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04. “考える私”と“感じる私” (2003.8.20)

自己の分裂と「本当の自分」

自分の感じていることが、自分の考えていることと微妙にズレている、そう感じたことはないだろうか。「働かねばならない」と考えている一方で、「働きたくない、遊びたい」と感じている場合もあれば、「他の人に気を遣わねば」と考えている一方で、「面倒くさい、どうでもいい」と感じている場合もある。また、「怖いものなどない」と考えている一方で、不安を感じていることもある。そんなとき、私たちは自分の思考と感情は必ずしも一致しておらず、そこに分裂した自分を見出すことになる。それは、“考える私”と“感じる私”の分裂と呼ぶこともできるだろう。

“考える私”とは頭で思考している自分であり、“感じる私”は身体で感じている自分のことだ。私たちは“考える私”と“感じる私”の間に生じるズレに対して、ときには有益な判断を引き出すこともあるし、ときには二つの自分に引き裂かれて苦しむことになる。“考える私”と“感じる私”の分裂は、思考と感情の分裂、意識と無意識の分裂、心と身体の分裂など、様々ないい方で語られているのだが、その内実はほとんど同じだなのである。

“考える私”の自己像は、“感じる私”とのズレを感じるたびに修正される。それは、“感じる私”のほうが「本当の自分」のように思えるからである。「私は〓である」と、自分のことを語るとき、言葉にした瞬間に「本当はそうじゃない」という微かな感じが残ることは少なくない。そんなとき、まだ言い尽くされていない自分が取り残されており、そこに「本当の自分」がある、と感じられることになる。「自分探し」、「本当の自分の発見」など、どんな言い方をしようと、それは自己の分裂感、不全感から生まれてくるのだ。


“考える私”と“感じる私”の一致

ロジャーズはカウンセラーの条件として「自己一致」を重視しているが、それは言動に矛盾がない状態を意味する。例えば、カウンセラーがクライエント(相談に来た人)の話にイライラするような場合、カウンセラーが自分のイライラ感に無自覚であれば、カウンセラーの自己は一致していないことになる。そうなると、口ではクライエントに共感するようなことを言っても、無意識のうちに身体が引いていたり、表情がこわばったりするだろう。カウンセラーが自分の感情を自覚できれば、それだけ矛盾した言動は少なくなるのであり、これが自分の感情と思考が一致している状態、自己一致なのである。

ロジャーズの自己一致とは、“考える私”と“感じる私”の一致ということと同じである。言動の一致したカウンセラーは、その言葉に偽りがない人として、クライエントに信頼されることができる。逆に、クライエントのほうは自己一致していないために、その分裂感、悩みをカウンセラーに話す。こうして、自己一致したカウンセラーが、クライエントが自己一致できるように手助けする作業がカウンセリングである。クライエントの“感じる私”に焦点を当て、その感情を“考える私”が自覚できるように促すこと、“考える私”と“感じる私”が一致できるように手助けすること、それがカウンセリングの主要な目的なのである。


頭で理解すること、身体で感じること

私たちは自分の感情に気づくことで、次に自分はどうすべきなのか、その感情に応じた行為を選択しながら生きている。例えば、友だちと話しているうちに、些細なことでムカムカしてきて、つい怒鳴って罵声を浴びせてしまったとする。そのできごとの内容によっては、頭では友だちだと“考える私”がいたのに、こんな些細なことで頭にくるのは、もともとその友だちを嫌だと“感じる私”がいたのかもしれない、そう思えてくるかもしれない。そこに、“考える私”の自己理解と、“感じる私”の自己了解のズレが見えてくる。

自己理解は反省によって得られる自己像、自己の物語であり、それは「自分は〓である」という意識的な自己解釈である。一方、自己了解は身体的レベルで受け止めている自己に気づくことであり、それは能動的な自己解釈ではなく、自分自身の気分や行動パターンによって、受動的に告げ知らされる。意識されている自己理解は、少なからず身体で感じている自分とズレており、その“感じる私”に気づく(自己了解する)たびに、自己理解は修正されることになる。身体的に了解されている自分の欲望や不安は、様々な感情や態度として現れ、そこに“感じる私”への気づきが生じてくる。そして、この自己了解によって自己像が修正され、新たな自己理解に至るのだ。

自己了解と自己理解の間にあるズレは、“感じる私”と“考える私”の自己分裂である。私が頭で考え、理解している自分と、実際に自分が感じ、求めていることの間にはズレがあり、このズレ(自己分裂)が大きければ大きいほど、精神的にも不安や苦しみが大きくなる。この苦しみから解放されるためには、自己了解と自己理解のズレに気づき、“感じる私”と“考える私”ができるだけ一致するように心がけることが肝要なのである。


自己理解から自己了解へ

私たちは誰でも、自分がどのような人間であるかという、自分なりの自己像を持っており、自分は自己像に思い描かれたとおりの人間だと思いこんでいる。そのため、頭で“考える私”は身体的なレベルで“感じる私”に目を向けないまま、勝手な解釈で自己理解をしてしまいやすい。現実の自分が理想的な自己像とは違うことを認められず、自分が感じていることに無反省で、自分の求めていることがわからなくなってしまうのだ。“考える私”による自己理解への執着が、“感じる私”を自覚できなくしてしまい、自己了解(自己への気づき)が生じにくくなるのである。

感情(気分)は自分の欲望や不安を端的に示しており、それを告げ知らされるという形で受け止めるのが自己了解である。だが、それは無自覚である場合もあるし、自己理解の歪みによって気づきにくい場合もある。そこで、感情を自覚的に反省したり、他者から指摘されたりすることで、自分の身体的な了解を知ることが可能になる。そして、自己了解によって気づかされた自己を自覚的に捉え直せば、必然的にそれまでの自己理解、自己像は修正されてゆくだろう。私たちは多かれ少なかれ、常にすでにそのようにやっているのである。