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10. エディプス・コンプレックスの本質

私たちにとって社会性が形成されるということは、他者との関係を意識した言動を行うようになることだ。それも目の前の他者だけでなく、見知らぬ大勢の他者をも意識し、それを考慮した言動を身につけることを含んでいる。相手の言動に腹が立っても殴ることをがまんするのは、暴力が大勢の他者から悪い行為だと見なされているからだ。つまり、自己中心的な視点ではなく、一般的な他者の視点で善悪の規準を考えることが、社会的な行動を可能にするのである。
 こうした一般的な他者の立場に立った視点、「みんなはこう見るだろう」「誰もがそう考えるだろう」というような、普遍性を求める意識を含んだ視点のことを、私は「第三者の視点」と呼んでいる。それは、目の前にいる特定の他者の視点ではなく、私の内面に想定された不特定な他者の視点である。そして、第三者の視点を考える上で重要な示唆を与えてくれるのが、フロイトのエディプス・コンプレックスという理論であり、それは第三者の視点を獲得するための契機が、父- 母- 子という三者関係の葛藤にあることを示している。
 エディプス・コンプレックス理論によれば、まず男の子は母親を愛し、独占したいと感じているため、父親という存在を邪魔だと感じ、無意識のうちに憎むようになる。だが、父親に逆らえば去勢されるかもしれないという不安から、子どもは母親への性愛願望を断念する。つまり、母親への独占的な愛は父親によって禁止され、これをきっかけにして、子どもは父親の命令を取り入れるようになり、父親の命令(ルール)は超自我として内面化されるのだ。
 このようなエディプス・コンプレックスと去勢不安の話を聞いて、「なるほど」と納得する人はいないだろう。幼児がこうした心の世界を生きているとは到底思えないし、そもそも子どもが父親の命令(ルール)を取り入れるのは、去勢不安のためというより、父親への愛情と尊敬から従うようになると考えたほうがよい。ただ、父親が尊敬すべき存在でなくとも、多くの場合、それなりに社会性や自己ルールは形成される。だとすれば、父親の人間性とは別に、父親というポジションそのものに、自己ルールが形成される理由があるのではないだろうか。
 ここにエディプス・コンプレックスの本質がある。それは、子どもの内面的な規範(自己ルール)が社会性をもつためには、単に母親の禁止(ルール)を取り入れるだけではなく、母親との一次的ルールを第三者的に見据える視点が必要だということ、そして一般的には、まさしく父親がそれを与える位置にいるということだ。
 第三者の視点から自分と母親の関係を見直し、自分の行為が客観的にはどう見えるのかを意識させるような存在、それが父親である。父親は他者一般を代表するような第三者の位置にいるのであり、母親との二者関係の限界を超えて、社会的な意識をめばえさせる。このように考えれば、父親の存在が子どもの自己ルールの形成にとって重要な意義をもつことがわかるし、フロイトがエディプス・コンプレックス理論のうちに直観していた親子関係の意味も理解できる。
 私たちの日常を考えてみても、あるルールが強く働くのは必ず三者以上の関係であることは明らかだ。二人だけの関係においては、ルールは客観的な意味が弱く、相対化されやすい。とくに親子関係、恋愛関係のように親和性やエロスの強く生じる関係、すなわち二者の対面関係では、ルールは絶えず目まぐるしく変更され、確かな基準点が定まっていない。二者の対面関係においては、二人の間にあるルールを客観的に見据える第三者の視点が存在しないのである。
 二者関係におけるコミュニケーションに第三者が介入すれば、その時点で事情は変わり、人間関係は誰もが納得するようなやり取り(社会ゲーム)へと、その性格を変えることになる。第三者の視点にさらされることで、二人の関係が他人からはどう見えるのかが気になってくるからだ。三者関係は関係に対する関係(メタレベルの関係)、関係そのものへの客観的な視点(第三者の視点)を可能にし、社会的ルールを効力あるものとして成立させているのである。


 このように、第三者の視点は社会的なルールにとって決定的に重要であり、母子関係に介入する父親は、第三者の視点を意識させる最初の存在となる。父親の存在は、子どもが社会性のある自己ルールを形成するために、重要な役割を果たすのだ。では、父親のいない家庭においては、社会性のある自己ルールは形成されないのだろうか?  すでに述べたように、エディプス・コンプレックスの重要性は、父親の人間性よりも、父親というポジションそのものにある。言い換えれば、重要なのは現実の父親ではなく、母親の語る父親だということ、母親が父親という象徴が指し示す場所を重視しているということ、まさにその点にあるのだ。  このことをフロイト以上に明確に示したのはラカンであり、彼は次のように述べている。

「研究されるべきと思われるのは、たんに母親が父親の人物に満足している仕方ではなく、母親が彼の言うこと、いや語そのものといおう、彼の権威、言いかえるなら彼女が掟の進級の過程で〈父親-の-名〉のために取っておいた場所を重んじている、そのことなのである」(ラカン「精神病のあらゆる可能な治療に対する前提的問題について」『エクリ〓』)。

 重要なのは、母親が父親を愛と尊敬をもって語ることではなく、幼児が母親の語る言葉のむこう側に、父親が代弁している社会のルール、秩序があるのだと感じ、理解することにある。この父親が代弁している他者たち、それをラカンは「大文字の他者」と呼んでいる。この概念はなかなか難解だが、たとえば母親が子どもをしかる際に、「そんなことをしていたら、お父さんに怒られるよ」とか、「みんなに笑われちゃうよ」、などと言っている場面を思い浮かべてみてほしい。そこで起きていることは、母親の言葉のむこう側に、母親が準拠している社会のルールがあり、それを象徴する代表的な存在こそ父親である、ということだ。
 それは必ずしも実在の父親である必要はない。どこかにいる父親、あるいは父親に近い存在であってもいい。誰であれ、母親が重視している存在でさえあれば、子どもは母親のむこう側に社会秩序を感じることができるようになる。つまり、父親のいない母子家庭においても、母親が「みんな」という世間を意識させるように子どもに接することができれば、第三者の視点を得る上でほとんど支障はない。
 そもそも現代の日本の家族を考えてみても、父親が家にいようがいまいが、第三者の視点を形成する上で特別に大きな影響力があるわけではない。むしろ、保育所や幼稚園など、家族以外の人たちの視点、「みんな」の視点を内在化できたときにこそ、第三者の視点が強くなる可能性は高いだろう。たとえば母親が「みんなに笑われちゃうよ」と言った場合、それは具体的な誰かを意味するのではなく、社会や世間を指している。このとき、子どもは母親が準拠している社会規範の存在、その社会規範に「みんな」が準じていること、それを次第に理解していくのである。
 子どもは成長すればするほど、母親が勝手なルールを自分に与えているのではなく、もっと大きなルールに従っている、父親の意向や「みんな」言動を尊重して行動している、と感じるようになるだろう。それによって、子どもは「みんな」の視点、母親以外の第三者の視点を意識できるようになり、他の人々の目に自分はどう映っているのか、みんなから見たら自分のふるまいはおかしくないか、といったことが意識されるようになってくる。
 こうして、「みんな」から見ても正しいと思えるふるまいや行動を身につけ、そうした社会的なルールが自分の行動規範となる。このように社会性が形成されることこそ、エディプス・コンプレックスの本質なのである。