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02. ハイデガー『存在と時間』を読む

存在と時間〈上〉

ハイデガーの『存在と時間』は、20世紀最高の哲学書と言われている。確かにその内容は他の追随を許さないほど卓越した思考に満ちており、私もこの本に絶大な影響を受けてきた一人である。しかし、ハイデガーという哲学者自身に対しては、手放しで拍手を送るというわけにはいかない、様々な理由がある。有名なナチス加担問題だけでなく、『存在と時間』以後(いわゆる転回以後)の後期思想には、実存論からは逸脱した納得しがたい考え方が見られるからだ。現在、ハイデガーに対する評価は、後期思想を重視するポストモダン系の肯定派と、ナチ加担問題によって毛嫌いする否定派に二分され、前期の思想である『存在と時間』の意義が見失われがちになっているように思える。しかし、『存在と時間』の到達した実存論的な考え方、人間のあり方に関する分析が優れていることは否定できないし、これからの時代においてますます重要になってくることは間違いない。以下の内容は、『存在と時間』を本の構成に沿って解説を試みたものである。


『存在と時間』〓(現存在の予備的な基礎的分析)

現存在と世界-内-存在

ハイデガーがまず問題の中心に据えたのは、「存在とは何か」ということであった。これまでの哲学は存在している対象を認識しようとしてきたわけだが、ハイデガーは存在それ自体の意味を問うのである。この存在論的な問いを解くには、あらゆる存在を規定する私たち自身、つまり人間の存在(ありかた)を現象学的に分析する必要があるのだ。では、眼の前に広がる「いま、ここ」の場において、人はどのように存在しているのだろうか。

『存在と時間』の「第一篇 現存在の予備的な基礎的分析」に書かれているのは、この世界において私たちがどのように存在しているのかという、その存在の仕方(あり方)である。といっても、客観的世界が存在して、その中で人間がどのように存在しているか、という視点で考えてはならない。現象学的に考える限り、客観的世界の実在性を前提にするのではなく、眼の前の「いま、ここ」において現れている世界を問題にしなければならないのだ。

それは私自身の主観的な世界であり、その意味で私のような存在(人間)を「現(=いま、ここ)」としての存在、「現-存在」と呼ぶことができる。また、現存在は「世界の内に存在している」というあり方をしているので、このあり方を「世界-内-存在」と言い換えることもできるのだ。そして『存在と時間』の前半では、世界-内-存在を「世界の世界性」「共存在」「内存在」に分けて分析を進め、私たちの存在本質を明らかにしようとしているのである。

世界の世界性

ハイデガーはまず「世界」の存在者が「いま、ここ」においてどのように現れているのかを分析し、その特質が「〓のための」という手段性、指示性だと考える。例えば、いま目の前に「コップ」があり、そこに水が入っているとしよう。もし私の喉が渇いていたとしたら、それは水を飲む「ための」ものであり、頭に来る人間がいたなら、水をかける「ための」道具となる。つまり、世界の存在者は現存在の「気遣い」(関心)に応じて「〓のための」という道具性を現すのであり、その意味で「道具的存在者」と呼ぶことができるのだ。

この場合、私が客観的な事物に「コップ」「水を飲むためのもの」という意味を与えたのだと考えてはならない。現象学的に考えれば、それは最初から「コップ」「水を飲むためのもの」として現れるのであり、そうした意味づけ以前に客観的事物があったと考えるのは、事後的な反省によってこそ可能になるのだ。むしろ道具的存在者のほうが、特定の見方(自然主義的態度)によって事物化されるのである。

こうした「〓のための」という道具的存在性は、普段、表だって意識されることはなく、壊れて使えない時や、必要なのに見あたらない場合だけ意識されるものだ。水を飲みたいのにコップが無い場合であれば、コップが水を飲むために必要な道具として意識されるし、家を修理したいのにハンマーが壊れていれば、ハンマーは釘を打つための道具として強く意識されることになるだろう。コップがあれば、あるいはハンマーが壊れてなければ、ほとんど何も考えずにコップで水を飲むだろうし、ハンマーを手にとって釘を打つはずだ。その時、道具的存在者の「〓ための」という道具性は、ほとんど自覚されないのである。

