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06. 表象としての「心の病」

まず、一般的にイメージされている「心の病」について考えてみよう。
 電車に乗っているとき、あるいは街中を歩いているとき、見知らぬ人の意味不明なひとり言や不自然で奇異な行動を目にすれば、誰でも居心地の悪さや違和感が生じてくるし、多くの人はそれを凝視することができないと思う。まるで自分とは無関係な世界の出来事であるかのように、あたかも自分には何も見えないかのように、瞬時のうちに透明な壁を作るのである。
 そこには心の病に対する、ある定型的なイメージがあるように思える。それは「異常」や「狂気」という言葉によって代表されるようなきわめてネガティブで暗鬱なイメージであり、自分の正常性を信じている人の多くは、そのような世界とはできるだけ関わりたくないと感じている。だがその一方で、多くの人がこうした問題に強い関心を抱いており、自分と直接関わりのないようなところでは、つまりテレビやうわさ話の範囲では多くを語りたがる。連日のように報道される猟奇的な犯罪や、そこに浮かび上がる犯人の異常な性格や行動は、心の病に対する否定的なイメージをますます強くするだろう。
 こうした否定的なイメージによって、精神病者や神経症者はできるだけ自分の生活圏からは遠ざけておきたい存在であり続ける。精神の病んだ人間に関われば自分の生活が乱されるかもしれない、そんな怖れを含んだ否定的なイメージこそ、心の病に対する一般的な表象なのかもしれない。
 では、心の病とはそれほど一般の人たちの心とはかけ離れた特殊なものなのだろうか?
 ――いや、そうではあるまい。心の病における様々な現象の本質を、自分の内面に生じる感情や思考の働きと重ね合わせて考えてみれば、そこには想像以上に共通性が多く、その心理状態は十分に了解可能であることがわかってくる。理解したいという真摯な気持ちがあるなら、心の病はぐっと身近な問題として捉え直すことができる、私にはそう思えて仕方がない。
 ただ、自分の内面と重ね合わせて心の病を理解するには、自分の内面における負の部分、病的な部分にも向き合う必要性があるため、そうした覚悟がなければ、心の病を本質から理解することは難しい。どんな人間も少なからず偏った考えや行動パターンをもっているし、軽い抑うつ状態や妄想状態になることは、それほど珍しいことではない。つまり、心の病における様々な症状、現象は、自分を正常だと思い込んでいる私たちの日常にもたくさんあるということ、それを認めることから出発しなければならないのだ。
 心の病における不安や欲望、偏った思考を自分の内面にも見いだすことができるなら、精神病や神経症を過剰に特別視する必然性もなくなってくるだろうし、逆にいえば、心の病をあまりに特別視して理解しようとしない人は、自分の思考の偏りや欲望、不安を認められない人が多いように思える。
 そうはいっても、自分の内面的な問題に向き合うだけの動機がなければ、あえて心の病を理解したいと思う人はいないだろう。自分の心の奥底にある不安と向き合ってでも心の病を理解したい、そのような動機とは、たとえば自分のなかに深い悩みを抱えているか、自分にとって親しい人間が心の病で苦しんでいる、それをなんとか解決したいという思いである。そうした動機さえあれば、そして自分の内面的な不安と向き合う気持ちがあれば、心の病に関する通俗的なイメージを拭い去り、その本質を理解する道筋が開けてくるに違いない。
 不安、恐怖、妄想、強迫行為、抑うつ感など、心の病において症状と呼ばれる現象は、決して理解不可能な特殊な心理状態ではなく、誰もが多かれ少なかれ抱え込んでいる問題である。自分の経験している不安や恐怖、抑うつ感、妄想的に思考が偏っていく場合の心理状態、そして繰り返される行動パターンを内省してみれば、心の病における症状の本質も見えてくる。
 この考えが正しいか否かを確かめるためには、試しに自分の内面に生じる負の感情、あまり経験したくない状況を思い浮かべてみればよい。


  たとえば、どうしようもなく不安になり、逃げ場のない苦悩に襲われる状況をイメージしてみるなら、そこに心の病に共通するものを感じとることができる。なぜなら、不安を感じたことのない人間はいないし、それ自体は特別な感情というわけでもないからだ。あるいは取り返しのつかない暗澹とした場面をイメージすれば、次第に抑うつ的な気分が充満してくるだろうし、人によっては罪悪感が頭から離れなくなるかもしれない。
 また、誰かに不信感を抱き、疑心暗鬼になった場面を想像すれば、自分がどんどん被害妄想的になっていく心の動きを感じることができるだろう。過剰な深読みと猜疑心で陰鬱な気分に覆われ、あり得ないことまで考え始める自分の姿に、嫌気がさしてくるかもしれない。だが、そうした心理状態はさして珍しいことではないし、このプチ妄想的な思考を具体的な物語に発展させ、誇大妄想を作り上げることさえ難しくはない。
 このように想像してみると、精神病や神経症における不安や抑うつ状態、妄想なども、病的で異常な世界というより、むしろきわめて人間的な苦悩の世界であることがわかる。考えてみれば、私たちの周囲にいるような、やたら演技的で誇大なしゃべり方をする人、被害妄想的で疑り深い人、すぐにキレて激昂する人なども、普段はイライラや憤りを感じるばかりだが、自分の心だってそうした世界とさほど変わりはないのかもしれない。
 そうはいっても、誰もが心の病だと言いたいわけではないし、どこからどこまでが心の病なのかも厳密な線引きができるわけではない。重要なのは心の病の定義ではなく、本人か周囲の人間が自分たちでは解決不能な苦悩を抱え込んでいれば、心の病として治療を行う意味があるということだ。
 近年、心の問題が深刻化していると言われ、精神科医やカウンセラーの役割が大きなものになりつつある。心の病に関する否定的なイメージは、自分の手には負えない世界、理解できない世界だという固定観念を生みだし、専門家に任せるしかないという考えを助長している。だが、心の病は現代社会の生みだした理解不能な世界などではない。そのことは、自分自身の内面に照らし合わせてみるなら、誰もが了解できることなのだ。
 精神病や神経症につきまとう否定的なイメージは、私たちの日常的な平穏さ、自然な自明性を脅かすものとして捉えられている。しかし、そこには現代人に共通する不安や欲望が根底にあるので、決して理解不能な世界ではない。そして、理解しようとすることこそ、「心の病」で苦しむ人々との共通了解を生みだし、お互いを助け合うことにもつながってくる。
 「心の病」に対する理解や治療を医者やカウンセラーだけに任せるのではなく、一般の人々が理解を共有し、関わり方を学ぶこと、そこにこそこの問題を社会から少なくする可能性がある。容易なことではないのだが、少しずつ理解の深まる社会へと変わることができるなら、「心の病」の否定的なイメージは解消されてくるかもしれない。