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03. メルロ=ポンティ『知覚の現象学』を読む(前半のみ)

知覚の現象学

知覚の現象学 1 (1)

知覚の現象学 2 (2)

以下の内容は、『知覚の現象学』の前半のみをレジュメにしたものであるが、少し内容が煩雑であるため、レジュメの後に解説をつけておいた。フッサールの現象学に大きな影響を受けたメルロ=ポンティの哲学は、優れた身体の現象学として極めて高い水準に達している。『知覚の現象学』における身体の分析は、まさにこの本の白眉であろう。しかし、メルロ=ポンティの哲学的立場を最も明確に示している「序文」「緒論」を読む限り、彼の現象学理解にはいくつかの疑問が残る。それは、超越論的還元や反省哲学よりも「生きられた世界」の報告を重視する彼の姿勢に、端的に現れていると思う。それでも彼の身体論が現象学的思考の優れた成果であることは否定できない。


序文

現象学とは本質の研究であると同時に、本質を存在へと連れ戻す哲学でもある。つまり、一方では人間と世界を了解するために自然的態度の諸定立を中止する厳密学(超越論的哲学)だが、他方では、反省以前の「生きられた」空間や時間や世界について報告する学なのだ。前者は判断や意志的な態度決定の指向性(作用指向性)が関わっており、カントが『純粋理性批判』で述べたような主観である。後者は、この明白な認識作用によって世界の統一性が措定される以前に、すでに生きられている世界があり、この生活の自然な統一を作っている指向性(作動指向性)が関わっている。この後者の受動的な指向性は、現象学的「了解」が古典的「知解」と違うことを示している。フッサールは発生的現象学によって、このことを明らかにしたのである。

メルロ=ポンティが主張しているのは、カント以来の観念論哲学を批判し、生きられた世界に基づく実存論的哲学の可能性である。観念論のような反省的分析は意識による世界構築を主張しているが、反省も結局は非反省的生活(世界経験)に依存している。世界は一切の分析に先立ってすでにそこにあるのだ。現象学的還元において重要なのは、超越論的意識への還帰などではなく、認識以前の事物そのものへの還帰なのである。反省は生活世界における確信を放棄することではなく、むしろこの確信があらゆる思惟の自明な前提になっているのを見ることになるだろう。現象学的還元は生活世界のためにこそ必要なのであり、ハイデガーがそうしたように、実存論的分析の土台としてのみ意義があるのだ。

緒論

メルロ=ポンティが緒論において主に批判しているのは、知覚を分析する実験心理学を規定している経験論と、その対極にある観念論的な主知主義である。通常、知覚というものを考えようとするなら、【知覚する「主体」→ 知覚される「対象」】という主観客観の図式が前提とされている。この場合、「対象」に知覚の原因を求めるのが経験論であり、主知主義では「主体」が意識を構成し、知覚を可能にするのだと考える。メルロ=ポンティは経験論と主知主義という、当時最も影響力のあった二大思潮を批判し、現象学こそ知覚を考える上で唯一の根源的な考え方であることを主張するのである。

例えばリンゴを見て「赤い」と感じる場合、経験論では「赤い」性質はリンゴという対象(客体)に備わっており、それと類似したものに関する記憶が呼び起こされ、その連合によって「赤い」という知覚が生じると考える。これはロックの連合説以来、根強く自然科学に残っている考え方だ。しかし、この素朴な要素還元主義的考え方は、ゲシュタルト心理学によって批判することができる。一方、主知主義は経験論に対し、知覚において主体の知性が大きく働くことを重視している。主体が注意を向けなければ、そしてそれを知っていなければ、知覚が生じることなどない、というのである。だが、主知主義がいかに主体の意識構成を重視していても、客観的な世界を想定していることに変わりはない。そこで必要になるのが現象学である。

現象学的還元によって、客観的世界を前提にした考え方は保留にされ、超越論的主観において知覚を考えることが可能となる。しかし、ここでメルロ=ポンティが考えている「現象野」とは、フッサール現象学における超越論的自我のように、能動的に意識を構成するものではない。確かに客観的な空間や時間とは異なる、主体に固有な領域であるという点では同じなのだが、それは身体によって世界に開かれた場として考えられた、すでに生きられた世界なのである。その意味で、メルロ=ポンティが後期フッサールの生活世界という考え方を高く評価し、前期のフッサールに批判的なスタンスを取っているのだと考えることもできる。(すでに述べたように、こうした考え方は序文にも見受けられる。)