また、道具的存在者は他の物事を指示し、それはまた別の物事を指示しているのであり、それらはある連関をなして繋がっている。この指示の連関も普段は意識されることはなく、特に妨げられることによってのみ意識されることになる。では、そうした指示連関は一体どのように繋がっているのだろうか。

例えば、ハンマーは釘を打つという適切な用途のもとで使用されてこそ、適切な道具(適所を得た適具)と言えるのであり、ハンマーは釘を打つことで適所性が得られ、釘を打って家を固定することで適所性が得られ、(暴風雨等に対して)防備が整うことで適所性が得られる。そしてこのことは、結局は現存在がそこに住むという目的に繋がっている。「ハンマー → 打つこと → 固定すること → 防備すること → 現存在が住むこと」というように、適所性の全体に基づく指示連関の下図が描かれているわけだ。

この適所全体性は個々の道具に先立って存在しており、この適所全体の連関を辿っていくと、「〓のための」という最終的な目的に行き着くことになる。この場合、ハンマーは「現存在が住むため」という目的に繋がっているので、「〓のための」の最終的な目的とは現存在の可能性そのものであることがわかる。もっと言えば、あらゆる道具的存在者は、「現存在のために」という可能性を表しているのだ。そして、道具全体性を含む最も広い全体こそ「世界」であり、それは指示連関の最終目的として、現存在に存在の可能性を与えている。世界の世界性とは、現存在が「〓するための」有意義性なのである。

共存在と世人

ところで、他者への気遣いは道具的存在者への気遣い(配慮的気遣い)とは大きく異なる面がある。それは、他者の代わりに何かをしてあげたり、他者に手本を示すような気遣いである(顧慮的な気遣い)。ここで現存在は、他者(共現存在)と共にある社会的な存在(相互共存在)であるという意味で、「共存在」と呼ばれることになる。

事物は人間によって対象化されるのだが、他者は対象化されるだけでなく、こちらを対象化するような存在である。他者の視線は私を気にさせたり、恥ずかしがらせたり、怯えさせたりすることもあるだろう。そのため、私たちは他者との違いを気にし、優越感や劣等感を抱いたり(懸隔性)、社会の世間的な価値観を無自覚に受け入れたり(平均性)、あるいは変わった人を排除してみんなと同じであろうと思いがちになる(均等化)。そして、このような世間(他者)の評価に身を委ねるあり方は、自分自身で判断する責任から免れ、本来の自分固有の在り方を隠蔽することになるのだ。ハイデガーはこの状態を「頽落」と呼び、他者への非本来的気遣いによるあり方(世人のあり方)だと述べている。

内存在 〓 情状性・了解・語り 〓

次に、現存在が世界の内を生きる存在仕方の本質(内存在)について、「現」の本質契機である「情状性」「了解」「語り」の順に検討してみよう。

まず「情状性」だが、これは人間の存在仕方の最も基礎にある「気分」のことだ。気分は人間が被投性として存在することを開示しており、周りの世界の何であるか、自分がどんな状態かを告げ知らせている。例えばイライラした気分になっていれば、それは周りが気に入らない状況であることや、苛立っている自分がいることに気づくだろう。そして、そのイライラした気分は、イライラしようと思ってなったわけではなく、気がついたらすでにそうなっているのだ。つまり、気分は人間の意志や自由を超えて、自分がすでにある状況に投げ出されていること(被投性)を示している。気分は判断や行為に先だってそれを規定し、人間の実存の根拠となっているのである。

ところで、気分を感じ取るだけでなく、それを(等根源的に)受け取ることを「了解」という。気分には必ずある了解がともなっているが、了解は意識的な認識や理解ではなく、それらの根底にある気分を受け取ることで、新たな可能性を指し示すものだ。その意味では、情状性が被投性を示しているとすれば、了解は企投(可能性をめがけること)を示していると言える。

