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02. 精神分析の見取り図

フロイトの精神分析

催眠から分析へ: 十九世紀末の心理療法はシャルコーらの催眠暗示による治療が主流であったが、それは症状を暗示によって抑制するだけの、対症療法に過ぎなかった。しかし、神経症の症状は不安を避けるために現れているので、症状がなくなれば不安が襲ってくる。つまり、症状を抑えるだけでは根本的な解決にはならないのだ。そこでフロイトは症状の原因を意識し、自覚することが大事だと考えた。そして、原因となった過去、無意識の内容を想起することで、神経症の症状が解消されることを発見したのである。

自由連想: 分析はまず患者の自由連想を中心に進められる。自由連想は忘れられた過去の記憶を想起し、無意識の欲望を知るために行われるのだが、その際、思い浮かんだことを途中であれこれと考えすぎると連想の妨げとなり、抑圧された過去には辿り着けない。何故なら、思考には現実的な価値観やルールが含まれており、それは無意識を抑圧するように加担し、覆い隠そうとするからだ。例えば、抑圧されていた親への憎しみが思い出されそうになると、自由連想を中断したり、話を逸らしたりすることがある(抵抗)。それは、親を憎むような自分を許せないというルールが、無意識のうちに働いているのである。したがって、分析家は自由連想の間は必要以上に意見を挟まず、頭に思い浮かんだことは、「不愉快」であろうと、「つまらない」とか「無意味だ」と思えたとしても、全てそのまま話すように言っておく必要がある。

解釈の投与: 自由連想した内容や、夢の内容、その他に患者の提示した材料を検討することで、無意識の欲望を明らかにし、それを患者に話すことで(解釈)、患者が自らの無意識を自覚できるようにする。また、無意識的な欲望や抵抗は、ちょっとした発言や身体的反応、具体的な行動となって現れるので、これを解釈することも必要になる。無意識的な抵抗に気づけば、その背後にある無意識的な欲望を自覚することが可能になるからだ。

平等に漂う注意と構成: 分析家は、患者の身体的反応や行動、ちょっとした言動に対しても平等に注意を向けることが必要である。特定のことに注意を向ければ、分析家は無意識のうちに特定の材料を選択してしまうからだ。分析家は全てに対して平等に耳を澄まし、分析時間が終了してから獲得した材料を検討し、意識化されにくい無意識の欲望、抵抗を読みとり、それを患者に指摘し、解釈を伝えることになる。それは、単に先入観を持たずに分析材料を集めるためだけなのではない。分析家の無意識は患者の無意識に反応し、自然と重要な問題を察知している。分析家は分析終了後に患者の材料を検討する中で、知らず知らずのうちに重要な材料を受け取っていたことに気づき、あらためて再構成するのである。

徹底操作: 自由連想だけで無意識の欲望が明らかになるのなら、もともと内的規範の歪みは少なく、抑圧も弱かったと言える。しかし、抵抗が強ければ簡単には意識化されず、身体的反応や突発的な行動となって現れる(アクティング・アウト)。患者は記憶を思い出す代わりに行為として再現し、自分でも知らないうちに過去の言動を繰り返してしまうのだ。例えば「私は両親に対して不信を抱き、反抗的でした」と記憶を思い出す代わりに、分析家に対して反抗的な態度を示すのである。分析家は行動化の反復を解釈し、それを記憶の想起として言語化できる方向へと操作する必要がある。しかし、解釈すればただちに納得し、抵抗の行動化が止むわけではない。何度も何度も反復して現れる抵抗に対して、それこそ何度も何度も分析し、解釈を与える必要があるのだ(徹底操作)。

