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16.書評 加藤典洋「「関係の原的負荷」―二〇〇八、「親殺し」の文学」

 「関係の原的負荷」とは、親の愛情に対する負い目の感情(親への負債感・義務感)であり、それは身体の内側に内在化され、無意識化されている。そのため、親の期待や要求を「うざい」と感じながらも、その期待や要求に抗うことができず、親の価値観に沿った行動を自分自身に強いてしまうのだ。こうした親に対する過剰な義務感は強い苦悩を生み出し、そこから逃れるためには親を亡き者にするほかない、と感じられてしまう。

近年、多発する「親殺し」の事件、あるいは「親殺し」をテーマとした文学の登場には、こうした「関係の原的負荷」が反映されている、と加藤典洋は述べている。では、一体なぜこのような心理が生まれたのだろうか?

近代前期の段階では、親の愛情は無償のものと感じられていたため、こうした負い目の感情は存在しなかった。それは、親が子に愛情を注ぎ、自分を犠牲にしてでも子を育てようとするのは人間としての本能である、という観念が生きていたからだ。親の無償の愛を受けて育った子が、今度は親として無償の愛を子に注ぎ、その子はまた・・・、といったような、父から子、子から孫へと続く「類的存在性の存在の連鎖」が存在していた、と加藤は言う。そのため、子は親の価値観とぶつかった場合、反発し、反抗し、口答えすることができた。

一九六〇年代前後までは、まだこのような親子関係が圧倒的に多く、当時の新語である「頭に来る」なども、この親に対する反抗の感覚をよく表わしている。また、志賀直哉の『和解』には、こうした近代前期における親子関係の葛藤を見ることができる。

しかし一九九〇年代に入ると、親の期待や心配に反抗することが難しい時代に突入した。親の愛を痛いほど感じ、無下にはこれを排除できないし、また一方では自分に自信がなく、親の期待、価値観に沿う以外にない、と感じている。そのため親の期待や心配が過度に負担になってしまうのだ。しかもそれは自分が受け入れたものにほかならず、自分では排除することができない。その結果、「頭に来る」わけではないが、「うざい」という感覚が生み出される。「親の愛は無償である」という観念が薄れ、親への強い負債感・義務感が生じるのだが、その感覚はあまりに強いため、抑圧されて感知できないのだ。

加藤典洋によれば、これは「存在の連鎖」が途切れたことを意味する。親は子へ、子は孫へと、無償の愛を注いで育てる。それが近代前期まで存在した、人間としての「存在の連鎖」であった。無論、この時代においても青年期には親への負い目が生じていたが、やがて親になれば子への愛が生まれ、親への恩も生まれる、という動的な連関があった。しかし近代後期の段階に当たる現在では、こうした動的な連関も失われ、「存在の連鎖」の弱化した時代、途切れた時代となった。親のほうも「自分を犠牲にして子を育てている」という感覚を強め、子はその感覚を肌で感じ取りつつ、強い負い目を感じるようになったのだ。

こうして、子は親への負債感から「いい子」を演じ続けるのだが、このエネルギーが枯渇すると、親にも見限られ、その「承認」も失われる。そして結果的に、「親殺し」に走るケースも生まれてしまうのだ。たとえば沢木耕太郎の『血の味』には、この問題が象徴的に現われている。

子どもをこうした心理的苦悩から救い出すためには、親に代わる人物との信頼関係(新しい親子関係)を築き、その子を無条件に受け入れることが必要になる、と芹沢俊介は主張している。換言すれば、親から与えられるべきであった承認を、もう一度与え直すのである。なるほど、それも重要な処方箋には違いない。しかし、誰かが救うのではなく、自分自身で救う道もあるのではないか。いわば外側からの救出ではない、内側からの自己救出の道が。それこそが文学の立場である、と加藤典洋は述べている。

この「関係の原的負荷」からの自己救出をめぐる物語として、村上春樹の『海辺のカフカ』、そして岩明均のマンガ『寄生獣』がある。両作品に共通するのは、主人公が「関係の原的負荷」を抱き、「親殺し」の罪責に苦しんでいること、しかし最後はある重要人物に母親の面影を投影し、対話することで苦悩を解消すること、このニ点である。後者の物語の中に、加藤典洋は自己救出の可能性を見出しているのだが、では一体なぜそれが自己救出となり得るのだろうか?

