04. 実存的アプローチと心理療法
実存的アプローチの展開
二〇世紀初頭に登場した精神分析は、その後の心理療法に絶大な影響を与えることになるのだが、精神分析の動向とは別に、ヨーロッパではクライエントの世界を知り、自分もその世界の中に存在しなければならない、と考える精神科医たちも現れていた。彼らはフッサールの現象学やハイデガーの実存哲学に影響を受け、患者自身から見た内的世界を了解しようと考えたのである。最初に患者の内的世界の記述を主張したのはヤスパースであった。その後、フランスのミンコフスキーやドイツのゲープザッテルらは、この運動の初期(現象学時代)を担うことになった。次の第二期(実存的時代)を担ったのは、ハイデガーの影響を強く受けたスイスのビンスワンガー、メダルト・ボスらである。このような実存的な立場から精神疾患を捉える考え方(実存的アプローチ)は、その後もドイツのテレンバッハ、ブランケンブルクらによって受け継がれ、現象学的精神病理学として展開を続けている。
ヨーロッパに始まった実存的アプローチがアメリカに紹介されたのは一九六〇年頃である。当時、アメリカではすでに精神分析が定着しつつあったが、その一方では、行動変容を中心とした心理療法(行動療法)が急速に強まりつつあった。しかし、実存的アプローチをアメリカに紹介した一人であるロロ・メイは、行動療法は人々をますます体制順応主義者にしてしまい、個性を破壊してしまう危険性があると述べている。そして、この問題の根は近代以降の合理主義や観念論、主客二元論にあるという。つまり、主観や理性ばかりを重視したため、情動や意志が分離(無視)され、個人としての自己自身を体験することができなくなっていることが、現代の不安の原因だというのである。そこで、こうした近代的な理性を批判する考え方として、キルケゴールやニーチェの実存思想が重要になると、ロロ・メイは主張する。フロイトもまた、非理性的傾向(無意識)を明るみに出し、分裂したパーソナリティを意識化によって克服しようとしたのだと言えなくはない。ただ、実際の精神分析は行動療法と同じように、適応だけを目指してしまう危険性が高いというのだ。
実存分析 〓 ロロ・メイ 〓
実存分析の特色は人間を存在から理解する点である。人間は自分の存在を意識することができ、自分で行為を選択する可能性を持っている。それは本能や衝動、行動機制などで説明できるものではないのだ。信頼できる他者に受容されることこそ、自己の存在への気づき(self-awareness)に繋がっている。これが心理療法において特に重要なものである。精神分析においても自我は強調されるようになったが、自我を弱くて受動的なものだと考えている点で、その考え方自体が現代における存在感喪失の症候であり、不安を現しているのである。
不安について、ロロ・メイは次のように述べている。「不安は、ある可能性――自己の実存を充足させるある可能性――がその人に向かってあらわれてくる、その時点で起こるものなのです。しかし、まさにこの可能性そのものが、現在の安定感を破壊する可能性をも含んでいて、その安定感の方を得ようとすると、新しい可能性が否定されてしまうという傾向も生まれてくるわけです」(ロロ・メイ『存在の発見』)。人間は新しい可能性を現実化する自由を持っているからこそ、不安を体験するのであり、新しい可能性と現在の安定感のどちらを選ぶか、この葛藤が不安には含まれている。そして、この可能性を現実化することに失敗するとき、罪の意識が生じてくる。強迫神経症者の罪悪感は、安定感を維持するために強迫的な行為を選び、新たな可能性に向かわないことから生じているのだ。