転移1: 徹底操作のなかでも特に重要なのは、転移の操作である。転移は患者の分析家に対する強い情動的な関係であり、幼少の頃の重要な人物、特に父親や母親に対する感情が分析家に向けられ、再現されることである。この場合、患者の分析家に対する感情は、過去の重要人物への感情が置き換えられている。つまり、幼少期における対人関係の表象が無意識的な原版となって、その後の対人関係における感情に影響を及ぼし、まるでその原板をコピーしたような対人関係になりやすくなるのである。例えば、権威的な父親を怖れて絶対服従していたなら、分析家に対しても絶対服従を示すかもしれないし、分析家を「権威的だ」と罵るかもしれない(陰性転移)。また、無意識的な母親像が分析家に投影され、分析家に対して母性的な愛情を求め始めるかもしれない(陽性転移)。

転移2: 転移は抵抗の行動化だが、幼少期の情動の現れでもあり、抵抗とばかりは言えない面がある。分析家への反抗的な態度が、無意識に抑圧された父への憎しみを隠す抵抗として現れているのか、それともその反抗的な態度こそが、抑圧されていた父への憎しみの行動化なのか、はっきりと線引きができないのだ。陰性転移は抵抗の現れであることが多いのだが、陽性転移も治療関係を壊してしまうことが少なくない。しかし、それは抵抗というより、抑圧されていた親への甘えたい欲望であるかもしれない。そのどちらの可能性もあることを、分析家はつねに頭に置いておく必要がある。

転移3: 転移は分析の核心に近づいている証であり、これを解釈して克服できれば、自由連想はスムーズに進行するようになり、治療は格段に進展することになる。また、転移の全てが治療の邪魔になるのではなく、それは被分析者が幼児期に求めていた愛情や憎しみの現れでもあるため、それを無意識的な欲望として解釈できる。さらには、適度な陽性転移の場合は治療にうまく利用することができる。親の命令であった不合理なルール(歪んだ超自我の要求)と抑圧されていた欲望は、分析家(親と同じぐらい重視される対象)によって気づかされ、無意識のルールと欲望を知ることができるからだ。陰性転移も幼少期における両親への憎しみを表しているので、無意識を知る重要な手がかりになる。ただ、転移は抵抗としても働いているので、解釈を与えるタイミングが重要になるのだ。

逆転移1: 一方、分析家のほうにも患者に対するある種の感情が生じてくることがある(逆転移)。分析家にとっての過去の重要人物への感情が患者に向けられ、過剰な愛情や憎悪となるなら、治療は著しく阻害されてしまうだろう。これは分析家の病的な葛藤や不安によるものであり、絶対に避けられねばならない。そこで分析家は必ず自己分析をする必要があるし、どんなに経験を積んだ後でも、自己分析は絶えず続けていかなければならない。

逆転移2: 逆転移は患者の無意識的な感情の動き(転移)に対し、分析家も無意識のうちに反応していることを示している。私たちの日常的なコミュニケーションにおいても、相手の無意識的な態度にこちらも無意識のうちに反応している、ということは誰でも思い当たるはずである。これを精神分析では、患者の無意識的な情動が分析家の無意識に直接伝わり、分析家の無意識に患者の感情がそのまま感じられる場合がある、と考えるのだ。フロイトも分析家が自分の無意識を電話の受話器のように、患者の無意識を直接受け取れるように使うべきだと主張している。この場合、分析家にわき起こった感情は、患者の感情が投影されたものである可能性がある。フロイトはそれを逆転移とは呼ばなかったが、フロイト以後の精神分析では、分析家の無意識的な反応は全て逆転移と呼ばれるようになり、狭義の逆転移(分析家の過去の投影)とは区別されるようになるのだ。


ユング心理学

アドラーとユング: フロイトを批判しつつ独自な道を歩んでいった人物として、ユングとアドラーの名を忘れるわけにはいかない。彼らの理論はそれぞれユング心理学、アドラー心理学として世界的に知られており、フロイトと並び称される深層心理学の巨人と見なされている。アドラーはフロイトの性欲中心の考え方を批判し、劣等感から生じる優越性への欲求を重視し、ユングは性欲も優越性への欲求も重要だとしながらも、独自の問題提起をしたのである。

