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03. 書評 浅田彰『構造と力』を読む

構造と力―記号論を超えて

(2003.7.5)
『構造と力』が思想書として驚異的な売れ行きを見せたのは、「ポストモダン」という言葉が思想の最先端を意味するようになっていた、八〇年代の前半であった。当時、学生だった私は、序文のアカデミズム批判に共感を覚えたが、本論に読み進むと、聞いたことのない思想家や専門用語のオンパレードに圧倒され、少しへこんでしまった。

その後も私は、この本を二度、三度と繰り返し読んでみた。やはり確かに面白い。明快かつスピーディな論理展開は、聞き慣れない専門用語や思想家が山ほど登場しても、決して途中で投げ出させることなく、最後まで読者を離さない。思想系の読み物としては出色の出来映えだ。また、聞き慣れない専門用語さえクリアすれば、理論構成自体は極めてシンプルであることもわかってきた。なるほど、理解してしまえば、思想書としてはむしろやさしい内容である。それと同時に、この本には手放しで賞賛することのできないような、様々な問題があることにも気がついた。

よく知られているように、『構造と力』は構造主義、ポスト構造主義の理論をわかりやすく紹介し、日本のポストモダン流行に牽引的な役割を果たした本である。現代思想は、フランスのポスト構造主義を最前線とするポストモダンの思想、モダン(近代)の後に登場した思想であり、近代思想およびそれを継承した現象学への批判を含んでいる。ヘーゲルもフッサールも古くて、いまやフーコーやドゥルーズ、デリダの時代である、というようなムードも高まった。

しかし、ポストモダンの思想には知的刺激に満ちた魅力があるのだが、実際にはほとんど役に立たない思想である。そのことを、『構造と力』という本は端的に物語っていると言える。様々な思想をできるだけ単純化し、それを視覚的なイメージで捉えられるように図形化し、パズルのように組み合わせる。こうした知的遊戯に満ちた表現とスピーディな展開が、読み物としての面白さを支えている。そして読後に残るのは、「面白かった」「でも、だから何だと言うのだろう?」という違和感である。

『構造と力』の結末は、青年期には魅力を感じても、現実の社会を知れば知るほど、そして自分自身について考えれば考えるほど、納得できないものになっていく。なぜそうなっていくのか、そのことを確かめるために、まず『構造と力』の内容を振り返ってみることにしよう。

カオスから象徴秩序へ、そして象徴秩序へのカオスの侵入、それによる象徴秩序の組み替え、これが本書で押さえておくべき最も基本的な図式である。人間は環境世界との適合関係が壊れているので、そのカオス的な状況から逃れるために、文化の秩序(象徴秩序)が必要になるのであり、このことを浅田彰は、個人の心理的発達と、社会の文化的進展という、二つの視点を交錯させながら論じている。

個人の心理的発達という視点では、乳児期におけるカオス的な状況は、言語の発達によって秩序化されることになる。例えばラカンは、言語以前の世界(想像界)を錯乱した領域だと考え、想像界の錯乱的状況を克服するために、エディプス・コンプレックスが必要になり、象徴界という言葉の世界に参入するという。想像界においては、子の母への欲望が、母と子の相互関係に大きな葛藤をもたらしているのだが、この欲望は父によって諦めさせられる。つまり、第三者としての父を意識することで、父を中心とした秩序、言葉の世界(象徴界)が生成されるのだ。

この問題を、浅田は円錐の図形を使って説明している。母と子の関係が個別的な他者との相互的な関係として、平面的な構造で表せるのに対し、第三者である父は平面的構造を吊り支える中心点に位置づけることができる。父を頂点として、平面構造を吊り支える円錐の立体構造、これが象徴界を示すモデルである。それは、平面構造=静的な共時的構造だけを問題にするのではなく、その外部との相互作用を問題にしている点で、「力」の理論に通じている。その意味で、ラカンはレヴィ=ストロースのような静的な構造主義を超え、構造主義の極限的な場所に立っているのだと、浅田彰は主張している。

ラカンの優位を確信する浅田彰は、さらに批判の矛先をメルロ=ポンティの現象学へと向けている。同じ現象学でもサルトルの「個」の哲学と違い、メルロ=ポンティは他者との相互性を強調している点では優れている。しかし、その他者との相互性は想像的な関係に閉じた平面的構造でしかなく、しかもメルロ=ポンティは、そこに予定調和的な世界を想定している点で問題がある。乳児の世界は予定調和的な世界ではなく、ラカンの主張したようにカオス的な世界であり、そこに言葉が必要とされる理由がある、というわけだ。

しかし、乳児の世界が予定調和的であるかカオス的であるかという問題は、どちらも仮説の域を出ない物語である。確かにメルロ=ポンティの哲学は、言語以前の相互交流に理想的な人間関係を想定している面があるし、私もそこに予定調和的なものを感じないわけではない。だが、ラカンが想定した言語以前のカオス的な世界にしても、それが事実かどうかは証明できないし、象徴界への参入プロセスにしても、去勢コンプレックスの仮説を取り入れた、相当怪しい理論になっている。

