トップページ > 書評とエッセイ > 12. 西研『ヘーゲル・大人のなりかた』

12. 西研『ヘーゲル・大人のなりかた』

ヘーゲル・大人のなりかた

近代という時代が思い描いていた理想社会、それは理性を信じることで実現される自由な社会、のはずであった。だが、そんな社会が本当に実現可能なのかどうか、いまや多くの人々が疑問に感じている。そもそも「社会のことを考えろ」と言われても、それは他人事のような気がするし、どこか遠い話、無関係な話に思えてしまう。「社会のことより自分のことを考えるので精一杯だ」、というのが、ほとんどの人間にとって偽らざる本音であろう。

しかし、誰も社会のことを考えなくなれば、世の中は混乱と無秩序な状況に陥り、自分にも被害が及ぶことは明白だ。それに社会はルールを含んだ様々なゲームの場でもあり、そうした社会の中でこそ、私たちは自我の欲望を満たすことができる。このことを自覚しないかぎり、「社会はルールを強制する巨大な権力である」というイメージを、私たちは決して拭うことができない。

西研の『ヘーゲル・大人のなりかた』は、この個人の欲望と社会の間にある深い溝に対し、誰もが渡れる橋を架けようと試みた意欲作である。この本にはまず、ヘーゲルの生きた時代背景が「近代の夢」という章によって素描されているが、それはルソーやカントらが先鞭をつけた道であり、理性によって実現される、自由な共同社会への夢であった。若きヘーゲルもまた、近代の夢を抱きながら自由に憧れ、人々が世界を愛し肯定できるような社会を求めていた。こうした理想へのあこがれこそ、近代哲学の最高峰とも言われる哲学書、『精神の現象学』を生み出すことになる。では、『精神の現象学』ではどのようなことが主張されているのだろうか?

順を追って説明しよう。まず認識問題に関しては、あらゆる対象は意識の場面において経験されるので、その外側を考える必要はないという。つまり「客観的対象が意識の外側にある」と考えるのではなく、「意識に現れている対象を自分がどう了解するか」を問題にするだけでよい。これはフッサールに先駆けた画期的な発想の転換だと言える。私たちは意識の外側に客観的対象があると信じており、それを認識できるか否かがそれまでの哲学の根本問題であったが、意識の外部にある物自体は認識不可能である。だからといって、「真実は永遠に知り得ない」などと考える必要もない。ヘーゲルによれば、意識に現れた対象への見方を反省したり、それに対する知識が少しずつ増えるにつれ、その対象に関する認識は確かなもの(絶対知)へと近づいていく。そもそも意識の外部そのものが想定されたものなので、意識における現象だけを問題にすればいいのだ。

たとえば目の前に塩があるとしよう。この場合、認識し得ない客観的な塩が意識の外部にある、などと考える必要はまったくない。もし私が化学者であり、実験室では塩の化学反応を調べているが、家では料理をするためだけに塩を使うなら、塩という客観的対象は、一方では化学物質「NaCl」でありながら、他方では「調味料」でもある。料理をしているときでさえ、塩が「NaCl」という化学物質に見えてしまうなら、それは化学の研究に没頭するあまり、「塩=NaCl」という一元化された意味が固定され、あたり前になってしまったのだ。この先入観を反省し、「NaCl」でもあり「調味料」でもある、という柔軟な捉え方ができれば、塩についての知はより統合された真理へと近づいたことになる。

このとき、塩が「NaCl」にしか見えない私は、自分を「化学者」としてしか見ていない。しかし「調味料」でもあることを納得すれば、自分が「料理をする人」でもあることに気づかされる。意識の対象を反省するということは、対象を見ている自己と対象の関係を捉え直すことでもあり、結局は自分自身を強く意識することにほかならない。意識の対象が自己に相関して現れる以上、あらゆる意識は自己意識なのであり、知を統合し、自己と対象の関係を反省することが、自己意識の成長につながっているのだ。


このように、自己了解を反省し続けることで意識は成長する。しかし、どうして自己了解を反省するのか、意識が成長しようとするのか、『精神の現象学』では明らかにされていない。この問題について明快な答を与えてくれるのは、ヘーゲルではなくハイデガーである。ハイデガーの実存論で捉えるなら、自己の可能性を見出そうとする欲望、関心があるからこそ、自己了解を反省することが理解できる。西研によれば、実存論からヘーゲルを読み直すこと、そこに新たなヘーゲル像が浮かび上がってくるのである。

さて、こうした原理に基づいて、ヘーゲルは人間の意識がどのような変化を遂げてきたのか、その壮大な歴史を描いてみせる。まず他者から認められたいという欲望が争いを生み、主人と奴隷という支配関係ができ、やがて労働をとおして欲望を抑制する術を知った奴隷は、自立した自己意識を得ることになる。古代ローマ時代には、ストア主義や懐疑主義といった未熟な段階にあった自己意識も、中世キリスト教時代を経験することによって、普遍的なものを求める「普遍意志」へとたどりつく。つまり、自己中心的な意識から成長し、「みんな」にとっての普遍的なものを求める自己意識となる。

近代において成熟してきた自己意識、つまり理性は、最初は自然の中に自己を見出そうとし、やがて自己の信ずる理性的秩序を見出すために、私的な欲望と社会制度を結びつける考えを探し、積極的に行為しはじめる。それは個と普遍を統合する試みであり、理性は自分だけの納得ではなく、万人の納得を求めようとする意識へと成長する。わがままだった自己意識が、少しずつ万人のことを考える理性へと成長してゆく物語、西研の描き出すヘーゲルの『精神の現象学』は、まさに私たち自身の意識が大人に成長し、自由を獲得してゆく過程そのものである。

このようなヘーゲル論に対して、近代思想に批判的なポストモダン派の人なら、「少し楽観的すぎないか」「すでにヘーゲルは時代遅れだ」「これでは近代主義への逆行ではないか」、といった批判も聞こえてきそうだ。あるいは、社会のことよりも自分の欲望を優先させたい、社会の拘束から逃れて自由に生きたいという人々にとって、ヘーゲルの主張は「社会のことを考えろ」、「もっと大人になれ」、そう言っているように思えるかもしれない。

しかし、西研が自らの実存に問いながら生み出したヘーゲル像には、そうした批判や疑問を吹き飛ばしてしまうだけの力がある。社会のことを考えるのが大人の意識だというのではない。私たちはときに社会から逃れたいとは感じても、完全に社会から離れて生きたいわけではなく、社会の中で他者と共感できることによろこびを感じ、他者に認められることを望んでいる。それがヘーゲルのいう承認の欲望であり、この欲望があるかぎり、他者との関係性を無視するわけにはいかなくなる。だからこそ、人間は自らの自由な意志によって社会に参加するのだ。

このことさえ理解できるなら、私たちは社会へ参加することの意味を見いだし、自分の意志で社会に関わり、そこで満足して生きる道を見つけようとするだろう。西研がヘーゲルをとおして主張したかったのは、そうした社会において見出される可能性なのである。