神経症者は何を求めているのか?: ユングによれば、禁じられた欲望や衝動の満足が重要な人は、フロイト理論による治療が適している。実際、フロイトの患者の多くは社会的地位に恵まれた人々であり、その反面で性については禁欲的なモラルに縛られていることが多かったのだ。逆に社会的地位に恵まれず、劣等感の強い人々は、性欲よりも社会的地位や権力への欲望のほうが強いため、アドラー理論による治療が適しているという。ユングは、フロイトとアドラーのどちらか一方が正しいのではなく、患者のタイプが違うだけだと考えたのだ。

個性化: しかし、性欲を求めているのでも、権力や優越性を求めているのでもなく、もっと別のものを求めている患者もいる。神経症は「集団に適応できない人」と、「個性が発育不全の人」に分けることができるのであり、前者の治療に関しては、フロイトやアドラーのように社会への適応を目指す治療が適しているが、後者にこれと同じ治療方法を用いれば、個性が破壊されることになるのだ。そこでセラピストは、個性を自由に現すような過程を共に体験する必要がある。患者と医師の双方が共に解釈し、患者の個性的な発展を促すことが重要となるのだ。これがユングの強調する「個性化」であり、無意識の自己を意識に統合し、本来のその人自身になることである。患者は本来の彼自身となり、自分の病気を理解することで神経症を克服することができるのである。

ユングの心理療法: 絵画や遊び、箱庭などを使い、内的なイメージとの対話を重視する。自覚しようとしても気づけなくなっている欲望は、様々な象徴となって夢に現れ、箱庭や絵画に具現化されることになる。他の描画療法や遊技療法などでも、そこに表れた象徴を無意識の欲望や不安の投影と考えるのだが、ユングの治療では、それを単に解釈の道具だとは考えない。象徴として表れたイメージを見つめ、変容させていくことで、「本当の自分」を顕在化し、真の自己へ近づいていくと考えるのだ。この場合、意識化された無意識は、はっきり言語化されるとは限らない。言語化されなくとも、イメージの変容だけで治療は進展するのである。

元型論と集合的無意識: 「本当の自分」が言語化でき、自覚的になればなるほど、治療という枠を超えた、より統制の取れた自己へと近づくことが個性化であり、自己実現である。この自己実現という考え方は、後の実存的心理療法にも大きな影響を与えているのだが、ユングによれば、それは単に個人的な無意識が意識化されていくだけなのではない。個人を超えた集合的無意識が存在し、その元型が様々な象徴として現れるというのだが、この考え方は到底検証できるものではないだろう。


アドラー心理学

決定論と目的論: アドラーは劣等感や優越性への欲求を重視したことで有名だが、最も重要なのは実存論的な視点が含まれていることだ。まず、アドラーはフロイトの過去決定論を否定しており、過去の経験が未来を決定するのではなく、未来への期待や不安が現在を規定しているという。例えば、過去の不幸な経験が現在の自分を苦しめているのではなく、その経験に対する現在の解釈が自分を苦しめているのであり、この解釈を変えない限り、行動を変えることもできないというのだ。これは科学的な因果論ではなく、「いま、ここ」における欲望や関心を中心に考えている点で、極めて実存論的な考え方なのである。

優越性への欲求と共同体感覚: 晩年のアドラーが特に重視していたのは、「共同体感覚」と呼ばれるものであった。それは、集団や組織に対する所属感であり、そこにいる人たちに認められ、またその人たちのために貢献したい、一緒に協力して生きていきたい、という欲望のことである。劣等感から生じる優越性への欲望は自己中心的なものだが、それは成熟すれば共同体感覚に繋がっていく。誰もが他者から認められ、愛されたいと願っている。だがそれは自己中心性を押し通すことによってではなく、むしろ他者のために協力し、自らも他者を認め、愛することで、はじめて満たされることになるのだ。