第1部 身体

私の眼差しは常に対象の一面しか見ることはないのだが、知覚の展望には現前していない多くの空間的地平、時間的地平が含まれている。客観的存在に取り憑かれて自分の経験の展望性を忘れてしまうと、もともとは世界に対する視点であるはずの自分の身体を、客観的世界に属する対象の一つのように見てしまう。しかし、客観的身体の生成は客観の構成の一契機でしかなく、身体は客観的世界から身を退くときに、知覚する主観と知覚される世界を示すのである。

〓.対象としての身体、および機械論的生理学

メルロ=ポンティは身体を考える上で、まず幻影肢と疾病失認の例を、「生理的なもの」と「心的なもの」の2つに分けて考えてみようとする。「生理学的説明」によれば、幻影肢はある表象の実際的現前であり、疾病失認はある表象の実際的不在であるが、「心理学的説明」では、幻影肢はある実際的現前の表象であり、疾病失認はある現実的不在の表象である。しかし、どちらの説明も幻影肢と疾病失認という問題の本質を歪めており、これは世界内存在という展望においてしか了解できない。手足の切断や欠損を認ることができないのは、慣れ親しんだ地平へと投げ入れている自然な運動に対立しているからなのだ。

〓.身体の経験と古典的心理学

対象が対象であるのは、対象が私から遠ざかり、現前し得なくなることもあり得るからである。しかし、自己の身体は私から離れることのない対象だ。また、右手で左手に触れる場合、触れられている左手は対象と言えるが、右手は対象というより主体的なものであろう。「触れるもの」であり「触れられるもの」でもあるという「二重感覚」は、身体が諸々の対象とは区別されるべきであることを示している。古典的心理学は非人称的な場所に身を置いているため、この区別ができていないのである。

〓.自己の身体の空間性、および運動性

身体は客観的空間の一断片ではなく、むしろ客観的空間を可能にするような独特な身体の空間を作り上げている。この身体空間は客観的空間のような位置の空間性ではなく、状況の空間性であり、運動の中において作られているのだ。したがって、病的な運動性を有する精神盲の例(シュナイダーの症例)を分析することで、身体空間がどのようなものであるのかを明らかにすることができるだろう。

シュナイダーは、命令に基づいて腕や足を動かすことができないし、自分の身体の位置さえ指し示すこともできないのだが、蚊に刺された箇所へ素早く手を持ってゆくことはできる。つまり、身体空間に基づいた習慣的な具体的運動はできるのだが、客観的空間を意識するような抽象的運動は準備運動をしてからでなければできないのだ。このことは、客観的身体を動かすこと(抽象的運動)より、現象的身体を動かすこと(具体的運動)のほうが根源的であり、身体空間こそ客観的空間を可能にしていることを示している。

抽象的運動と指示作用は視覚的表象力に依存しているが、具体的運動と模倣運動(視覚的認識の欠損を補う準備運動)は、運動感覚的ないし触覚的感官に依存している。正常者では視覚的所与と触覚的所与が共存しているが、シュナイダーの場合は視覚的所与が弱いために、触覚的所与に大きく依存せざるを得ないのである。ただし、視覚的表象と触覚的所与、運動性の3つは、単一の行動における不可分の契機であり、帰納法や因果的思考によって捉えることはできない。

メルロ=ポンティは、超越論的主体が全てを綜合するという批判主義の哲学を批判し、主体の働きによる概念化以前に、すでに生きられている世界があることを強調している。たとえば正常者にとって、眼と耳のアナロジーは、概念的に分析される前に一気に了解できるものだが、シュナイダーは概念的に分析しなければ了解できない。正常者なら、概念や判断はその都度考え直して顕在化しなくても、「沈殿」によって世界を平準化し、全体的に与えられるようになるものだ。世界は沈殿と自発性という二重の契機によって成り立っている。シュナイダーに欠けているのは、まさにこの世界の平準化(身体化)であり、知性そのものではなく、知性の実存的土台が冒されているのである。

