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09. 竹田青嗣の現象学を読む ―『現象学入門』『はじめての現象学』

現象学入門

はじめての現象学

たとえば目の前に赤いリンゴがあるとする。そこにリンゴがあることは確かなように思える。しかし本当にリンゴがあるかどうかは証明できない。私の視覚が狂っていて、本当のリンゴとは似ても似つかないリンゴを見ている可能性もあるからだ。だとしたら、私たちは本当のリンゴをどこまで正確に認識できるのだろうか?

こうした問題を、哲学では「主観と客観は一致するのか」といった難しい言い方で問い続けてきた。いわゆる主観客観問題という哲学的アポリアである。

よく考えてみれば、そこにリンゴがあるのかどうかさえ、本当はわかったものではない。私の見ているリンゴが夢や幻だという可能性だって十分にありうる。確かなことは、自分にとっては「赤いリンゴがある」ように見える、ということだけである。だが、自分にとってそう見えていること、そうとしか見えないことは、それ自体としては疑いようがない。だからこそ、そのリンゴが現実にあることを確信できるのだ。たとえそのリンゴが客観的に実在しているかどうかはわからないとしても。

問題は、「リンゴがある」という確信が成立するための条件を問うことだ。竹田青嗣ならそう主張するだろう。竹田の『現象学入門』には、この問題が驚くほど明晰に語られており、現象学が主観客観問題を解決していくプロセスが見事に描かれている。説明が展開されてゆくにつれ、読者は最高に刺激的な考え方に出会ったことに気づかされるのである。これをたかがリンゴの問題と思うのは早計に過ぎる。ことはあらゆる問題に繋がっているが、そのことは現象学を理解してみるまでわからないからだ。

現象学の入門書といえば、フッサールの生涯とか、ハイデガーとの関係とか、デリダによる批判など、そんな蘊蓄をあれこれと読まされた挙げ句、表面的な知識だけは身につくものの、その核心が見えてこない本がほとんどである。しかし、『現象学入門』がそうした類書とはまったく性格を異にすることは、数頁も読み進めれば明らかとなる。現象学の驚くべき思考を追っているうちに、その答をどうしても確かめずにはいられなくなり、一気に読み終えてしまうのだ。

これほどわかりやすい現象学入門書は他にないはずだが、奇妙なことに、本書が紹介される機会は非常に少ない。その理由は、竹田青嗣の現象学理解がフッサール本来の考え方とは違う、と考える学者が多いことにあるようだ。最大の焦点となるのは、竹田が現象学を「確信成立の条件を問う学」として捉えている点にある。残念なことに、ほとんどの哲学者はこの問題を否認もしくは黙殺している。だが、そのことで本書の現象学解釈に疑問を抱く必要はまったくない。仮に竹田青嗣の現象学理解が独自なものだとしても、その考え方そのものが優れていることは否定できないからだ。(もっとも、実際にフッサールの著作を読めば、竹田の解釈が正しいものであることが確認できる。詳しくは当サイトの「現象学とはなにか」を参照して頂きたい。)

また、現象学は主観客観問題の解決だけでなく、日常的な問題の意味を考える上でも、大変優れた思考方法である。その具体的な考え方は、竹田青嗣の『はじめての現象学』に示されている。前半は書名のとおり、現象学の考え方が簡潔に解説されており、『現象学入門』よりも初心者向けに書かれている。哲学書をまったく読んだことのない人には、『現象学入門』よりもお薦めかもしれない。だが、本書の真骨頂は後半にある。そこでは人間的「価値」の問題について、現象学的思考の有効性がいかんなく発揮されている。

竹田が現象学的思考の例として挙げているのは、「真・善・美」という問題だ。「真とは何か?」という問題は、これまでの西洋哲学においては、「客観的な真理とは何か?」という転倒した問い方になっていた。ありもしない真理を認識しようと、躍起になって追い求めていたのである。この形而上学的な考え方は、十九世紀後半以降、ニーチェやフッサールによって明確に否定されることになった。現在では、客観的な真理がないことは多くの哲学者の一致した見解となっている。


とはいえ、真理がないことが、そのまま私たちの日常生活において、「ほんとうのことなんてないのさ」、というようなシニカルな生き方に結びつくわけではない。人は誰でも、「よい」もの、「美しい」ものを求め、その最上のものとして、「ほんとう」と言えるものを求めている。それは人間の根本的な欲望であり、それをただたんに「そんなものはない」で済ませてしまうなら、それはあまりにお粗末な思想だといえる。

竹田青嗣は、「真・善・美」という言い方には客観的理念という印象がつきまとうので、日常的な言葉である「ほんとう・よい・美しい」と読み替え、その意味を本質直観によって分析している。本質直観とは現象学独自の思考方法であり、「ほんとう」を本質直観するのであれば、「ほんとう」という言葉から直接思い浮かぶ事柄を熟考し、そこから誰もが納得できるような共通本質を取り出していく。すると、私たちにとっての「ほんとう」とは、実は客観的な真理云々の問題ではないことがわかってくる。

客観的真理がないとしても、誰もが勝手気ままに行動すれば社会は成り立たないため、お互いが共通に認め合うルールが不可欠となる。しかし、いかに民主的に決定されたルールであろうと、それは自分の欲望を制限するものでしかないので、「なんか違うんじゃないか」と感じてしまう。それは「ほんとう」と思えるルールとは言えない。では、相手が恋人や友人であればどうだろう? お互いの関係そのものが喜びであるとき、私たちは共通に認め合えるルールを甘んじて引き受けるのではないだろうか?

幼児が母親に「だめ」と言われることで、次第に母親の言うことを守るようになるのは、母親に喜ばれることを欲望するようになるからだ。他者との関係によってもたらされる喜びは、長ずるにしたがってより強く求められるようになる。この欲望を満たすために、むしろ積極的に他者とのルールを含んだ関係を作ってゆくのである。このとき、そのルールは押し付けられたものではなく、自ら望んだものとして、「ほんとう」だと感じられるようになってくる。「ほんとう」といった価値の本質には、他者との関係性が含まれているのである。

『現象学入門』と『はじめての現象学』、この二冊が現象学をはじめて知る人にとって、きわめて優れた入門書であることは間違いない。だが私の考えでは、これらの本はたんなる入門書の域を超えている。まだポストモダン全盛期である八十年代後半に出版された『現象学入門』は、現象学に批判的な時流に抗して著された、現象学復権のマニフェストであった。『はじめての現象学』は、「真・善・美」の本質を現象学的思考によって解明するという、現象学を本格的に応用した革新的な試みであった。そこには現象学の広大な可能性が描かれているのである。