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14. 書評 斎藤環『社会的ひきこもり』

社会的ひきこもり―終わらない思春期

斎藤環の『社会的ひきこもり』は、すでに「ひきこもり」問題の専門家として名を馳せている著者の代表作、と言うべきだろうか。より専門的で難易度の高い『文脈病』もそれなりに面白かったが、臨床への実践可能性があり、「ひきこもり」問題を広く一般に認知させた啓蒙的功績という点で、私は本書を斎藤環の代表作と呼びたい。文章も明快で淀みがなく、一気に読み抜ける。

この本の最大の山場は、何といっても「ひきこもりシステム」という考え方が主張されている章である。斎藤環によれば、社会的ひきこもりの問題は個人の病理としてのみ捉えることが難しく、家族や社会の病理が深く巻き込まれている。それは煎じ詰めれば対人関係の問題であり、その原因は「個人」「家族」「社会」という三つに分けられる。ひきこもり状態では、この三つの領域で何らかの悪循環が生じ、各領域が互いにひどく閉鎖的になる。「個人と家族」、「個人と社会」などの回路が塞がれてしまうのだ。この悪循環のことを斎藤環は「ひきこもりシステム」と呼んでいるが、それは独立したシステムのように、こじれればこじれるほど安定し、なかなか止めることが難しい。

「健常なシステム」においては、「個人」「家族」「社会」という三つのシステムは接点(コミュニケーション)を持っている。個人は家族と日常の中で会話しながら生活し、学校や会社などの場所においても、さまざまな人々と影響を与え合っている。しかし「ひきこもりシステム」においては、このような接点が乖離し、機能していないのだ。そこにはコミュニケーションの欠如がある。不安を抱えた家族は、本人に叱咤激励するなど、一方的に刺激を与えようとするのだが、そこには共感がなく、相互的なコミュニケーションが成立していない。また、家族は世間体を気にして隠そうとしたり、誰にも相談しない傾向が強く、この「抱え込み」の姿勢によって社会とのコミュニケーションは閉ざされる。こうした悪循環が「ひきこもりシステム」を安定させ、強化するのである。

心の病理を個人に内在するものではなく、本人を取り巻く人間関係のシステム、特に家族というシステムの問題として捉える視点は、すでにワツラウィックやウィークランドなどのシステム論的な家族療法に見られるもので、決して新しい発想とは言えない。しかし、問題を家族システムだけでなく、「個人」「家族」「社会」の複合的な相互関係として捉えたことは従来にない観点を含んでおり、「ひきこもり」の全体像を見事に描出しているように思える。「ひきこもりシステム」という見取り図によって、「ひきこもり」の理解が深まるだけでなく、対処法についても多様な可能性が開かれるにちがいない。

しかし、斎藤環は、「ひきこもり」をシステムとして捉えるという、単に外在的な視点からのみ捉えているわけではない。ひきこもっている本人の心がどのような問題を抱えているのか、それを内在的な視点からも迫ろうとする。つまり、本人の心の中で何が起きているのか、それを知ることで、共感、理解を深めようとするのである。では、「ひきこもり」の当事者は、一体何に苦しんでいるのであろうか?


斎藤環によれば、ひきこもっている本人においては、他者のイメージは単に外傷をもたらすだけの迫害的なイメージにとどまっている。普通、他者との関係において、褒められたり傷つけられたりする中で、有効な他者のイメージが獲得されるのだが、ひきこもり状態では他者との出会いがないため、このような成熟が止まってしまうのだ。家族は自分の分身、あるいは身体の一部のように認識されているため、厳密な意味では他者性がない。他者の心に寄り添って理解することが難しいため、家庭内暴力も起きやすいのである。ひきこもりの本人にとって、家族は他者性を失っている。

このような家族の他者性の喪失は、一般的に家族愛の影に隠れて認識されにくい。特に母と子の愛情関係は事態をいっそうこじらせ、不安定なものにする。そこにあるのは、自立した個人への愛、親としての愛情というより、共依存、共生関係にほかならない。「ひきこもりシステム」から抜け出すためには、他者による介入が不可欠であり、「密室の親子関係に、さしあたり治療者が、社会の代表として楔を打ち込むこと」が必要なのである。治療者が「他人という鏡」になることで、誰もが必要とする自己愛が維持される。斎藤環はこのように主張している。

この考え方は、フロイト、ラカンの影響を強く受けている。エディプス・コンプレックス理論によれば、母子関係に父親という第三者が介入することで、子どもは社会性を獲得する方向へと歩を進める。同様に、ラカンは母子関係を鏡像関係と呼び、治療関係がこれと同じような二者関係に陥ることを繰り返し批判している。斎藤環の主張は、まさにフロイト〓ラカンが切り開いた地平に基づくものであり、母と子の二者関係に治療者が第三者として介入することで、社会との接点を取り戻すことを意味している。

以前、私はこのホームページにおいて、二者関係に対する第三者の視点の重要性を主張したことがある。その観点から言えば、斎藤環の主張は本質的な正しさを持っていると思う。しかも、「ひきこもりシステム」という見取り図を使って、まず本人と家族、家族と社会という、二つの接点を回復し、次に本人と社会の接点を回復するという方法も、現実の治療として有効なはずである。その意味でも、本書は「ひきこもり」問題を考える上で非常に役立つ本だと私は考えている。

しかし、疑問を感じる箇所もいくつかある。たとえば斎藤環はこう述べている。人間は象徴的な意味で「去勢」されなければ、社会のシステムに参加することができない。「去勢」とは「万能であることをあきらめる」ことであり、人は自分が万能でないことを知ることによって、はじめて他人と関わる必要が生まれてくる。しかし、現在の教育システムは「去勢を否認させる」方向に作用しているのだ、と。私なりに要約すると、自分の行為が他者に承認されないこともありうる、ということを学ばなければ、他者を自分とは異なった存在として認めることは難しくなるのだ。

このような考えには一理あるし、実際、現実の社会において他者に否認される状況は数多くある。しかし、他者に承認されない可能性を知るべきだ、という主張だけでは、ややニヒリスティックな展望である。他者に承認されない可能性があるのなら、他者に承認される別の可能性もあるはずだ。ならば、承認される別の可能性を見出せるような治療の方向性があってもいいのではないか。実際、治療者が家族に介入するということは、それまでとは異なった水準で他者の承認が満たされることではないか。

社会の中で承認されないとき、あるいは承認されないかもしれないという不安を感じたとき、家にひきこもることで、他者に否認される危険性は一時的に回避できる。ならば、他者に承認される可能性を見出すことは、「ひきもり」問題を解決する鍵になるはずだ。事実、治療者という他者は、ひきこもっている当人の承認欲望を共感とともに満たす位置にいる。もちろん、家族も共感し、承認欲望を満たす可能性を持っているが、斎藤環も再三述べているように、家族愛にはある種の危険性が潜んでいる。彼が家族の他者性を回復すべきだと主張するのはそのためである。しかしこの場合、「家族の他者性」という表現はあまり適切ではない。むしろ、家族の承認は社会の承認とは異なった本質を持っている、と考えるべきななのだ。「ひきこもりシステム」においても、個人と家族、個人と社会の接点を問題にしていることは正しいが、個人にとって家族と社会がどのような意味を持つのか、そうした差異の本質がこの本では明確にされていない。

だが、それでも私は本書が論ずるに値する多くの問題を投げかけていることを高く評価したい。「ひきこもり」問題を考える上で、私はこの本から多くの示唆を得た。まだ読んでいない人は、ぜひ一読してみて頂きたい。