アドラーの影響: アドラーは最初に実存論の視点を心理療法に導入した人物だと言える。未来への目的に相関して、「いま、ここ」における欲望、過去の受け止め方が決まってくるという考え方は、まさに実存論的思考であり、しかも彼が重視した優越性や共同体感覚への欲望とは、自我の欲望に他ならない。他者に評価されたい、愛されたい、そのためにも他者と認め合い、共に生きていきたいという欲望。それは、そのために自分がどうあらねばならないのか、という目的を含んでいるのである。また、アドラーの治療方法は「自我」の問題を自覚的に考えた最初のものでもあり、実は晩年のフロイトと重なる部分もある。優越性への欲求とは自我の欲求であり、他者に認められたいという欲求に他ならない。つまり、「優越性への欲求」と「性的な欲求」は一人の人間がどちらも抱えている欲求であり、その二つの欲求が葛藤するからこそ神経症は起きるのである。


ホーナイと新フロイト派

新フロイト派の登場: 1910年代にアドラーとユングがフロイトから離反した後、精神分析は20年代から30年代にかけて、発展的な時期を迎えることになった。そして、後期のフロイトが自我を中心に新しい理論モデルを提唱したこともあり、その関心は自我に向けられるようになっていた。そうした中で、サリヴァン、フロム、ホーナイなど、新フロイト派と呼ばれた人々が活躍し始めることになる。新フロイト派は文化的要因を重視した学派だが、それは不要な仮説性を削ぎ落とした現実的な精神分析である。

文化の重視: ホーナイによれば、フロイトは本能的な欲動を重視し、神経症患者の傾向を生物学的な因子に帰着させており、パーソナリティに及ぼす文化の影響を軽視している。文化や価値観の影響を考慮しなければ、精神分析はその社会の価値観における「正常」への適応を目指すだけとなり、その価値観が神経症の一因であることを忘れてしまうだろう。自我は文化によって規定されているのであり、弱くなった自我を変えることこそ治療の仕事だというのである。

ホーナイの神経症理論: 環境の影響によって自分自身や他人に対する関係が損なわれると、子どもは強い不安を感じ、この不安に対処するために様々な防衛を試みる。その結果、強迫的な行為を繰り返す「神経症的傾向」が形成され、不安を回避する唯一の手段となる。しかし、それは自分自身を疎外し、かえって人間関係を損なう機会を増やし、別の不安をもたらすことにもなる。そして、柔軟性のない神経症的な性格を発達させることになる。要するに、神経症的傾向とは内的規範の歪みであり、それが強く固着して身につくと、人格障害と呼ばれるようになるのだ。

現実的な対人関係: したがって、神経症的傾向の実際の機能とその結果を知ることができれば、不安は大幅に減って他人との関係も改善されるはずなので、神経症的な行為が実際に何をもたらすのか、それを考えてもらう必要がある。この場合、分析家と患者の信頼関係が不可欠だが、特に転移が極めて重要となる。ホーナイは、フロイトのように転移を幼児の型の反復だとは考えず、現実的な感情関係として捉えている。治療関係は、あくまで現実的な人間関係として考える必要があるのだ。


ライヒとフロイト左派

フロイト左派: ホーナイよりも先に最初に性格分析を強調したのは、ライヒである。彼は人間が文化の影響によって歪んだ「性格の鎧」を身につけ、性欲を抑圧しているので、その鎧を分析して取り外し、欲望を解放することが必要だと主張している。もっとも、ライヒは抑圧からの解放、特に性の解放を強調しすぎており、自我の欲望という観点を見失ってしまったと言える。「抑圧からの解放」という考え方を押し進めれば、マルクーゼのように資本主義の抑圧性を強調し、マルクス主義を掲げるようになるのだ。そして、最後には自我や文化そのものへの否定に繋がりかねないのである。

