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11. 心が病むとはどういうことか

心の病という現象に対して、私は繰り返し自問し続けてきた。――心が病むとはどういうことなのか、と。「脳の機能に異常があるのだ」という説明は、どうもしっくりこない。「なるほど」というような納得感がまったくないのだ。
 それは心の病の原因ではあるかもしれない。そして心の病の原因が脳にあるという考え方の背後には、因果関係によって世界が成り立っているという世界像がある。それは実証科学的な唯物論の世界像であり、本来この世界像では物と物の因果関係が想定されているだけで、そこに心を位置づけることはできない。心は物ではないのだから。
 にもかかわらず、私たちはストレスが原因で胃腸の調子が悪いとか、うつや不安の原因が脳にあるとか、心と身体の相関関係を、まるで物の因果関係と同じように考えている。こうした心身相関論は、私たちの日常に広く浸透している考え方なのである。
 心身相関論の源流は、デカルトの心身二元論にある。自然科学は世界を数学的な法則、因果的な法則で成り立つものだと考えてきたが、この物的因果関係の世界のなかに心を位置づけることは原理的にできない。そのため、世界は因果関係にもとづく物の世界と、それとは次元の異なる心の世界という、二つの世界に分けられることになった。それが、物心二元論、心身二元論という考え方のはじまりである。
 精神医学と心理学において、この難問は深く考えられないまま、心は物と同じように客観的な対象として扱われ、物的な因果関係のなかにあっさりと位置づけられてしまった。それが心身相関という考え方だ。実際には、心という主観的世界が客観的世界のなかに位置づけられるはずはない。むしろこれは逆であり、客観的世界が実在しているという確信も、私の主観的な意識のなかで成立しているとしか言えないのだ。
 ところで、心の病の原因を考える因果論には、心と身体の因果関係を考える心身相関論だけでなく、過去の経験を現在の心理状態と結びつける考え方、すなわち過去決定論もある。この考え方では、幼少期の虐待に問題があるとか、過去のトラウマが原因であるなど、心の病の原因は過去に求められている。つまり、心の病の原因を求める因果論には、心身相関論と過去決定論の二つがあるのだ。
 心身相関論では心と身体の因果関係が想定されており、身体的原因と心理的原因の二つが考えられる。心の病の原因を脳に求める考え方は身体的原因を想定するものであり、現在の精神医学において最も有力な仮説である。アルツハイマーのように脳の損傷が見られる病だけでなく、分裂病のように遺伝や素質が原因とされる病も、身体的原因が想定されている。一方、心身症など、身体的症状の原因をストレスや不安などに求める考え方では、心理的原因が想定されている。
 しかし、心理的原因を考える因果論は、必ずしも心身相関論になるわけではない。心理的原因は身体症状との因果関係だけでなく、心理的症状との因果関係も考えられるからだ。たとえば、過去のトラウマが原因で、現在の不安が生じている場合、心理的原因による心理的症状のケースとして考えることができる。この場合、心理的原因は過去に遡行して求められており、過去と現在の因果関係が想定されている。これがいわゆる過去決定論である。


  過去決定論においては、客観的世界における因果関係ではなく、主観的世界における因果関係が前提となっている。言うまでもなく、この考え方を広めたのはフロイトである。彼は神経症の原因をすべて幼児期の経験に還元する。このようなトラウマの理論は、現在でも強い影響力をもった考え方なのだ。  以上のように、心の病は基本的に因果論によって説明されてきた。それは私たちにとって自然な考え方である。この考え方が心理的治療において有効であることは、今日の薬物療法の発展をみれば一目瞭然と言っていいだろう。  しかしそれでも精神科医やカウンセラーは、因果論的な世界像は絶対的なものではなく、一つの仮説なのだということを認識しておくべきだと思う。なぜなら、因果論的考え方では患者の自由な意志が考慮されないからだ。もし世界のすべてが因果関係で説明されるなら、それはすべてが決定された世界として、自分の意志では変えることができないことになる。客観的な因果関係の世界においては、人間の意志も決定されたものだと考えられるからだ。  実際には、私たちはさまざまな苦悩を抱えていても、その意味を自分なりに了解し、自分の自由な意志によって生きようとしている。自分の苦悩の意味をどう受け止めるかで、自分の進むべき方向性も見えてくる。自由な意識をもって生きるためには、その都度、自分なりの苦悩の意味を了解し、新たな可能性を見つめることが必要なのだ。  それは心の病に苦しんでいる人でも同じことが言える。患者が自ら心の病の意味を了解し、自分がどうしたいのかを見つめなければ、自分の自由な意志によって、納得できる方向へと歩み出すことはできないだろう。だからこそ、患者にとっての苦しみの意味を考え、心が病むとはどういうことなのか、その意味を問い直さなくてはならないのである。  この問いの答は、原因を治療者の視点で症状と結びつけ、そこに因果関係を見いだすことでは得られない。心の病における苦悩が患者自身にとってどのような意味をもつのか、そこを考えなければならないのだ。そして、患者にとっての主観的な意味連関の世界は、客観的な因果関係の世界ではないため、自然科学的な考え方で考えることはできない。  そこで必要になるのが、現象学の視点である。現象学では、主観的な世界における意味を解明する。それも多くの人が共通に了解できるような一般性のある意味、つまり本質を考えるのである。  これまでに現象学的な視点による心の病理論がなかったわけではない。フッサールやハイデガーの影響を受けた現象学的精神病理学は、すでに半世紀以上も前から存在し、患者の主観的な意味の世界を重視してきた。しかし、従来の現象学的精神病理学では、患者の内面における個別的な意味の理解にとどまっており、あくまで患者の内面を重視することに主眼がある。  しかし、患者の個別的な意味の理解にとどまらず、そこから誰もが共通に了解しうる一般的な意味を取り出すこと、つまり心の病の本質を取り出すことも現象学では可能であるはずだ。本質を取り出す作業、すなわち本質観取こそ現象学の真骨頂ではなかったか。  フッサールは『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』において、因果論的な事実だけを記述する実証科学を批判し、こうした事実学が人間の意味や価値の問題を除外していると述べている。彼はすべてを事実学で考えることに異議を唱え、本質を考える学として現象学を構想したのである。だが、従来の現象学的精神病理学では本質観取が活かされておらず、心の病の一般的な本質を取り出すにはいたっていない。だとすれば、現象学的に心の病を考える作業は、まだまだその発展途上にあると言えないだろうか。  心が病むとはどういうことなのか、そうした本質を問い直す作業は、まだ私たちの目の前に横たわっているのである。