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13. 宮台真司「終わりなき日常を生きろ」

終わりなき日常を生きろ―オウム完全克服マニュアル

終わりなき日常を生きろ―オウム完全克服マニュアル

最近、久しぶりに宮台真司の『終わりなき日常を生きろ』を読みなおしてみた。思えばこの本が流行ったのはいまから十年近く前。あの地下鉄サリン事件から、もうそれだけの月日が流れている。宮台が提起したオウム問題の意味も、すでに世間では半ば忘れられているように思えるが、あらためて読んでみると、そこに書かれてある内容はいまでも十分に新しく、また未解決のまま忘却されていることを思い知らされた。

この本の基本的枠組みは、「素晴らしい未来」と「終わりなき日常」という対立図式で構成されている。これは絶対的なものが信じられた近代と、絶対的なものが失われたポストモダンの対立として捉えることもできる。客観的に正しい唯一の価値観、社会規範にもとづく理想的な社会、そんなものは実現不可能な物語にすぎない。と、ポストモダン系の知識人たちが近代批判を流布するようになったのは、八十年代初頭にさかのぼる。あの頃、価値の絶対性を支える超越項はもはや存在せず、価値観の相対化された時代に移行したことは、絶対的な価値観やルールに縛られない自由をもたらしたという意味で、確かに歓迎された考え方だった。

しかし、相対主義の蔓延は、同時に自己価値を定位する場所が失われるという、新しい問題を生みだすことになった。社会に一定の価値観があれば、その社会の中で将来的に認められ、自分の人生に意味をもたせることができる。だが、そのような価値観がなければ、生活は豊かになっても自分の価値を見定める基準がないため、自我の不安が生みだされる。特定の価値観に縛られない自由は得られたが、今度はどのような価値観に焦点を合わせて行動すれば認められるのか、他人に受け入れてもらえるのか、その基準が見えにくい時代になったのだ。

この不安から逃れるためには、二つの選択肢が考えられる。ひとつは、将来的に輝かしい世界を期待するのでも、自己価値の絶対性を期待するのでもなく、「終わりなき日常」を生きる道。これは現代の女子高生に代表される生き方であり、彼女たちはその場その場を楽しく生きる術を心得ている(と宮台は言う)。もうひとつは、強引に超越項(真理、父なる教祖など)を想定し、それを信じることで、自己価値の支えを見いだす道。これは新興宗教や自己啓発セミナーに救いを求める生き方である。

後者の超越項を想定する方向性は、「終わりなき日常」を終わらせて、その後に訪れるであろう輝かしい世界に期待するようになりやすい。つまり、世界を滅亡させた後の共同性という夢(ハルマゲドン幻想)に転化しやすいので、そうした幻想を現実化しようとすれば、オウム真理教のようにサリンをばらまく結果となる。したがって、オウムのようにならないためには、超越項を想定するわけにはいかない。すると、残された道は「終わりなき日常」を生きるしかない。そのためには、コミュニケーション・スキルを身につけることが必要になる。これが宮台真司の処方箋なのである。




しかし、この処方箋に疑問を感じるのは私だけではないだろう。将来へ期待することなく、その都度の日常をうまく、楽しく生きること、それで満足できれば苦労はないし、誰もがそのように生きることはできない。それに、渋谷の女子高生が調査の時点で本当に不安がなく楽しんで生きているとしても、十年後、二十年後に同じことが言えるかどうかはあやしい。大人になったとき、自分が生きてきた道に意味を見いだせず、自分の生を全体として考えなおすかもしれない。そのとき、先送りにされてきた不安に直面し、結局は苦しむかもしれない。

自分の生き方に意味を求めてもがいている人間にとって、無目的に日常を生きることはできないし、「人生もっと楽しめよ」と言われても、なかなかできるものではない。誰でも自らの生の意味を求め、納得できる自己の価値を求めている。とくに人生の半ばを過ぎた人、死を意識しはじめた人であればなおさらだ。あるいは何度も挫折を味わったり、日々の生活にやりきれない重荷を感じる人にとって、未来の可能性に自己価値の充足を思い描き、そこによろこびを見いだすことは大きな支えになるだろう。

自分の生きている意味、自己価値を求める欲望、それは自我の不安を乗り越えるためには決定的に重要なものだが、宮台真司の考え方では、この自己価値の欲望がまったく無視されている。人生の意味を求めている人に、そんなことは無意味だと言っているようなものだ。もちろん、過剰に未来や自己価値を意識し、その日その日を楽しむ余裕がなくなるのは、それはそれできつい生き方だ。しかし、彼の言説が日常を無目的に生きている人を肯定するとき、それは一方で自己価値を可能性の中に求める人を否定するような、過酷な宣告になっていないだろうか?

自己価値の一般性を求めるのは、人間の欲望として抑えがたいものである。それは別に絶対的な価値観や真理を求めるわけではなくとも、多くの人々が承認するような一般性であればいい。みんなが認めてくれるような、みんなが受け入れてくれるような、そんな自分でありたいという切なる思い。ほとんどの人にとって、この思いを拭い去ることは決してできないだろう。また、消し去るべきでもないのだ。

確かに宮台真司が主張するように、自己価値を承認するような大きな枠組み、物語はないのだから、普遍的な価値を求めることなく、終わりなき日常を生きるしかないようにも見える。しかし実際には、絶対的ではなくとも、多くの人が同意できる社会規範、一般的な価値観があれば、その中で自己価値を定位することは可能である。表面的には価値観が多様化していても、他者に承認されたいという欲望が人間にある限り、一定の共通な価値観は確保されているし、その中で私たちは、人間としての正しさ、意味のある生を求めて生きている。場当たり的な終わりなき日常ではなく、一般性、普遍性を考えながら、可能性のよろこびを求めて生きているのだ。

このような一般性を求める視点は、宗教と同様、超越を求めることではないか、そう思える人もいるだろう。だが、こうした考え方は転倒していると思う。むしろオウムのような宗教的コミュニティでは、こうした一般性への視点が欠如し、身近な他者関係の中でしか自分を捉えられなくなっている。だからこそ、仲間内の閉じられた関係の中だけで物事を判断し、サリンをばらまくことの一般的な意味が冷静に捉えられないのだ。その意味では、「終わりなき日常」を生きる女子高生が、いやもっと広く現代の若年層が、総じて仲間うちの評価やルールしか気にしないのとあまり変わらない。一般性を求める視点、すなわち第三者の視点は、むしろそうした仲間内の価値観やルールを相対化し、一から自分で考え直すためのスキルになるのではないだろうか?