例えば、休日に旅行に行くことが決まって嬉しくなる場合、そこには嬉しい気分(情状性)があると同時に、無自覚のうちに楽しい休日という可能性をめがけていることになる(了解)。そして、これを「楽しい休日の可能性」として了解すれば、それは「解釈」となる。解釈とは、了解において企投された諸可能性を仕上げることなのだ。暴漢に襲われそうな人がいて、追い払うために周りを見回しながら棒きれを探しているとしよう。この場合、無意識のうちに周りを見ている時点では了解(予視)だが、棒きれが暴漢を追い払うもの「として」意識されれば、それはもう解釈である。

解釈を規定し、提示し、伝達すれば、それは「陳述」と呼ばれることになる。例えば、(水を飲みたいなあ)という了解を言葉にすれば、「水(主語)を 飲みたい(述語)」というように、主語は述語によって規定されることになる。そのため、「水」は「飲むためのもの」として一般化、事物化されるのであり、陳述において、道具的存在者は客観的事物として一般化されるのである。

情状性を受け止めるのが了解で、了解には解釈と陳述が含まれている。そして、これをさらにはっきりと他者に向けて話すことが「語り」である。語りは、ある感じや了解があって、それが言葉で表現されるということだけを意味するのではない。それは、聞くこと・沈黙することも含んでおり、私たちが他者とともにあるような存在(共存在)であることを示しているのだ。また、了解の可能性自体がすでに言葉によって分節されており、気分や了解も言語によって秩序づけられている。その意味では、語りも情状性や了解と等根源的だと言えるのである。

以上が「情状性」「了解」「語り」という現の構成契機の概略だが、これを一つの例でまとめてみよう。まず、重いハンマーを使っていて、その重さにちょっとイライラした気分(情状性)になっているとする。(何だか使いにくいなあ)というぼんやりした了解から、もう少し軽いほうがいいような気がしてくるとすれば、そこに解釈がある。重すぎるハンマー「として」了解されたからだ。そして「このハンマーは重すぎる」と言ってみる(陳述)なら、それはハンマーを「重すぎるハンマー」として規定し、誰もが「重すぎるハンマー」と見なすかのように、一般的な事物として他者に指し示すことになる。そうした解釈を他者に語ることによって、その了解の規定を他者と共有するのである(語り)。

現存在の存在としての気遣い

このように、現存在は「情状性・了解・語り」によって、周りの世界の何であるかを開示し、自分の新たな可能性をめがけつつ存在するのであり、この人間存在のあり方、現の本質契機の全体を「気遣い」(関心)というのだ。内存在(人間存在の形式的本質契機)=「情状性 - 了解 - 語り」という図式が成り立つとすれば、気遣い(人間の生活内実における本質契機)=「被投性 - 企投 - 頽落」を重ねることができるだろう。そしてさらに、「被投性 - 企投」には「現事実性 - 実存性」を重ねることができる。つまり、私たちが常にすでにある状況に置かれている(被投性)ことが現事実性であり、何らかの可能性をめがけている(企投)ことが実存性なのだ。このように、私たちは自分が「どんな存在であったか」から、「どういった存在であり得るか」をめがけつつ生きているのであり、ここに人間が時間的存在であるという事実が明らかとなる。

一方、ハイデガーによれば、現の本質契機(情状性・了解・語り)は、日常では本来性から落ち込んだ状態(非本来性)に頽落しているという。この頽落の3つの指標となるのが「空談」「好奇心」「曖昧性」である。空談とは語りの頽落形態であり、お喋り・井戸端会議などがそれに当たる。人間は他者と語りあうことで、実存の本来的な存在に近づく可能性があるのだが、実際はこの可能性を無駄にし、くだらないお喋りばかりしているというわけだ。また、好奇心は了解における「視」の頽落形態と言えるだろう。了解が新たな可能性をめがけるように、視も何ができるかを見回している。これも認識・判断・推論の基礎となり、実存の本来性へと近づく可能性があるのだが、実際は「何となく面白いもの」に関心を寄せているだけなのだ。最後に曖昧性だが、これは了解自体の頽落形態であり、社会問題など、一見大事なことを了解し合っているようでいて、実は他人事としか考えていないことが多く、自分の新しい可能性への企投は隠蔽されているというのである。

