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02. 書評 吉本隆明『共同幻想論』

共同幻想論

戦後の日本において、吉本隆明ほど多くの人々に強い影響を与えた思想家は他にいない。特に『共同幻想論』は、六〇年代後半の刊行時には大変な反響で、当時リアルタイムでこの本に衝撃を受けた全共闘世代は、特別な思いを込めながら本書について語ろうとする。今回、私はじっくりとこの本を読み込んでみたが、論理の展開にやや錯綜している印象を抱いたものの、何度も考え直してみたくなるような深いテーマに知的興奮を感じないわけにはいかなかった。

国家を「共同幻想」として述べているだけなら、現在では特別に新しい発想とは言えないかもしれないが、この本の醍醐味はなんと言っても共同幻想と自己幻想、対幻想との関係を考察しているところにある。自己幻想が文字どおり個人の幻想を意味していることは誰でもすぐにわかることだ。しかし、男女の間における幻想や家族の幻想を「対幻想」と呼び、共同幻想とも自己幻想とも区別した点は、吉本隆明の独創性を端的に示している。なるほど、恋愛関係や家族関係のような親密な他者との間には、確かに社会的な関係とは異なった世界が存在する。誰もが認めざるを得ないような本質を取り出し、それを「対幻想」という言葉で議論の俎上にのせるやり方は、やはり見事と言うべきであろう。

本書を読み解く上で最も重要な問題は、「共同幻想と自己幻想は逆立する」という吉本隆明の基本的な考えを理解するところにある。この主張は繰り返し強調されているが、要するに社会が私に要請することと私の欲望や理想が矛盾し、必ず対立する関係にあるということだ。自分の欲望が社会の要請と対立し、葛藤することは、大なり小なり誰でも経験していることである。こうした経験から、私たちは社会が間違っているとか、社会が私を抑圧している、などと確信することにもなっている。したがって、吉本の主張は一見すると正しいようにも思える。

しかし、よくよく考えてみれば、社会の要請はいつでも私の欲望と対立するわけではなく、むしろ一致する場合もあることがわかる。私が社会の中で認められ、受け入れられることを望んでいる限り、それは当然のことなのである。私たちの自由は社会の拘束から逃れることにあるのではなく、社会の中でこそ実現される。ヘーゲルであれば、自己幻想と共同幻想が対立するように見えるのは、まだ意識が発展途上にあるためで、成熟して弁証法的に統一されれば、この対立は解消されるはずだと言うだろう。吉本はヘーゲルをしばしば引用してはいるものの、この点に関する彼の主張は、社会が自己の欲望を抑圧するというフロイトの主張に近いと言える。

ただ、私たちが社会に対して「抑圧されている」という逆立の意識を抱きやすいのも確かであり、問題はなぜそのような確信が生み出されるのかを問うことであろう。ところが、実際に『共同幻想論』が問題にしているのは、共同幻想と自己幻想の逆立という問題よりも、共同幻想と対幻想の逆立である。古代社会を対幻想の強い共同性の社会と見なし、それがいかにして対幻想の弱い社会へ、つまり国家という共同幻想へ転化するのかが問題にされている。対幻想が共同幻想へ転化する契機を見出すことで、国家の起源を問い直すことが本書の中心的な目的なのである。

対幻想が共同幻想へと転化するのはなぜなのか、という問題を解き明かすために、吉本は本書の前半で『遠野物語』に着目している。まず村落のような閉鎖的な空間、入眠幻覚のような朦朧状態などが、共同幻想を生み出す要因として捉えられており、入眠幻覚を意図的に生み出す存在として「巫覡」(シャーマン)の例を挙げている。巫覡は、本来は逆立する関係にある自己幻想と共同幻想を同調させることができるのだ。また、巫女は共同幻想そのものにエロスを感じるので、対幻想は自然に共同幻想に重なることになる。要するに、巫覡、巫女、入民幻覚、閉鎖的空間などは、逆立するはずの自己幻想と共同幻想、あるいは対幻想と共同幻想を接続するための、重要なファクターなのである。

『共同幻想論』の後半では、対幻想中心の母系性社会が、対幻想のない共同幻想の社会へと移行する契機が分析されている。吉本によれば、対幻想のない部族社会こそ国家の原型であり、その成立は国家の起源を示している。もともと古代における母系制の社会は、家族の対幻想がそのまま村落の共同幻想の利害と一致している社会だが、対幻想は次第に共同幻想の利害とは分離し、やがては対立(逆立)することになる。その過渡期に現れるのが、姉妹が宗教を司り、兄弟が政治を司るという分権体制である。姉と弟は対幻想の関係を保ちながらも、空間的に離れていることができるため、拡大した部族を共同で治めることが可能になるのだと吉本は言う。