また、実存分析では「まわりの世界」「共にある世界」「独自の世界」の三種類に世界の様態を区別している。「まわりの世界」はいわゆる環境世界であり、そこには過去も含まれている。過去決定論的な精神分析は「まわりの世界」だけを扱っているわけだが、実際には過去も現在と未来から意味を与えられるのだ。ロロ・メイによれば、「あるクライエントが過去の大事なでき事を思い出すことができるかどうかということは、その人の未来に関する決意にかかっている」(同上)。「共にある世界」は他者との相互関係の世界であり、サリヴァンのような対人関係学派ではこれを非常に重視していた。「独自の世界」は自己への気づきを前提とした世界であり、実存分析ではこれを最も重視している。自己への気づきは、目前の状況を超越する能力を拡げることになる。ただ、「独自の世界」だけでなく、三つの世界全てに目を向けることが重要なのである。
実存分析は方法や技術の体系ではなく、人間の実存を理解する一つのアプローチである。独自の技法があるというのではなく、クライエントへの理解がセラピーに必ず影響してくるのだ。例えばメダルト・ボスは、衝動とかリビドーなどについても、常に実存に向かう可能性という視点から見るべきだと主張している。神経症者は「まわりの世界」にこだわりすぎて「独自の世界」に目を向けていないので、セラピストは自己に気づくことができるように援助するのである。また、実存セラピーでは転移も現実の関係として捉えられる。これまで、セラピストは転移の投影された「影」のような存在と見なされることが多かった。しかし、セラピストが現実的な一人の人間としてクライエントと出会うことが重要なのである。
また、実存分析家は無意識の概念には否定的である。それは因果関係のどんな説明でもできるし、どんな決定論でも引き出すことができる概念だからだ。しかし、これは無意識を「暗室」のほうから見た場合に言えることで、深層心理(不合理なもの、受容されない衝動、忘れられた経験など)を人間のパーソナリティの領野に含めたこと自体は、フロイトの偉大な功績であるという。ロロ・メイによれば、無意識は「個人が現実化することのできない、あるいはしたがらない可能性を知り、かつそれを体験する可能性である」(同上)。こうした考え方はユングの無意識論に近いものがある。つまり、無意識は個人の実現されていない可能性を含んでいる、という考え方なのだ。実際、実存主義的なセラピスト達には、ユングを高く評価する人が多く、心理療法が自己実現に繋がっているという視点でも一致しているのである。
ロロ・メイらの実存的アプローチは、その後、アメリカにおいて大きな進展を遂げることになった。特にマスローらの生み出した人間性心理学は、精神分析と行動療法に対して心理学の第三勢力と呼ばれるまでになり、今日に至っている。その一方で、すでにクライエント中心療法という独自の展開を見せていたロジャーズは、ロロ・メイやマスローらに共鳴し、晩年は自らも実存主義的な心理療法家だと主張するようになった。そして、ロジャーズの理論は今日のカウンセリングに大きな影響を与えている。また、技法より態度や考え方が重視されがちな実存的心理療法だが、ヨーロッパではフランクルのように独自の精神療法を築き上げた人物もいる。
ロゴセラピー 〓 フランクル 〓
ロゴセラピーは「意志の自由」「意味への意志」「生命の意味」という三つの基本的な構想に基づいている。人間は状況に縛られているが、それに対する態度を選び取る自由(意志の自由)を持っている。また、フロイトの主張した「快楽への意志」や、アドラーの言う「力への意志」は、元来、「意味への意志」の派生物である。快楽はそれ自体を目的にすると、それを得ることができなくなるものなのだ。自己実現もまた、意味を充足させる時にのみ発生するのであり、それ自体を目的にすることはできない。ロゴセラピー療法家は、自分が治療する患者の意味と価値についての見方を広げるのである。
現代においては、関心の喪失と主体性の欠如(実存的空虚)を特徴とする新しい神経症者、人生の意味に疑いを持つ患者が増えており、フランクルはこれを「精神因性ノイローゼ」と名づけている。つまり、問題は実存的欲求不満、意味への意志が満たされないことにあるのだ。こうした人間に必要なのは緊張のない状態ではなく、意味への挑戦である。「ロゴセラピーは、人の主な関心事は快楽を探すことでも、苦痛を軽減することでもなく、むしろ人生の意味を見出すことであると主張する。かくて、我々は、人が自分の苦しみは意味を持っているということを納得させられるなら、その人は苦しみに対する準備ができたことを理解するのである」(フランクル『現代人の病』)。これは、ユダヤ人収容所に入っていた経験を持つフランクルの言葉であるだけに、強い説得力を感じさせる。収容所では、自分の生に可能性や意味を見出している間は何とか生き長らえているのだが、解放される見込みがなくなると、途端に死んでゆく人たちが後を絶たなかったである。