ではどうすれば頽落から脱し、本来的な生に立ち戻ることができるのか。ハイデガーはその答えを「死の不安」に見出そうとする。情状性の中で最も根本的な気分は「死の不安」であり、人間は死の不安に直面した時、自分が孤独であり、同時に自由でもあることを知るというのだ。この時、世俗的気遣いから切り離され、何を成すべきかが自分自身に委ねられることになる。つまり、本来的な生き方を選ぶ可能性が開かれるというのである。

しかし、こうしたハイデガーの本来性/非本来性という区分は、理論的にも到底納得できるものではない。ハイデガーは最初から生の本来性を想定し、その派生形態として頽落を考えているのだが、これは真実の生、本当の生き方があると言っているようなものなのだ。そして言うまでもなく、客観的に正しい生などというものはない。自分にとって「これこそ自分の本当のあり方だ」と思えるかどうかは重要なことだが、だからといって誰にとっても正しい生などというものはあり得ないのである。だが、ここでは『存在と時間』の解説だけが目的なので、取り敢えずはハイデガーに寄り添って『存在と時間』を最後まで検討してみよう。徐々に浮かび上がってきた「死の不安」と「時間性」の問題、ハイデガーはそこに何を見出していたのだろうか?


『存在と時間』〓(現存在と時間性)

死の現存在分析

『存在と時間』の第二編「現存在と時間性」は、まず「死の現存在分析」から始まっている。死は人間の生の全体を完結するものなので、人間存在の全体性は、死の観念によって捉えることができるというのだ。しかし、終わってもいない生の全体は見渡せないし、他者の死は自分の問題としては捉えられない。したがって、「死とは何か」ということを、様々な社会が共有する死の観念(宗教的物語など)で説明するのではなく、自分にとっての死を実存論的に考えることで、死の普遍的な本質を取り出す必要があるのだ。

ここでハイデガーは、本質直観によって「死」を実存論的に分析している。まず私たちは、死は誰も代わりはできないし(交換不可能性)、しかもいつかは必ず訪れることを知っている(確実性)。死の訪れはまだ先のことだと思っているものだが、実際にはいつ襲ってくるかも知れないのだ(無規定性)。また、死が切迫すると孤独になり、他者と関わることが少なくなること(没交渉性)、死は誰も追い越せない、人間存在の最後の可能性であること(追い越し不可能性)を導き出しているのである。ただ、普段の私たちは死の不安を忘れて生活しており、自分の存在の意味を世間的な価値観から取り出している。死という最も固有な可能性から身を引き、死の不安の隠蔽と馴致によって頽落しているというのだ。

要するに、死の不安は根本情状性として誰にでもあるのだが、それを紛らわすように、考えないように、目先の遊びや仕事に没頭して流されている、それが本来の生を忘れた状態(頽落)だということになる。そのため、人間は非本来的な状態に留まり、本来的なあり方に立ち返ることができないでいる。しかし、ハイデガーによれば、死の不安に直面したとき、死への自覚によって、人間は頽落から脱して、自由な人間として自立することが可能となる。世俗の欲望への執着や自己中心的な態度から解放され、他者を真の意味で共存在するものとして了解し、本来的な実存の可能性を促し合うことができると言うのである。では何故、死を自覚すれば本来の生へ立ち戻ることができるのか?