このことを証明するために、吉本は『古事記』のアマテラスとスサノオの話を繰り返し持ち出している。姉のアマテラスは神の託宣の世界を支配し、弟のスサノオは農耕社会を政治的に支配しており、しかも父に背いて高天が原を追放されたスサノオは、父系的な大和朝廷の共同幻想を否定し、大和朝廷以前の母系的な社会を肯定している存在だ。この問題の事実関係を検討するために、吉本は『魏志倭人伝』に記された邪馬台国に言及する。邪馬台国では卑弥呼という女王が神権を司り、弟が政治を司っていたからだ。

しかし、邪馬台国に対幻想的な遺制が見られるとしても、それ以外の点では高度な段階に達している。例えば、罪を犯した人に対しても、単なるお祓いではなく刑罰を与えている。お祓いの対象は罪の行為そのものであって人は対象にならないが、人に刑罰を与えるということは、はっきりした法的な共同規範に基づいている。つまり、邪馬台国にはすでに国家としての特質が散見されるのである。結局、国家の起源は大和朝廷よりも遙か以前に想定されるはずだと、吉本は結論づけているのだが、ここには天皇を中心とした国家論を解体するという、彼の基本的な姿勢が窺われる。

ただし、こうした国家論そのものより、本書の現代的な意義は、やはり国家を共同幻想だと主張し、男女や家族の対幻想と分けた点にある。これは全く本質的な分類であり、共同幻想と対幻想、自己幻想の関係は、誰にとっても重要な問題であることは間違いない。しかし、吉本は古代や前近代における対幻想と共同幻想の関係ばかりを検討しているため、自己幻想の位置づけが本書ではわかりにくい。自己幻想の問題が生じるのは共同体(共同幻想)と家族(対幻想)が違った水準に分離したときであり、それが近代以降における家族の問題であるとまで述べていながら、本書ではこの問題に踏み込んでいないのである。では、近代社会において自己幻想はどのような問題として登場したのであろうか?

私の考えを言えば、まず近代社会以後、私たちは自分を第三者の視点から捉え直し、自己のあり方における自由を強く意識するようになったということだ。実際、自由に生き方を選択できる可能性も生まれたのだが、逆に自分が何をしたいのか、何ができるのかが大きな問題になってくる。様々な選択の可能性が広がったとはいえ、何でもできるわけではないし、そこに自分の思いどおりにはいかないという不全感も生じてくる。そこに、「〓したい」という欲望と、社会の要請に対して「〓ねばならない」という義務感の葛藤も生じてくる。だからこそ、自己幻想と共同幻想が逆立している、という確信が生み出されることになるのである。

吉本隆明はこの逆立の確信が生み出される条件を十分に説明していない。また、なぜ対幻想が共同幻想へと転化するのか、結局それもあまり明確にはわからない。単純に考えるなら、人間にとって最初の対幻想は母親との関係において生じるはずである。それは吉本が適切に述べているように、一方の意識が他方の意識のうちに、自分を直接認めるような関係であるからだ。他者との関係におけるルールにしても、母親に愛されるかどうかだけが問題なのであり、最初は社会性など微塵もない。子どもが社会を意識するのは、母親によって「みんなはそうしてるよ」などと言われることで、目の前に存在しない他者一般を意識するようになるからだ。

それが共同幻想への窓口であり、第三者の視点を獲得する契機でもあるなら、共同幻想の世界に踏み込むことは、自己幻想の拡大に繋がっていることになる。それは、自分を社会の中に位置づけ、客観的に捉えることでもあるからだ。このとき、私たちは母親にとっての自分だけではなく、社会にとっての自分というものを強く意識するようになるだろう。そのことが、自分に対する像(自己像)やあり方を客観的な視点で捉え直し続け、個性、自我を形成することに繋がっていく。そして、母親にとっての自分と社会の中での自分、家族内のルールと社会のルールの間に裂け目が生じてくる。この裂け目こそ、対幻想と共同幻想が逆立しているという確信を生み出すのである。

このような私の考えも、近代以降に生きている私たち自身の日常から推論されたものであり、吉本が問題にしていた国家の起源に位置づけられる共同幻想とは時代的にズレがある。そして、このズレを説明し得るような理論は本書の中に見られない。そこに私はどうしても不満を感じざるを得ない。それでも、『共同幻想論』には私たちが何度も繰り返し立ち返って考え直すに値するような、重要なテーマが含まれていることは確かだ。共同幻想、対幻想、自己幻想の関係を考えていると、個人や対人関係の悩みから社会的な問題まで、多くの現象を本質から捉え直すことが可能になる。本書が時代を超えた普遍的なテーマに挑んでいることは、やはり認めざるを得ないのである。