つまり、意識の生活には一つの「指向弓」が張り渡されており、この指向弓が感官と知性、感受性と運動を統一し、過去や未来、様々な環境や状況を作っているのだが、これがシュナイダーの場合には弛緩している。彼には構築された過去の思惟世界という支えがないため、未来と過去は現在の「しなびた」延長でしかなく、同時に現出する多様性を鳥瞰する能力が冒されているのだ。

意識とは、原初的には「われ惟う」ではなくて「われ能う」である。このことはフッサールもしばしば言及している。運動とは運動についての思惟ではないし、身体空間は思惟された(表象された)空間ではない。運動は「行動的=認識」とも言うべきものであり、表象を経過することのない原初的なものである。習慣の獲得は運動による身体図式の組み替えであり、知的綜合によらない意味の把握なのだ。身体が新しい意味を同化したとき、身体が了解した、習慣が獲得された、と言われるのである。

運動性の研究によって明らかになったのは、「意味」という語の新しい意味である。確かに主知主義心理学や観念論哲学は、知覚や思惟が内具的意味をもっており、寄せ集められた連合によっては説明できないことを証明した。しかし、一切の意味作用が思惟の一行為、純粋な「われ」の操作だとすれば、われわれの経験のなかにある無意味なもの、内容の偶然性といったものを説明できなくなってしまう。身体の経験がわれわれに認識させるのは、普遍的な構成的意識によって強制される意味ではなく、内容自体に内属している一つの意味といったものなのである。

〓.性的存在としての身体

存在の発生を明らかにするためには感情的環境を考察しなければならない。特に欲情は身体と身体を結び合わせることによって盲目的に了解しようとするものであり、悟性のような理念による了解とは違うのだ。色情的知覚は身体を通じて他人の身体を指向するのであり、意識の中ではなく、世界の中でおのれを形成するのである。

精神分析は、性の中に意識的な諸関係や諸態度だったものが含まれていることを発見し、純粋に身体的だと思われていた機能の中に、一つの弁証法的運動を見いだし、性を人間存在のうちに再統合することを可能にした。ある人間の性の歴史が彼の生活を解く鍵を与えるとすれば、それは性の中には彼の存在仕方が投影されているからなのである。

例えば、ヒステリー症患者は演技をしているわけではなく、むしろ自分自身を偽っているのだと考えられる。また、失声症の人は、言葉という他者と語り合うものを失うことで、共存を拒否しており、不食症者は単に生きることを拒否している。そして、こうした人たちに精神療法が効果を有するとすれば、患者が医師と人格的な関係を結んだ場合だけである。知的な努力や意志の力ではなく、身体が他者や過去に開くときこそ、症状は快復の兆しを見せるのだ。治療効果があるのは単なる原因の認識ではなく、意識下で起こる作用なのである。

身体とは実存が凝固化または一般化されたものに過ぎず、一方、実存のほうも一つの不断の受肉に他ならない。実存を身体または性に還元することができないように、性を実存に還元することもできない。性と実存は相互浸透があり、実存が性の中に拡散すると同時に性も実存の中に拡散しているため、ある決意なり、行動なりに対して、性的動機づけと他の動機づけ分けることは不可能なのだ。


『知覚の現象学』解説

メルロ=ポンティによれば、現象学は人間と世界を了解するための超越論的哲学であるとともに、他方では反省以前の「生きられた」世界について報告する学であるという。前者は自我の判断や意志、志向性が関わっており、後者はこの認識作用によって世界の統一性が措定される以前に、すでに生きられている世界である。この生きられている世界こそ、メルロ=ポンティが反省された世界(分析された世界)よりも重視したものなのだ。

観念論のような反省的分析は、意識によて世界が構成されることを主張しているが、反省も結局は非反省的生活(世界経験)に依存しており、世界は一切の分析に先立ってすでにそこにある。そしてメルロ=ポンティは、現象学的還元において重要なのも、超越論的意識への還元ではなく、認識以前の事物そのものへの還帰なのだと主張する。反省は生活世界における確信を放棄することではなく、生活世界の実存論的分析のためにこそ必要とされる作業なのだ。