良心の呼び声と先駆的決意性

それは「良心の呼び声」によって、自分が「責めある存在」(不完全な状態)であることに気づくからだ。「良心」は本来的な実存の可能性をほのめかすものであり、それは何らかの負い目がある、他者に責任があることをほのめかすような、自分の内側からの呼び声である。また、「良心の呼び声」は人間がある根本的な非性(不全性・欠如性)につきまとわれていることを示している。根本的な非性とは、理由もなくある状況へと投げられていること(被投性における非性)、様々な存在の可能性の中で一つしか選べないこと(企投における非性)、非本来的にしか存在していないことである(頽落における非性)。

「本来的な自己自身であれ」という良心の呼び声によって、自分が「責めある存在」「非につきまとわれた存在」であることを了解し、最も固有な存在(本来的な生)をめがけて企投することが可能になる。それは、私たちに本来の自己であろうとする本性があることを示し、自分自身に対して真の気遣いを持っていること(本来的な存在可能性)の証しなのである。

このような本来的な存在可能性に対する了解(自覚)のことを、ハイデガーは「決意性」と呼んでいる。それは、単に自分自身が「こう生きよう」という決意ではなく、他者への真の理解に繋がっているものだ。一方、死の自覚における全体的な存在可能性に対する了解のことを「先駆」、決意性が先駆において生じることを「先駆的決意性」という。それは、死への自覚において本来的な存在であろうとする決意なのだ。先駆(全体的な存在の可能性)と決意性(本来的な存在の可能性)は、死の不安への深い了解から導かれた実存の自覚であり、死の不安を引き受ければ、よきものへ向かう決意は全体的かつ本来的な自分固有の実存の可能性を得ることになる。世俗的な気遣いを捨て、本来的な生に向かって生きることができるのだ。

実存論的な時間

ここで重要になるのが、先駆的決意性によって時間性が変わることである。すでに現存在の予備的な分析において、人間は自分がどんな存在であったか(被投性)から、どういった存在であり得るか(企投)をめがけつつ生きていること、つまり時間的存在であることが示唆されていた。ここにきてハイデガーは、先駆的決意性によって現れた時間性こそ「根源的な時間性」であり、気遣いの存在論的な意味(気遣いを可能にしているもの)が「時間性」であるという、『存在と時間』の最も重要な主張を明らかにするのである。

通常の時間概念は、「ひも」や「川の流れ」のようにイメージされており、実体的なものとして客観化されている。しかし、現象学的に捉え直してみるなら、時間は実体的なものとして存在するわけではない。時間は事物として存在するのではなく、自分自身の実存に関わりつつ、おのずから生成される(時熟する)のであり、生における重大な意味の結節点がその展開の基軸をなしている。だからこそ、先駆的決意性によって「根源的な時間性」が開示されるのであり、本来的実存こそ根源的時間性のモデルとなるのである。では、その根源的時間性とはどのようなものであろうか。

例えば過去という実体的な時間があるのではなく、「自分が何であったか」という表象があるのだと考えねばならない。それは、自分がこれまでどういう存在であったのかについての自己了解を示しており、この「自分が何であったか」を引き受けることによって、これから何を為すべきかが浮かび上がってくることになる。未来とは、「自分が何であり得るか」という可能性の表象だと考えればよいのだ。そして、自分が何であったかを了解しつつ、新たな可能性をめがけて生きようとすること、それが「いま」(現在)を生成しているというのである。「いま、ここ」には諸事物や諸事象が様々な意味として現れ、自己と世界の意味連関が生成されている。時間性が人間の関心を引き起こし、その関心に応じて世界の意味が現れているのだ。

このようなハイデガーの実存論的時間論においては、「過去/現在/未来」といった通常の時間概念は廃棄され、「過去 → 既在」、「現在 → 現在(現成化)」、「未来 → 到来」と呼び換えられることになる。「到来」とは、自分が何であり得るかという可能性の表象であり、自分の最も固有な存在(本来的なあり方)の可能性を示している。一方、「既在」は自分が何であったかという表象であり、自分の「責めあり」としての存在を深く了解し、引き受ける可能性があることを示している。また、「現在(現成化)」は自己と世界の意味連関が生成される現場であり、人間の「現」が諸事物を配視的、配慮的に「出会わせる」こと、自己を了解しつつ新たな可能性をめがけて「いま、ここ」に存在することを示しているのだ。

