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05. 第三者はどこにいる?

最近、現代社会に共通する心の問題を考えるとき、私の頭には「第三者の視点の喪失」という言葉が浮かんでくる。といっても、「なんだそれは」と思うだろうから、少し説明してみることにしよう。

第三者とは関係者以外の人を指す言葉だが、もう少し具体的に言えば、目の前に対面している他者との関係を客観的に見つめるもう一人の他者、この他者のことを意味している。第三者がそこにいれば、私は対面している他者との関係を、第三者の立場から見つめ、第三者から見ておかしくないような言動、ふるまいに転じることになる。

このことは、恋人との無邪気な会話に第三者が割り込んでくる場面を想像してみればわかる。恋人との間に生じる親和的な雰囲気も、誰か他の人間がやってくれば一時的に壊れるし、いちゃついた態度は抑制され、会話は途端に差し障りのないものとなってしまう。それは、恋人だけしか見えていなかった状態から、恋人と自分の関係そのものを外側から見直す状態へと、自分の視点を移行させるからである。つまり、第三者の存在を意識することで、第三者の視点から見ておかしくない態度、「社会的なふるまい」へと変わってしまうのだ。

こうした第三者の視点は、実際に第三者がその場にいなくとも意識される。それは、第三者を意識するような場面を何度も経験することで、自然に身につくからである。

誰もが幼い頃、母親とのべったりした二者関係に、第三者が割り込んでくるという経験をもつ。その第三者にあてはまる存在は様々だが、普通、家庭内で最も第三者的な役割をはたすのは父親である。父親を意識するということは、母親との関係を第三者的な視点から見つめ直し、社会的なふるまいを身につけることに繋がっている。フロイトがエディプス・コンプレックスと呼んだ、父-母-子の葛藤は、このような本質をもっていると言ってよい。

だがそれは、必ずしも現実の父親が介入することが重要なのではない。母親が自分以外の人々、つまり社会や世間という第三者を重視することが、子どもに社会的なまなざしを意識させるのである。要するに、母親との親和的な関係にどっぷり浸かっている状態から、周囲の人々の視点を意識する段階へ成長するのだと言える。

他の人々の視点を意識するようになるということ、これは第三者の視点を内在化するということでもある。目に見えるところに第三者が存在しなくとも、自分で勝手に第三者を意識するようになり、自然と社会的な態度がとれるようになってくる。勿論、いつでも第三者の視点を意識しているわけではないが、必要なときにはいつでも意識されるようになるのだ。

ところで、第三者は「超越的な他者」と重ねて論じられる場合もある。それは、かつて「神」という実体化された超越者の観念であったが、近代以降、神への信仰が薄れていくに従って、内在化されることになった。つまり、意識の外部に超越者はいなくなったのだが、自分の内面に超越者の視点を作り上げ、この視点から世界を見据えるようになったと考えることもできる。

内在化された超越者の視点、などというとわかりにくいかもしれないが、要するに普遍性のある視点ということであり、誰にとってもそう見える、誰もがそう考える、そういう視点を意味している。これは、宇宙の普遍的な法則を求める自然科学の視点であると同時に、社会の普遍的なルールを求める視点でもある。つまり、近代において展開された自然科学と社会思想、その二つを成り立たせているような、理性的な思考を生みだす視点なのである。


  ところが、近代社会における理性への信頼と社会変革への期待は、今世紀前半に起きた数々の戦争によって挫折することになった。理性への信頼は失墜し、主体性を中心とした近代思想は自己中心性へ繋がる考え方として退けられ、二〇世紀末の社会は相対主義と懐疑主義に陥り、人々は生の意味や目標を見失いがちなってしまったのだ。
もともと日本では、超越的な神を信仰することがなかったため、相対主義が蔓延しやすい素地があったのかもしれない。母子関係における密着性が非常に強く、父親は子どものことに介入しないという文化も、第三者の視点を育てない要因だと考えることができる。だからといって、私は父性の復権をことさら唱えるつもりはない。父親が権威的な存在であればいいのではなく、父親は母子関係に対して第三者を意識させる位置にいる、そのことが重要なのである。

現代社会では、第三者の視点が弱くなっているので、どうすれば他者から認められるのかわからないという不安が生じやすい。共通する基準がないため、誰が何を感じ、考えているのか、自分の考えや感じを他人がどう思っているのか、いや、そもそも伝わっているのかどうかさえ、はっきりした確信をもてない状況にある。そのため、何をやれば人に愛され、認められるのかもわからず、周囲に対して場当たり的な同調を続けるしかなくなってしまう。

「他人が何を考えていようと関係ないし、自分をわかってもらう必要もない」と強がっている人でさえ、実際には不安を感じている。なぜなら、われわれは他者と関わらずに生きることはできないし、そこには必ず「わかってもらいたい」「愛されたい」という欲望があるからだ。そして、お互いの主張がわからないという不安に耐えきれなくなれば、一気に宗教のような絶対的なものへと向かう可能性もある。

近代において支配的だったのは、内在化され、抽象化された超越者の視点であったと、現代思想は語る。ところが現代では、この内在化された他者の視点、超越者の視点が失われ、普遍性が見えなくなってしまった。そして、絶対的な真理などない、というポストモダン的な相対主義の思考も強くなり、ニヒリズムが蔓延している。超越者の視点などというと、何やら神の視点を想定しているように思えるかもしれないが、要するに第三者の視点が失われている、ということの比喩として考えればよい。

しかし、そもそも人間の欲望とは、他者から愛され、認められたいという欲望である。だからこそ、他者に嫌われないように、他者に褒めてもらい、認めてもらえるように、他者の視点を重視するようになるのだ。第三者の視点を内在化するのは、他者一般の視点をもつことで、他者に受け入れられるような言動を身につけるためだと言ってもよい。そしてこうした欲望は、身近な人たちを超えた抽象的な人々、つまり社会からの承認を求めることに繋がっている。

だから私はこう思う。やはり第三者の視点は必要なのだと。第三者の視点さえあれば、自分なりに納得のできる判断が可能となり、仲間内の卑小なルールに振り回されることはない。絶えず身近な人々の視線を気にすることもなくなってくる。ちまちましたルールに息が詰まりながらも、ずるずると従っている嫌な自分にもサヨナラできるかもしれない。第三者の視点から、自分の納得できる道を選ぶこと、それは自由の意識を手放さないために、どうしても必要なものなのである。