メルロ=ポンティが批判しているのは、実験心理学を規定している経験論と、その対極にある主知主義的な観念論である。通常、知覚というものを考えようとするなら、知覚する「主体」→ 知覚される「対象」、という主観客観の図式が前提とされている。この場合、「対象」に知覚の原因を求めるのが経験論であり、観念論では「主体」が意識を構成し、知覚を可能にするのだと考える。

例えばリンゴを見て「赤い」と感じる場合、経験論では「赤い」性質はリンゴという対象に備わっており、それと類似したものに関する記憶が呼び起こされ、その連合によって「赤い」という知覚が生じると考える。これはロックの連合説以来、根強く自然科学に残っている考え方だ。一方、観念論は知覚において主体の知性が大きく働くことを重視している。主体が注意を向けなければ、そしてそれを知っていなければ、知覚が生じることなどない、というのである。だが、主知主義的な観念論がいかに主体の意識構成を重視していても、客観的な世界を想定していることに変わりはない。そこで必要になるのが現象学である。

現象学的還元によって、客観的世界を前提にした考え方は保留にされ、超越論的主観において知覚を考えることが可能となる。しかし、ここでメルロ=ポンティが考えている現象学の領野(現象野)は、自我の能動的な志向性によって構成された意識ではない。確かに客観的な空間や時間とは異なる、主体に固有な領域であるという点では同じなのだが、それは身体によって世界に開かれた場として考えられた、すでに生きられた世界だというのが彼の主張なのだ。そこで次に、メルロ=ポンティは身体の分析に着手する。

メルロ=ポンティは身体を考える上で、まず幻影肢について分析している。幻影肢がある場合、事故などで手足が切断されても、何故か切断されて無いはずの手足に痛みやかゆみを感じることになる。この場合、手足の切断や欠損を認めることができないのは、慣れ親しんだ自然な身体の感覚、運動が、客観的空間の認識とは独立して働いているからだと考えられる。身体は客観的空間の一断片ではなく、むしろ客観的空間を可能にするような独特な身体の空間を作り上げているのだ。この身体空間は客観的空間のような位置の空間性ではなく、状況の空間性であり、運動の中において作られている。

このことをさらに詳しく分析するために、メルロ=ポンティは病的な運動性を有する精神盲の患者、シュナイダーの例を挙げている。シュナイダーは命令に基づいて腕や足を動かすことができないし、自分の身体の位置さえ指し示すこともできないのだが、蚊に刺された箇所へ素早く手を持ってゆくことはできる。つまり、身体空間に基づいた習慣的な具体的運動はできるのだが、客観的空間を意識するような抽象的運動は準備運動をしてからでなければできないのだ。

抽象的運動は視覚的表象力(見る力、思い浮かべる力)に依存しているが、具体的運動は運動感覚に依存している。シュナイダーの場合は視覚的表象力が弱いために、運動感覚や触覚に大きく依存せざるを得ないのである。普通、視覚的表象力による判断は、経験の繰り返しによって身体に「沈殿」し、その都度思い浮かべて考えなくとも、身体は自動的に動くようになる。しかし、シュナイダーは視覚的表象力が弱いため、「沈殿」が生じて新しく身体空間が形成されることはない。そのため、準備運動で身体の運動感覚を慣らさなければ運動できない状態なのである。

シュナイダーに欠けているのは沈殿(身体化)であり、知性そのものではなく、知性の実存的土台が冒されているのである。このことは、意識的に身体を動かすこと、意識化以前(無意識)に身体を動かすことのほうが根源的であり、身体空間こそ客観的空間を可能にしていることを示している。身体空間は表象された空間ではなく、表象を経過することのない原初的なものである。習慣の獲得は運動による身体図式の組み替えであり、知的綜合によらない意味の把握なのだ。そして身体が新しい意味を同化したとき、身体が了解した、習慣が獲得された、と言われるのである。

このように、メルロ=ポンティは自我が全てを綜合し、構成するという観念論を批判し、自我の働きによる概念化以前に、すでに生きられている世界があることを強調している。その一方で、彼は経験論を批判しているため、これは意識の外部を認め、客観的な自然が私という精神(自我)以前に存在していた、などという素朴な実在論に戻っているわけではない。自我が全てを構成し、理性によって理解し尽くそうとしても、どうしても知に回収しきれないものが残される。それが身体の感覚的経験であり、メルロ=ポンティのいう「生きられた世界」なのである。