私なりに敷衍して言えば、この自己救出の物語は精神分析における「転移」と驚くほど似通っており、そこに苦悩を解消する鍵があるように思える。転移とは、患者が過去の親子関係を治療者との関係に投影し、無意識のうちに再現することだ。権威的な父親の像を治療者に投影すれば、患者は治療者に対しても服従的な態度を示すだろうし、やさしい母親の像を投影すれば、患者は母親に対するような甘えを示してくる。フロイトによれば、ほどよい陽性の転移(愛情や信頼の投影)が生じるからこそ、無意識の解釈は受け入れられる。治療において、転移は必要なのである。

無意識を解釈すれば心の病は治る、という精神分析の戦略そのものに疑問を感じる人もいるかもしれない。確かに、なぜ無意識を解釈すれば治るのか、フロイトの説明では判然としない。そもそも、無意識の存在自体が証明不可能であり、無意識の解釈も後から作られた物語としか言えない。しかし私の考えでは、たとえそれが事後的に構成された自己の物語であったとしても、それは自己像の刷新をもたらし、自己了解の効果を生み出すはずだ。

そして加藤典洋が文学の中に見出した自己救出の物語は、精神分析における治療の本質と重なっている。無論、微妙な差異はあるのだが、加藤の言う親の投影と対話の内実が、転移における無意識の解釈とほぼ同じ事態を指し示しているなら、それは治療者(=親)の承認を介した自己了解にほかならない。だとすれば、それは単に承認だけを与える芹沢俊介の戦略よりも、はるかに広い射程を持っているはずだ。

ところで、「関係の原的負荷」というアイデアが、親子関係の葛藤の本質を鋭く捉えていることは間違いないが、子どもが親の期待や要求に従うのは、こうした負債感からだけでなく、「親に承認されたい」という欲望(承認欲望)があるからではないだろうか。つまり、親の要求に従うのは、「親に悪いから」(負債感)だけでなく、「親にほめられたいから」(承認欲望)でもある。私の考えでは、親子間の葛藤が過度に強く、心の病や「親殺し」にまで至るケースとは、親の承認に固執し続けた結果である場合が多く、したがって親の承認への固執から脱し、承認への欲望を親以外の人々へ向け変えることが、子どもの発達上、とても重要になる。

ただ、子どもが親の承認に固執してしまうのは、「関係の原的負荷」という負債感があるためかもしれない。単に誰かに承認されたいだけなら、親以外の人々から承認を得る道もあるし、比較的容易に針路変更ができるだろう。しかし、親への負債感が強ければ強いほど、親の承認を無視することができず、その関係性に縛りつけられてしまうとしたら、「関係の原的負荷」はいわば承認欲望の負の側面と言ってよい。

こうした親への負債は、親以外の人々に返す道もある。いかに親に負債感を抱いていても、親の価値観に違和感を抱いていれば、親の期待する人間になることは難しい。だが、親以外の人々に対してなら、自分の価値観に反することなく、この負債を少しずつ返すことができる。自分がしてもらった恩を、親以外の人間に返すこと。それは先に述べたような、親以外の人々から承認を得るための道でもある。そして、その恩を返す対象が自分の子どもである場合、「自分を犠牲にして子を育てている」という親の感覚も消失し、子に過度の負債感を抱かせるような負の連鎖は断ち切られるのではないだろうか。

今後、加藤典洋がこの論考をいかなる方向に展開させていくのか、それはまだわからない。しかし、「関係の原的負荷」と承認欲望、この二つの関係に焦点を当てて考察すれば、おそらく親子関係における葛藤について、より実践的な可能性(処方箋)を提示することができるだろう。