精神分析の新たな方向性: ライヒが「性格の鎧」を神経症の原因だと考えたのは正しいが、性格そのもの、自我そのものを否定するわけにはいかない。フロイトの強調点もまた、自我を分析することで自我そのものを治すということであった。確かに初期のフロイト理論は「抑圧からの解放」に繋がりやすいものだったが、後期のフロイトが自我の分析を強調したのは、むしろ文化の影響による自我の形成を重視したからなのだ。そして、この時期以後の精神分析は、自我の分析を中心課題として進展していくことになる。


アンナ・フロイトと自我心理学

後期フロイト理論: フロイトが考案した自由連想法は、催眠のように自我を強制的に除去するのではなく、自我の自制が求めるものであったが、催眠と違って自我の力は除去されていないため、自我は様々な防衛を試み、連想の流れを邪魔しようとする。自我の自制を求めても、それがむしろ葛藤を生み出し、自我の抵抗を生み出すことになるわけだが、だからこそ抵抗を分析によって意識化し、抑圧の力そのものを弱めることが可能になる。抵抗が弱くなれば、抑圧された無意識を自覚することも容易になり、それは再び抑圧されることもなくなるのだ。

自我心理学: 分析家の注意は自由連想から抵抗に、エスの内容から自我の活動に移され、自我がどんな防衛法を使ったのかを明らかにすることが必要となる。自我の変化の仕方を見れば、どのようなエスの衝動があるのか、どのような超自我の命令が働いているのかが明らかになる。分析家は自我の防衛によって歪められたものを修正し、その後で、再び自我分析(防衛、抵抗の分析)からエス分析(抑圧された欲望の分析)に注意を移す必要があるのだ。このような後期のフロイト理論を基にして、自我の防衛を重視した自我心理学が生まれ、その後の精神分析における主流派となる。その中心人物は、後期のフロイト理論を忠実に受け継ごうとしたアンナ・フロイト、ハルトマン、エリクソンである。

自我の防衛: アンナ・フロイトは自我の防衛法を整理し、退行、抑圧、反動形成、隔離、打消し、投影、取り入れ、リビドーの自己への向け換え、転倒、昇華あるいは置き換え、という十種類があると述べている。抑圧や昇華は発達過程の後期に使用される高度な防衛であるのに対して、退行、転倒、リビドーの自己への向け換えは、自我がまだ発達していない時期から働いている原始的な防衛である。自我の防衛は抵抗として現れるので、抵抗として現れるものは全て自我の分析に役立つ。特に転移は、幼児期の感情を繰り返すだけではなく、幼児期の防衛を強迫的に反復している面もあるので、転移の焦点をエスから自我に焦点を移すことで、自我の活動を明らかにすることができる。また、性格は防衛過程が繰り返されることで凝固したものであるため、性格から自我の防衛を知ることもできる。


クライン派の精神分析

妄想的-分裂的ポジション: クラインによれば、乳児には生まれてまもない頃からすでに無意識的な幻想があり、それが後の精神状態に絶大な影響を与えるという。まず生後三、四ヶ月にかけて、死の本能は迫害的不安として現れ、「妄想的-分裂的ポジション」という心の状態が形成される。この時期、乳児はお乳が与えられない時は悪い乳房があるのだと感じられ、それを憎み、攻撃したくなる。この攻撃衝動は悪い乳房へ投影されて、逆に悪い乳房から攻撃されているのだと錯覚し、迫害されているという不安が強くなるのだ。こうした迫害不安を防衛するために、分裂という方法が用いられる。対象は、よい/悪い、内/外に分裂され、悪い乳房への攻撃性や迫害的不安が生じる一方で、お乳を与えてくれるよい乳房に対しては、自分のよい感情も投影され、それは再度取り入れられる。投影と取り入れが繰り返されることで迫害的不安は緩和され、自我は統合されていくのだ。

