒――夢の機能――不安恐怖夢
夢過程はまず無意識の願望充足として許容されるが、前意識はこの願望を拒否し抑制する。つまり、夢を見る人にとってこの願望は気に入らないのであり、だからこそ、自我の願望は夢に不安という形式で現れるのである。
E 第一次および第二次過程――抑圧
興奮の自由な流出を目指す心的過程を第一次過程、その第一次過程の表象によって不快を生じそうな場合、これを阻止したり抑制する過程を第二次過程とする。第一次過程は知覚同一性を作り出すために興奮放出へ努力し、第二次過程はこの意図を放棄し、その代わりに思考同一性を獲得しようとするのだ。最初から与えられている第一次過程に対し、第二次過程は徐々に形成され、やがて幼児期の願望とは矛盾するような目標表象を作ることも多い。この場合、幼児期の願望充足は不快を生じることになるため、「抑圧」されることになる。
F 無意識と意識――現実
哲学者は無意識を意識的なものの対立物という意味で用いているが、心理学的な意味では、無意識は意識化されない無意識と、意識化できる無意識(前意識)の二つにわけることができる。無意識的なるものは、外界の現実と同じように未知なものであり、外界が感覚器官の報告によっては不完全にしか捉えられないように、意識のデータによっては不完全にしか捉えられないような、本来、現実的な心的なものなのである。