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07. 東浩紀『存在論的、郵便的』

存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて

『存在論的、郵便的』という本は、思想好きな人間にとってはかなり読み応えのある本だ。内容は決してやさしいものではなく、本格的なデリダ論でもあるが、そのテーマは多くの人にとって関心のあるもので、記述も明快かつ論理的で小気味よい。正直言えば、この本を読むまで東浩紀という名前を知らなかったが、浅田彰の「『構造と力』が過去のものになった」という宣伝文句にのせられて、つい手を出してしまった。どうせ誇大宣伝かな、とも思ったが、これがなかなかどうして、確かにいろいろ考えさせられる一冊だ。

この本は、ポストモダン思想をどう考えるかという問題が、一つの大きな軸になっている。少し整理しておくと、ポストモダン的な思考とは、絶対的なもの(真理)はない、だから物事には正しい基準などというものはない、という発想を中心とした相対主義的思考である。マルクス主義という「大きな物語」が崩れたことによって、この思考は70年代後半から80年代にかけて急速に広まり、哲学、文学、芸術など、広く文化に関わる人々の間において一種の知的流行となったのだ。

これは思想上の問題というだけではなく、一般の人たちにとってもリアルな問題だった。生を意味づける「大きな物語」がなければ、未来の目標や可能性、生の意味を感じることは難しい。したがって、「おたく」のように趣味(小さな物語)の共同体に属したり、未来の可能性よりも現在を「まったり」生きるしか仕方がないように見える。しかし、誰もが相対主義的な世界に適応できるわけではないし、一生適応し続けられるわけでもない。共通する基準がないため、誰がなにを考えているのか、自分の考えや感じを他人がどう思っているのかがわからない。社会の不透明さゆえに生じてくる、お互いの主張がわからないという不安、これを東浩紀は郵便的不安と呼んでいる。

この不安は、よほど他者との関わりを避けたがる人間でない限り必然的なものだ。そして、この不安に耐えきれなくなれば、一気に相対主義を飛び越え、絶対的なものへと向かう可能性もあり、その受け皿になるのが宗教、自己啓発セミナーなどである。そこでは絶対的なものとして、「神」、「本当の自分」などが用意されている。

一方、相対主義に限界を感じていても、「神」や諸々の絶対性を安易に信じることができない人たちは、不安をある種の論理で乗り越えようとする。彼らは「絶対的なものはない、それは思考不可能なのだ」と頭ではわかっているが、「思考不可能な何か」「語りえないもの」を絶対化している面がある。このように、「絶対的なものはない」という形而上学批判の論理を維持したまま、その論理が反転してある種の絶対性を求めてしまう逆説的思考のことを否定神学という。東浩紀は、ハイデガーの影響下にあるラカン、ジジェクなどの現代思想に対して、それが近代の真理主義を乗り越えているように見えながら、実は否定神学に陥っているというのだ。

否定的にでも絶対性を確保できなければ、人は不安にさらされ、他人との交流に実感を持てなくなってしまう。社会に共通の規範、価値基準が存在しなければ、共通の言語を使っていてもコンスタティブな意味(辞書的な意味)以上に、その言語が使われる文脈、背景を読み取ることは難しくなる。なにをすれば周囲に認められ、愛されるのかもわかりにくくなる。つまり、パフォーマティブな意味(メタレヴェルの意味)が読みとれないため、不安が生じやすくなるのだ。

しかし、どれほど専門的な哲学用語や難解な論理で構成されていようと、否定神学は結局「絶対的なもの」を措定する形而上学や宗教とあまり変わらないし、かえって不透明な規範や価値を生み出してしまい、混乱の原因になりやすい。東浩紀の否定神学批判は、この問題を浮き彫りにしたものとして高く評価できるだろう。だが、問題はこの不安(郵便的不安)を解消するにはどうすればいいのか、ということにある。

東は否定神学に陥らないためには郵便的脱構築が必要だ述べている。郵便的脱構築とは、フロイトの転移-逆転移という考えを利用した考え方であり、簡単に言えば「無意識的な直接的コミュニケーション」の可能性を開こうとするものだ。私の読む限りでは、彼はポストモダンの否定神学化を批判し、ポストモダン的思考をむしろ徹底することで、共通の規範や絶対的なものを使わないコミュニケーションを考えている。

精神分析に詳しくない人のために、転移と逆転移について説明しておこう。転移とは、患者が過去の重要な人物(ふつうは親)への感情を治療者に向け、その重要人物との関係を治療者との関係に投影し、無意識のうちに再現することだ。しかし最近では、転移は逆転移とセットで考えられ、患者と治療者の無意識的な交流という広い意味で捉えられている。精神分析家は患者の無意識を表情や身振りなどから意識的に解釈しているが、いつでも患者の無意識を認識できるとは限らない。ときには患者における無意識の身体的表出を、無意識のうちに受け取り、治療者自身も気づかないまま、感情的な動揺、反応を引き起こすこともあり、これを逆転移と呼んでいる。