抑うつ的ポジション: 生後五、六ヶ月になると「抑うつ的ポジション」という心の状態に移行する。この頃には自我も発達し、幼児の知的、情緒的発達は著しい変化を遂げる。よい乳房と悪い乳房、よい母親と悪い母親も統合され、母親は次第に一個の全体的な人間として認識されるようになる。これによって迫害的不安は軽減し、幻想と現実の区別もついてくるのだが、今度は攻撃を向けていた悪い対象も、実は愛する母親だったのであり、母親を傷つけていた、と感じられるようになる。そのため、抑うつ的不安と罪悪感が生じ、その償いをしたいという願望が生じてくるのである。罪悪感と償いの傾向は自我をより統合させることになり、やがて迫害的不安と抑うつ的不安も(七歳頃までには)軽減される。

精神病の原因: 罪悪感に耐えきれない場合、妄想的-分裂的ポジションに退行してしまい、精神分裂病の原因となる。また、抑うつ不安を打ち消すための防衛(躁的防衛)が強すぎれば、躁うつ病を引き起こす原因となる。フロイトはエディプス関係(父〓母〓子の三角関係)に神経症の原因を求めたが、クラインはそれ以前の母子関係に、精神病の原因を見出そうとしたのである。

クライン派の分析: 精神分析は生後一年間で経験される葛藤や不安を徹底的に分析しなければならない。分析の間、精神分析医は理想化されたり、迫害者とみなされたりするが、転移の解釈は治療に不可欠であり、特に陰性転移の分析が重要になる。過去の現実や空想を発見するためには、転移状況をその深層まで分析する必要があり、何度も何度も後の体験に早期の体験を関連づけることで、不安と罪悪感が減少し、自我が強くなって統合性を増すのである。


自我心理学と対象関係論の展開

クライン - アンナ・フロイト論争: クラインの理論は、アンナ・フロイトを中心とする自我心理学から強く批判されることになった。確かに生後数ヶ月というかなり早い時期の無意識的空想を扱っている点など、クライン理論には問題が多い。例えクラインの述べたような無意識的空想が患者に見られたとしても、その空想が生後数ヶ月における無意識的空想だという証拠にはならないからだ。しかし、クラインにも次第に多くの理論的支持者が現れ、クライン派(ビオン、シーガル)、中間派(ウィニコット、フェアバーン)など、対象関係論を中心とした一大潮流にまで発展することになった。

乳幼児理論の発展と理論的統合: クライン理論と自我心理学を統合しようとする動きもあった。特にジェイコブソンやマーラーらは、実証的な観察を通して乳児期の心の状態を解明し、クライン理論を自我心理学に統合する上での理論的基盤を築いたのだ。こうした中で、クライン理論と自我心理学を統合し、境界性人格障害という新しい病理の謎を解明したのが、カーンバーグである。彼はクラインを徹底的に批判しつつも、原始的な防衛機制を精神病の原因と見なしたことを、非常に高く評価した。これによって、境界例(境界性人格障害)に対する精神分析治療の可能性が開かれたのである。


カーンバーグと境界例

境界例とは何か: 境界例は精神病と神経症の境界に位置づけられる患者として、50年代頃から急速に増えているが、妄想的傾向や攻撃性が強く、極度に退行的な転移と行動化を示すため、それまでの精神分析では治療できなかった。しかし、60年代に入ると、カーンバーグは境界例の病的自我構造(境界パーソナリティ構造)を明らかにしたのだ。それは、1.不安に耐える力が弱く、よい対象と悪い対象が完全に分裂しているため、親の現実的な禁止や要求も取り入れられず、超自我の形成も妨げられている。2.原始的な防衛(分裂、投影性同一視、否認)が強く、自我の適応力と柔軟性を低下させているため、自己や他者の観念もまとまりが乏しく、自己体験に一貫性がない。3.衝動をコントロールすることができす、衝動的な言動についての自覚がない。