ロゴセラピーは、患者を意味へと方向づける心理療法である。この治療法ではセラピストと患者の関係がどんな方法よりも重要だが、「逆説志向」(paradoxical intention)という優れた技法がある。例えばある発汗恐怖症患者は、人に会うとひどく汗をかくのではないかと恐れていたが、この期待不安がますますひどい汗を生じさせるため、悪循環に陥っていた。そこで、これから一週間、会う人々にできるだけ多くの汗をかいてみせるようにと助言したところ、一週間後には完治していたという。汗をかくまいと過度に注意していたことが汗をかく原因となるなら、汗をかこうと過度に注意することで、汗をかかなくなることができる。過度の注意力、自己観察は、神経症の原因となるのであり、過度の志向は働かせたいと思うその当のものを働かせなくしてしまう。そこで、この原理を逆に利用して治療する方法が逆説志向なのだ。
逆説志向は病気の原因が何であるかに関係なく、その効果を発揮する。問題は神経症と症状に対する患者の態度であり、態度変更こそ症状の改善に繋がるのである。「逆説志向と呼ばれる方法は、不安神経症、強迫神経症の殆どの原因が、これらを排除したり、戦おうとしたりする努力によって起こされる不安や妄想の増大にあるという事実に基づいて、患者に適用される治療手段なのである」(同上)。また、ロゴセラピーには「反省除去」(de-reflection)という方法もある。これは、自己反省への過度の傾きを妨げようとするもので、自分に対する注意をそらし、苦しみを無視することができるようにするのである。
フランクルの治療法は、ヨーロッパだけでなく、アメリカの実存的アプローチを中心とするセラピスト達にも大きな影響を与えている。逆説志向を実際に実践しているかどうかはともかく、人間が意味を求めることに焦点を当てた考え方は、実存派のセラピストやカウンセラー達を強く鼓舞するものだったのである。
クライエント中心療法 〓 ロジャーズ 〓
ロジャーズのクライエント中心療法は、心理療法の特殊な技法というより、心理療法における基本的な姿勢や態度、カウンセラーの条件について考えられたものだと言える。ロジャーズによれば、心理療法の成功を生み出すものは、セラピストのある態度であり、それには「無条件の尊重」「共感的理解」「自己一致」の三つの態度があるという。「無条件の尊重」とは、セラピストがクライエントに対して「こうであってほしい」とか「こうすべきだ」という条件や指示を与えるのではなく、まずは受け入れる姿勢で臨むということである。また、「共感的理解」とは、クライエントの身になって考え、感じようとすることだ。そして特に重要なのは、三つめの「自己一致」である。
自己一致とは、感じていることと言っていることの間にズレがない状態のことだ。例えばクライエントの話にイライラするような場合でも、そのことに自分では無自覚でニコニコしてしまうとすれば、カウンセラーの自己は一致していないことになる。カウンセラーといえども、クライエントに対して否定的な気持ちになることはあるので、この否定的な感情を了解し、「ああ、自分はこの人と話しているのが嫌なんだな」と気づくことが必要である。この否定的な感情を自覚できなければ、口では共感するようなことを言っても、無意識のうちに身体が引いていたり、表情がこわばったりするかもしれない。クライエントはこうしたカウンセラーの反応を見逃さず、不信感を抱くようになるのである。カウンセラーがこうした自分の感情を自覚できれば、それだけ矛盾した言動は少なくなるのであり、これが自分の感情と考えが一致している状態、自己一致なのだ。ようするに自己一致とは、十分に自分を内省し、自己了解できていることなのである。