要するに、東(またはデリダ)が転移-逆転移の問題をとおして主張したいのは、意識上の規範や言語を媒介しない、無意識と無意識の直接的なコミュニケーションのことだ。考えてみれば、人間が受け取る情報の多くは無意識的に処理されているし、知らず知らずのうちに誰かを好きになったり嫌いになってしまうことは多い。意識された言語的コミュニケーションには、共通の言語、規範をお互いに参照することが不可欠だが、規範の絶対性が崩れれば、コミュニケーションの可能性は無意識の直接的交流に見出すしかない。郵便的脱構築とは、意識という閉じた世界の外に、無意識を通じた交流が成り立つ可能性を示唆する理論なのである。

しかし、東浩紀のいう郵便的脱構築と呼ばれる無意識的な交流が、郵便的不安なるものへの現実的な解決策になるとは思えない。確かに、無意識のうちにわかるということ、「言葉にしなくてもわかりあえる」ということはあるし、それが郵便的不安を解消する可能性があることは否定できない。だが逆に、言葉にしないから不安が増幅し、憎しみあうことも多いはずだ。そのことを考えず、ただ無意識的な交流の可能性を主張しても、そこにはなんの解決方法も生まれないだろう。

郵便的脱構築では、共通の規範がない状態でもコミュニケーションの可能性はある、それは転移-逆転移という無意識的交流である、と主張されている。しかし、意識的な交流には規範が必要だが、無意識のうちに感じ取ることなら規範は必要ない、などとは言えないはずだ。私たちは多くのことを無意識のうちに感じ取るが、その感じ取ったものを意識的に解読していくことが、自己理解、そして他者への理解につながっている。それを意識化しないまま、ただ無意識的な反応をしあうような無意識のキャッチボール、そこに理想的な人間関係を見いだそうとするのは、一種のロマン主義にすぎない。


  また、東浩紀の否定神学批判は正当なものだが、「絶対的なものはない」という論理が、それでも否定的に絶対的なものを求めてしまうことには、もっと人間の実存に根ざした根拠があるはずだ。人間の欲望の根源に目を向けないまま、絶対化したイデオロギーを作り上げる危険性だけを主張していても仕方がない。
そもそも人間の欲望が「現在」の快感を超えて「未来」の可能性を求めるのは、幼少時、その場その場の欲望を抑制することで親に愛され、まわりの人たちに認められるという見返りがあったからだ。このことが、人に認められるための行為の基準を内面化し、内的規範(個人の内面にある規範、自己のルール)を形成する大きな要因となる。そして、この欲望は身近な人たちを超えた多くの人々からの承認を求めることへつながり、やがてこの欲望は「絶対的なもの」を求める欲望になるだろう。つまり、「絶対的なもの」(超越)への欲望とは、他者との関係性の悦び(エロス)を、未来の可能性の中に見出そうとすることと重なっているのだ。

否定神学のように屈折した形で絶対性を掲げる思想に対しては、私もはっきりと批判したほうがいいと思う。しかし、人間が絶対性を求めることそのもの、もっと言えば他者との共通の規準や価値を求めることそのものを否定することはできない。なぜなら、それは他者との関係性における悦び、他者から承認されることへの欲望が深く関わっているからだ。他者から認められたい、愛されたいという欲望が、名も知らぬ大勢の他者たちからの承認を求めることへ、つまり社会から承認される欲望へと変わるのだ。そこに、誰もが共通に認めるような価値、普遍性のある価値への欲望が重視される理由がある。

したがって、他者との関係性における不安は、個人のコミュニケーション問題にだけ還元するわけにはいかない。言語的コミュニケーションにしろ、無意識のコミュニケーションにしろ、他者と認めあい、わかりあうためには、共通に認められるような価値や規範が必要である。そしてそれは、他者と話し合い、意見を出し合うなかで、誰もが納得するような価値やルールとなるだろう。そこに、私たちが普遍性を求めていくのは避けられないし、必要なことでもある。

それは、絶対的な規範や価値を求めてきた近代への反動的思考ではないか、そう思う人もいるだろう。しかし、近代の求めてき普遍性こそ、人間の欲望に根ざした必要不可欠なものである。そのことに気づくことができれば、私たちはポストモダン思想の主張した相対主義の泥沼に、いつまでもとどまるわけにはいかない。かつてポストモダンの洗礼を浴びた私としては、この本を読んで、そんなことを思わずにはいられなかった。