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08. 相互幻想的自己と一般自己像

人は誰でも自分なりの自己像、自己の物語をもっているが、自分なりに確信している自己像は、必ずしも他の人々から見た自分の像と同じというわけではない。自分ではいい加減な人間だと思っていても、他人からは真面目だと思われているかもしれない。自分では善人だと思っていても、他人からは偽善者だと思われているかもしれない。そうした自己像のズレは、すべての人が少なからず感じるものであり、そこに自分自身に対する二重の自己像が生み出される。つまり、「他の人間から見た自分は多分こんな感じだ」という自己像と、「でも本当の自分はこうだ」という自己像である。

本来の自己像は、自分の内的な実感にそって思い描かれたものであり、他人の知らない自分の記憶、自分の感情がベースになっている。そこには、他の人が自分をどう見ているかはともかく、実感として自分はこういう人間だという、自分なりの確信がともなっている。だが、自分で確信している自己像が、他の人たちからも受け入れられる、共通に了解してもらえるとは限らない。自分の主張する自己像に対して、誰かに「ちょっと違うんじゃないの」と言われることもあるからだ。そこに自分の確信している自己像とは違う、他者から見た自分の印象、一般的な像が見えてくる。

「他の人間から見た自分は多分こんな感じだ」という像、他者一般の視点で思い描かれた自己像。これは自分の内的な実感による自己像ではなく、一般的にはこう見られているという自己像であり、これを「一般自己像」と呼んでおくことにしよう。一般自己像は、他者一般、「みんな」の立場に立って自分を思い描いたときに現れる。内的な実感にもとづく自己像が主観的なものであるのに対して、一般自己像は他者の視点から自己を捉え直しているので、ある程度の客観性が含まれている。といっても、一般自己像も主観において想定されることに変わりはないため、他者の視点に立ったつもりでも、知らず知らずのうちに主観的な偏見が入り込み、大きく歪められる場合もある。

また、一般自己像においては、社会のなかで自分がどのような役割を担っているのか、役割関係における自己が中心になっている。なぜなら、家族や恋人、親友のような、役割を超えた愛情や友情の関係でない限り、一般に他者との関係は社会的な役割によって規定され、評価されることが多いからだ。したがって一般自己像は、社会的な役割関係における自己像という面が非常に強い。ここに、一般自己像は「本当の自分」ではなく「偽りの自分」である、という意識が生じる原因がある。なぜなら、社会的な役割関係における行動、感情表出には、ある程度の本音や感情の抑制が必要であるため、社会の要請に合わせている自分が「偽りの自分」のように感じられ、「本当の自分」は他人に理解されていない、そう思うようになるからだ。

そうした「本当の自分」という像がはっきりしていれば、その自己像に準じて行動することもできる。しかし多くの人は、「本当の自分」とはどのような自分なのか、自分でもよくわからないまま、ただ漠然とした自己不全感のなかで、「どこかに本当の自分があるはずだ」と思っている。そして、さまざまな経験のなかで自己像を修正しながら、「本当の自分」といえる像を探し続けているのだ。では、こうした自分探しのなかで、私たちはどのように自己像を修正しているのだろうか?


  自己像が修正されるのは、大抵、他者から見た自分の像がそれまでの自己像とズレを生じるからだ。もし他者から見た自己の像を無視し、「どいつもこいつも、本当の俺をわかっていない」というように、自分の殻に閉じこもってしまえば、自己像は他者の意見や評価とはまったく無関係に、自分の内面だけで確信されるようになる。そして自己像は現実と比べて自己中心的で誇大であるか、逆に自己否定的な像に偏ってしまうだろう。それは他者が認めてくれない自己像、他者と共通に了解することができない自己像になるのだ。
こうした歪んだ自己像を修正することができるのは、やはり他者との関係性である。自分の抱いていた自己像が他者に受け入れられず、人間関係の齟齬を生み出すなら、それも当然のことだろう。ただ、相手の言うことが正しく、自分の自己像が間違っていると認めるためには、相手の主張に論理的な正当性があり、また相手の人格が信頼できるという条件が必要になる。なぜなら、自己像を修正する必要性は、自分にとって信頼できる他者から認められ、愛されたいからに他ならない。

このように、特定の他者との関係において、相手と自分の主観、幻想が折り合った形で確信される自己像のことを、「相互幻想的自己」と呼ぶことにしよう。一般自己像が社会的関係における自己像が中心であるのに対し、相互幻想的自己は家族や恋人との愛情的関係における自己像と重なっており、それは二者関係において成り立つ自己像である。

相互幻想的自己は歪んだ自己像を捨て、自己像を適切なものに修正する大きな契機となる。それは、その相手に認められるような自分、愛されるような自分でありたい、そんな気持ちが暗々裏に働くからである。だが、それはいつでも適切な自己像に修正されるとは限らない。「いまのあなたは、偽りの自分を演じている」などと言われ、仕事も家族も捨てることになれば、あるいは好きな人に「お前はダメな奴だ」と言われ、ダメな自分という像に苦しむことにでもなれば、その自己像の変化は決して好ましいこととはいえない。相互幻想的自己は具体的な他者との関係性において成り立つ、その関係性だけに依存した自己像であり、必ずしも他の多くの人たちからも承認される自己像とは重ならないし、むしろ歪んだ自己像を構成し、強化する可能性もあるのだ。

「みんながこう見るだろう」というような一般自己像は、身近にいる人たちの言動にもとづいてはいるが、基本的には名もなき他者一般の立場に立って、自分を思い描いたときに現れる自己像である。一般自己像は社会的役割のなかで「偽りの自分」だと見なされる可能性があるが、誰もが社会の中でさまざまな役割を担い、納得のできる自分のあり方を模索しているのであって、それ自体は決して「偽りの自分」などではない。それは、社会のなかで他の人々と調和を保ち、社会的に認められる悦びを得るために必要な行動でもある。それに、一般自己像は必ずしも社会的な役割を担った自己だけを意味するのではなく、第三者の視点から内省され、客観的に自分自身を見据えた上で構成される自己像でもあり、まさにこの点に一般自己像の重要性がある。

具体的な他者関係における相互幻想的自己像は、歪んだ自己像を修正する可能性をもつだけでなく、ますます歪んだ自己像を強化する可能性もある。親密な二者関係における自己像の修正は、よくも悪くもなるような、諸刃の刃という性格をもっているのだ。これはカウンセリングのような治療関係においては、とくに留意すべきことである。二者関係における相互幻想的自己だけに頼るのではなく、より一般的な視座に立って自己を見据えること、第三者の視点によって一般自己像を熟考し、そこから自己像を捉え直す必要性があるのだ。