カウンセリングにおいてクライエントとなるのは、基本的に自己不一致の状態にある人たちだ。自分の感情を抑圧しているため、自分の感情から自己了解することが難しくなっている。だからこそ、自己了解のために他者(カウンセラー)との関係が利用され、カウンセラーとの信頼関係(ラポール)が必要となるのだ。他者との関係にエロスや信頼があればあるほど、それだけ「知らなかった自分」を認めることが可能となる。したがって、どんなにクライエントの反応を鋭く解釈し、分析する力があるカウンセラーでも、自己一致していなければ信頼関係は築かれず、クライエントの自己了解は進展しないだろう。何故ならカウンセリングとは、クライエントが「本当の自分」をカウンセラーに教えてもらうことではなく、カウンセラーという他者と共に新しい自己を了解すること、他者によって受け入れられる自分を発見することであるからだ。
ロジャーズの来談者中心療法は非指示的な技法とも言われ、指示や解釈といった積極的な介入は極力避ける傾向にある。現在のカウンセラーの多くはロジャーズの絶大な影響を受けているので、クライエントに対して解釈や指示をあまり出さないで、クライエントの話を聞くこと(傾聴)が中心になっている。勿論、表情や身体反応に注意しながら、適切なタイミングで意見を出すことはあるのだが、それは解釈や指示というより、カウンセラーがどう思ったかを知ることで、クライエントが自己像を見直すことができるよう促すだけなのだ。つまり、カウンセリングは厳密な意味では治療というより、クライエントが自己了解することを手助けする作業なのである。
実際、カウンセリングの対象であるクライエントは、そのほとんどが健常者である。ただ、自分一人ではうまく自己了解できないので、自分なりの考えをカウンセラーという他者に聞いてもらい、そこで他者と共に了解できる自分を見出しているのである。これは、信頼できる他者が身近にいるような人であれば、日常においても経験していることであろう。勿論、実際にカウンセリングに訪れる人は、ちょっと手助けさえすれば自分の力で自己了解できる程度の健常者ばかりではないため、カウンセラーは専門の知識を駆使し、クライエントの状態に応じた様々な心理療法を使い、精神病である場合には精神科医に協力を要請することになるのである。
フォーカシング 〓 ジェンドリン 〓
クライエント中心療法は、クライエントが自己了解する際に体験する感情を重視しており、単に自己を理解すること、解釈を受け入れることに重点があるのではない。この体験過程そのものに治療のエッセンスがあるという考え方は、ロジャーズの弟子であるジェンドリンによって、さらに発展させられることになった。それが体験過程療法、いわゆるフォーカシングである。人は相手に対する否定的な感情を容易には認められないものである。はっきりした嫌悪感であれば、「私はこの人が嫌いなんだ」と自覚できるかもしれない。ところが、実際には何となくムカムカしてきたり、胃がキリキリするような感覚はあっても、それが嫌悪感なのかどうか、はっきりわからないことも多いはずだ。この言葉にならない身体感覚に注意を向け、その感覚を体験している過程から意味をはっきりさせてゆく方法、それがフォーカシングなのである。
つまり、フォーカシングは体験過程に焦点を合わせて意味を見出す技法であり、体験過程とは「今、ここ」で起こっている感情の過程、言語によって概念化される以前の前概念的過程である。身体で感じられた実感(フェルトセンス)に注意の焦点を合わせ、そこに感じられたものを言葉にしてみれば、体験過程に変化が生じて推進する。例えば、ある人が「今晩ある会合に行かなければならないが、自分でもよくわからないけど、どうも行きたくないんだ」と言ったとする。この時、彼は自分の内部で進んでいる体験過程に表現を与えようとしているのだが、その体験過程は整理されていない潜在的な意味を含んでいる。それは何となく感じることはできるのだが、はっきりとはわからないのだ。しかし、彼は自分の体験過程の整理されていない部分に焦点を合わせることで、この潜在的な意味を発見することができる。「そうか、Aさんが来るから、行きたくないのか」と理解し、どうすればよいのか、本来の可能性が見えてくるのだ。