時間性と日常

しかし、普段の私たちは、それほど自分の過去を十分に反省し、自己を深く了解しているとは言えないかもしれない。そして自分の将来を見据えた上で行動しているかと問われれば、それもかなり疑問の残るところであろう。実際、私たちの日常は目先の雑事に追われ、好奇心だけで行動し、その場の状況に没入していることが圧倒的に多いものだ。何年も先の自分のことより、今日や明日の予定が心配なのであり、他人とお喋りや不毛な議論を繰り返し、毎日をその場しのぎ的に過ごしてゆく。それが頽落であり、本来の自己を忘れた非本来的なあり方、「死」という事実を隠蔽し、その不安を紛らわすような生き方なのである。

したがって、この場合の時間性は本来的なものではなく、「自分が何であったか」を忘れ(忘却性)、目先のことをだけを見て(予期)、その場しのぎ的に生活している状態を示している。しかし、自分がいつかは必ず死ぬという事実を自覚すれば(先駆)、自分の将来を死に至るまでの全体として見渡すことが可能となり、それと同時に、「自分が何であったか」を遠い過去にまで遡って内省し、取り戻すことができる(取り返し)。自分の人生を誕生から死に至る長いタイムスパンで思い描くことで、「このままではいけない」と感じ、これからどのように生きてゆくべきなのかを見つめ始めることになるのだ。つまり、人間は死の自覚によって本来の存在に立ち戻ることができるのである。以上の時間性の違いを整理すると次のようになるだろう。

    通俗的時間概念 ―――― 未来 ――― 現在 ―――――― 過去
     実存論的時間概念 ――― 到来 ――― 現在(現成化)――  既在
     本来的時間性 ――――― 先駆 ――― 瞬視 ―――――― 取り返し
     非本来的時間性 ―――― 予期 ――― 現成化 ――――― 忘却性
     気遣いの契機 ――――― 企投 ――― 頽落 ―――――― 被投性


時間性と歴史性

死を自覚することで生の全体性を意識できると言っても、それは、現在から死ぬまでの間を意識するだけではなく、生まれてから現在までの間をも意識することだ。人間の全体性は、「死」という終わりと、「生誕」という始まりを合わせたものであり、私たちは死と生誕の間に自らを伸び拡げるという仕方で存在している。死と生誕を意識することで、生の全体を時間的、歴史的なものとして存在させているのである。したがって、死への先駆によって本来的な可能性を自覚すれば、「よいもの」へ向かう可能性が開かれるわけだが、それはよき遺産を伝承しようとする方向へ向かい、社会や歴史へ関わる具体的行為へと繋がることになる。人間は他者と共にある存在であるかぎり、実存の本来性に目覚めるなら、他者達との真の共存在を生きる可能性をめがけることになるのだ。

ハイデガーは、本来の存在可能性を具体的な目標として見いだすことを「宿命」、その目標を共同体、民族の目標など、「われわれの目標」として見いだすことを「運命」と呼んでいる。自分の属する時代・共同体・民族から「よきもの」を受け取り、その具体的な目標をめがけて生きようと決意すること、それこそ人間の本来のあり方であり、自分が他者と共にある存在であることに気づき、「われわれ」の可能性を求めることが重要になるというのである。

まとめ

以上が『存在と時間』の内容だが、もう一度全体をまとめると、まず私たちの目の前にある「ここ」の世界は、自分の関心(気遣い)に応じて様々な意味が現れている。「ここ」の状況と関心に応じて様々な気分になり、それを何らかの意味として了解しているのである。それらの意味は相互に連関しており、この意味の連関を辿れば必ず私たちが何であり、何でありうるかという、存在の可能性に繋がっている。人は自己の存在を了解しつつ、様々な可能性をめがけて生きているのである。それは、これまで「何であったか」という了解から、今後「何でありうるか」を選ぼうとし、それによって「いま」という時が生成されている、ということでもある。一方、普段の私たちは自分が「いつかは必ず死ぬ」という事実を忘れ、目先の雑事や好奇心に没頭して、死を紛らわして生きている。この本来の自己を忘れた頽落から脱するには、死という事実を自覚することが必要だとハイデガーは主張する。死の自覚は「このままではいけない」と感じさせ、「われわれ」の可能性を求めるという、本来のあり方に立ち戻ることを可能にするのである。