境界例の転移: 境界例患者は非常に転移が生じやすい。それは、対象関係が十分に内在化され、脱人格化されていないからである。通常、親のルールは内面化されると親の命令とは無関係になり、自分のルールとして確立される。つまり、内面化された対象関係が「脱人格化」されるのであり、脱人格化されていた対象関係が、再び親との葛藤を含んだ関係として浮かび上がるのが転移なのだ。しかし、境界例患者の場合、最初から超自我が脱人格化されていないため、すぐに転移として現れるのだ。それだけでなく、境界例の転移には原始的対象関係によるものと、幼児期における両親との関係性によるものの二種類がある。治療の早期における混沌、無意味さ、空虚さは、原始的対象関係による転移を示しており、この早期の原始的転移を幼児期に関連した現実的な転移に発展させることが、境界例では重要な治療目標になる。

境界例の治療: 境界例患者の転移を扱うには、まずクライン派のように原始的空想と早期の対人関係を混同し、いきなり深層にある対象関係を解釈してはならない。しかし、自我心理学のように原始的な対象関係や防衛を無視してはならない。原始的対象関係を最初から現実的な対象関係として解釈してしまえば、原始的転移を固定化してしまう危険性があるからだ。転移の背後にある原始的な内的対象関係に対しても平等に注意を払い、現実への焦点づけから、転移の中で活発化した原始的対象関係への焦点づけへと、柔軟に移ることが必要とされるのである。また、治療者が自分の情動的反応から、患者の原始的な対象関係を診断する材料を得ることもできる。治療者の情動的反応を逆転移と呼ぶのだが、この逆転移を共感という視点から捉え直したのがコフートである。


コフートと自己心理学

自己愛性人格障害: コフートの自己心理学が問題にしていたのは、自己の病理、自己愛性人格障害である。コフートによれば、自己愛性人格障害は自己の構造における欠陥と、この欠陥に対する防衛構造が問題となっており、その改善は分析家の共感的反応によってもたらされるという。従来の精神分析では、共感的反応は分析家の中立性を損なうものであるが、自己の病理は親の共感的反応の不足が関わっているのであり、治療においても共感的反応が重要になるというのだ。

共感的反応: 子どもが食物を求める時、単に食欲や口唇的欲動を満たしているだけでなく、母親が共感的に食物を与えてくれることを求めている。子どもは母親が自分の欲求に波長を合わせてくれることを予期しており、不安や欲求に対して母親が共感的に反応すれば、母親との融合を体験する中で、次第に不安は消失する。この場合、母親は自己の一部として体験されるので、自己心理学では「自己対象」という言い方をする。二歳から四歳にかけて、母親の共感的反応を通して、愛される自己を求める「野心」ができ、四歳から六歳にかけて、両親いずれか(特に父親)を見本として、自己の「理想」ができる。共感的な自己対象との融合を通して「野心」と「理想」ができ、自己を形成するのである。もし、母親が共感的な反応をしなかったとしても、父親が共感的反応をしていれば、父親は母親の失敗を代償することができる。しかし、両親のどちらも共感に失敗すれば、自己愛性人格障害になるのである。

コフートの治療方法: 自己愛性人格障害の治療においては、まず分析家が親(自己対象)のように共感的に対応することで転移を生じさせる。自己対象転移が起きれば、分析家の中の不安を緩和する側面、遅延に耐える側面などが、患者の心理的構造に取り入れられる可能性がある。つまり、患者を治すのは解釈への洞察ではなく、幼少期に必要であった共感性を再体験することにあるのだ。自己愛性人格障害の場合、分析家が感情を抑制したり黙っていたりすれば、それは患者の幼少期における親の反応を反復してしまうので、分析家の人間的温かさは分析過程にとっては必須条件である。カーンバーグも分析家の感情的反応、つまり逆転移の有効性を認めていたが、それは解釈に利用できるという意味で有効であった。境界例の場合は、分析家に生じてくる情緒的反応は共感より陰性の逆転移であることが多いため、分析家は自らの感情を自覚的に解釈していくことが重要になるのだが、コフートは解釈よりも共感を体験すること自体を重視しているのである。