また、浅田彰の理論を正確に追えば、「個の哲学=現象学」(点)<「対の哲学、静的構造主義」(平面構造)<「動的構造主義」(立体構造)というような、哲学の序列が浮かび上がってくるのだが、この優位性の違いは何を根拠にしているのか、浅田彰は全く示していない。そもそも現象学は主観における確信の問題を扱っているのであり、それを個の哲学だと主張するのは、最初から主観の外部世界を想定しているから出てくる発想であり、現象学を十分に理解した見解とは言えない。

以上のような個人の心理的発達という視点は、その前後の章で論じられている社会の文化的進展という視点と重なっているが、これを具体的に整理すると次のようになる。

人間がカオス的な状況を秩序化し、文化(象徴秩序)を形成した背景には、まず贈与による不均衡が生み出した、単純な交換関係が考えられる。これが「コード化」された社会、原始共同体である。次に「超コード化」された社会として、古代専制国家が成立する。これは、神や王のような超越者を頂点とする社会であり、個人は超越者を媒介にして自己同一性を獲得し、他者との相互承認が可能となる。最後に「脱コード化」された社会として、近代資本主義社会が登場する。これは超越者という中心のない社会、貨幣が超越的な頂点を相対化している社会である。

前近代は超越者を中心とする「超コード化」社会なので、先に述べた円錐の構造を象徴秩序だとすれば、その頂点が超越者ということになるだろう。象徴秩序の外部はカオスであり、祝祭によるカオスの侵入によって、固定されがちな象徴秩序も組み替えが可能となる。しかし、このような社会のモデル(円錐モデル)は、前近代までなら当てはまるのだが、近代のように超越者が存在せず、象徴秩序が日常的にカオスを吸収している社会を説明することはできない。

一方、近代社会では、「超コード化」するような超越的中心はなく、「脱コード化」の繰り返しが社会を動かしている。敢えて超越的中心を想定するならば、そこに位置づけられるのは貨幣である。貨幣はあらゆるものの交換を可能にし、絶えず価値増殖を続けているため、カオスの侵犯は日常的となっている。つまり、超越的な位置にある貨幣が、絶対的な中心に留まっていないため、円錐モデルではなく、クラインの壺こそ近代社会のモデルにふさわしいというのだが、このあたりはイメージだけで主張しているように思える。

さらに浅田彰は、超越者が存在しない社会だからといって、近代が自由な社会というわけではないという。近代社会においても、家族のエディプス関係が生み出す内面的な規範(超自我)は、私たちの行動を抑制している。目に見えるような超越者、権力者はいないのだが、超越者はエディプス・コンプレックスをとおして内面に形成され、超越者なきパノプティコン的効果が生じ、一定の方向へと動かされるというのである。そうした状況から自由を得るためには、一定方向へ動くのではなく、多数多様な方向へ散乱することが必要になる。この多数多様な方向への散乱を、ドゥルーズは根茎(リゾーム)のイメージで説明しているが、浅田彰はドルゥーズ理論を自己流に簡略化する形で、様々なルールやしがらみから逃げるという、逃走論を掲げるのである。

しかし、浅田彰の近代社会のモデルは、資本主義社会を表すという意味では一定の理があるとしても、近代社会の別な側面、市民社会という側面を全く度外視している。近代社会では絶対的な超越者は存在せず、個人が一般の人々の意志を思い描き、公平なルールを築き上げるという自由を持っている。この自由をどう考えるかが、最も重要だと言えるだろう。

家族のエディプス関係が内的規範を形成するとしても、それは自由を拘束する内在的な他者、最後の支配者、というような否定的なニュアンスで捉える必要はない。私の考えでは、むしろそれは「みんなにとって」というような第三者の視点、一般の意志を思い描くために必要な過程なのである。父の視点、あるいは影響力のある他者の視点を内在化することで、より一般的な視点を身につけることができるし、自分自身を第三者の視点から見つめ直し、自分のあり方、行動を考え直すことが可能になる。

つまり、近代社会では自己を反省し、自分がどうあるべきか、どのように行為すればよいのかを、自己の内面に深く問いかけながら生きることが可能になったのであり、それは自由の絶対条件だと言える。第三者の視点で自己を意識し、自分の納得できる形で行為を選び取ること、それこそが自由の意識をもたらすのであり、自由=社会や他者の拘束から逃れること、というような浅田彰の発想は、自由の本質を理解した主張とは言えない。

確かに、父に対して極度の怖れを感じ、強迫的に父の命令に従うようになれば、それは自由を拘束する内在的な他者、と言えなくもない。だがそれは、父の視点、影響力のある他者の視点を、一般的な第三者の視点に修正することができていない未成熟な意識、あるいは神経症的な意識である。浅田彰はこの意識を一般化しているに過ぎない。

勿論、誰でもこうした自由の拘束感が完全に解消されることはないのだが、自分の欲望が他者との関係において満たされることを、多くの人は無自覚のうちにもわかっている。だからこそ、他者との関係において満足が得られるように、他者の視点を重視するのである。重要なのは、こうした自分の欲望に対する自覚であり、自分の意志でやっていることだと納得できれば、そこに自由の実感が生じるに違いない。全ての拘束から多数多様に逃げるという浅田の逃走論は、結局は他者との関係を度外視した、イメージだけの自由論なのである。