現代精神分析学の動向: 自我心理学から生まれたコフートの自己心理学は、今や精神分析学の中でも重要な位置を占めている。特にストロロウらは、コフートの重視した共感性、逆転移についての考え方を発展させ、間主観的アプローチと呼ばれて注目されている。彼らの主張によれば、精神分析において結晶化する現実は客観的現実なのではなく患者の主観的現実であり、それは分析家との対話において間主観的現実となる。つまり、患者個人の心を客観的に捉えて治すのではなく、患者と分析家の関係性そのものが治療効果をもたらすという考え方を強調しているのである。


ラカンの精神分析

ラカンの影響: イギリスの対象関係論とアメリカの自我心理学が統合されつつある一方で、フランスではラカンが強い影響力を持ち続け、独自の展開を遂げることになった。

鏡像段階: 幼児は授乳が繰り返されることで、身体的快感をもたらす身体各部の記憶イメージが欲望の対象となり、バラバラな身体器官の幻想(寸断された身体)を作り上げる。このバラバラな身体器官の幻想は、やがて鏡に映った統一的な身体像と同一視されることになり、統合され、統一的な自己像が完成されることになる。ラカンはこの時期を鏡像段階(生後六ヶ月から十八ヶ月)と呼び、自体愛(身体的快感への欲求)がナルシシズム(自己像への欲望)へと統一される過程だと述べている。しかし、鏡の中の自己像は他者の身体と基本的に同じ形であるため、現実の他者と自分を混同したりすることになる。そのため、他者への攻撃性と自己愛が激しく渦巻く混沌状態が現れるのであり、ラカンはこの世界を想像界と呼んでいる。

象徴界: 鏡像段階(想像界)においては、不在のファルスのイメージが象徴化されて最初のシニフィアンとなり、そのシニフィアンは次に現れたシニフィアンによって抑圧(原抑圧)され、無意識の中枢に座を据えることになる。そして、この最初のシニフィアン(父の名)が隠喩の核として、その後のシニフィアンの連鎖を引き起こす中心となり、象徴界が形成されることになる。最初のシニフィアンは抑圧された後も、抑圧されたシニフィアンが連鎖的に繋がり、無意識を構成するのである。一方、意識の世界もシニフィアンの連鎖によって形成されるのであり、こうしたシニフィアンによって構造化された意識、無意識の世界全体が象徴界なのである。

ラカンの精神病論: もし最初のシニフィアンが無くなれば、象徴界という心の秩序は大きく揺るがされて不安定な秩序となり、いつ崩壊するとも知れない脆弱な秩序は前精神病状態の分裂性人格を形成することになる。そして、精神病の発病とは最初のシニフィアンが排除されること、つまり不在のファルスが象徴化されないことなのである。象徴化されなかったものが、象徴界の外部に排除されるということであり、この外部は象徴界の中で、象徴化され得ない穴として現れる。この現実の穴を埋めるものこそ、象徴界の外部に排除されたものの回帰である。神経症では象徴界の中で抑圧されたものが現れるが、精神病では象徴界から排除されたものが現実界の中に現れ、妄想を形成することになる。現実界とは象徴界の外部として想定された領域、身体が直接的に接する領域であり、現実界に出現したものは象徴界に統合されずに連鎖的な崩壊をもたらすのである。

大文字の他者: 精神分析は患者が分析家の向こう側にある「大文字の他者」へと語り掛け、自分が語ったことの(無意識の)意味を知ることが必要である。「大文字の他者」とは、社会や世間を指しているのであり、父親に代表されるような第三者のことを意味している。精神分析は分析家が患者の無意識の真実を解釈することが重要なのではなく、無意識の真実は、実は患者自身が知らず知らずのうちに語っており、それは「大文字の他者」に反響して患者自身に返ってくる。分析家は患者に第三者の視点を意識させるように応答し、患者が自ら無意識に気づくようにするのだ。