基本的な方法としては、身体感覚に静かに耳を傾け、感じたことはすぐに合理的に解釈したり忘れようとしたりせず、取り敢えずは後で考えてみることにして置いておく。そして、リラックスした状況の中で、もう一度その感覚を思い起こし、そのとき感じられた意味に注意を向けてみるのである。「どういうときに治療的効果があるのであろうか。それは患者が何かを言うだけであったり、何かを知るだけであるときではなく、直接的に感じられる体験過程的シフトがそれに伴ったときである」(ジェンドリン・池見陽『セラピープロセスの小さな一歩』)。解釈が問題なのではなく、そこに伴っている感情が重要なのであり、それはあらゆる心理療法の前提条件なのである。
ジェンドリンの指摘によれば、ロジャーズ理論の自己一致とは、体験過程を意識していること、それに対して開かれていることだ。自分の感情に自覚的になることで、クライエントをダブル・バインド状況に陥らせないだけではなく、その感情をソフトな言葉にしてクライエントに返すこともできるようになる。そうすれば、共感だけでは気づくことのできなかった問題が見えてくるのだ。カウンセラーはクライエントの話だけではなく、声のトーン、身振り、表情、服装など、あらゆるメッセージに耳を傾けている。このメッセージによってカウンセラー自身の感情も動き、それを言葉にして返すことになるのである。それだけではなく、フォーカシングに習熟するということは、カウンセラー自身が抱えている問題をも解消していくことになる。そして、そうしたカウンセラーがクライエントと向かい合うことで、クライエントも自分の感情に自覚的になり、自己一致へと向かうのである。
感情に注意を向け、それを言葉にすること、それは感情を了解し、語ること、新たな可能性をめがける過程である。したがって、フォーカシングは数ある実存的アプローチの心理療法の中でも、最もハイデガーの実存論に基づいていると言える。また、無意識という概念に対しても現象学的な視点で捉えており、「感じ」が言語化された後で、事後的に無意識と呼ばれるのだと述べている。しかし、ジェンドリンはハイデガーの「本来性」という概念を踏襲し、心理療法はあくまでも本来の可能性に開かれているべきだと主張する。それは、実感に焦点を当てることで初めて見えてくる可能性なのだが、それを本来の可能性と言ってしまうのは、本当のあり方があることを想定し、本当の自分という物語に繋がりやすい。フォーカシングは理論的にも洗練されている反面、ある種の物語化の可能性を残している点に疑念が残るのである。
ゲシュタルト療法 〓 パールズ 〓
パールズの開発したゲシュタルト療法は、実存的アプローチにおいて重要な「気づき」を、より積極的なアプローチによって促進し、短期間で劇的な変化を可能にする技法である。その基本原理は、まず人間を心と身体の全体(ゲシュタルト)として考え、人間には自己調節の能力があると考える(ホメオスターシス)。近代の心身二元論による精神医学や心理療法は、心、特に無意識が原因となって身体に障害が起こるものと見る因果論に陥っている。しかし、人間は統合された一つの存在であり、人間の行動は身体的活動か精神的活動のいずれかに現れるので、その現れた意味に気づくことが重要なのである。
「もしセラピストがクライエントの気づきを喚起することができさえすれば、クライエントは、自分の行為やファンタジー、演技している仕草の意味を知ることができるであろう。そして、クライエントは、それらの行為の意味を自ら解釈することが可能になる。そして、ファンタジー、演技、行為の三段階にわたる自分自身の経験を通して、自己理解を醸成することができる。そのとき心理療法は、退行現象、エディプス的葛藤、心的外傷体験など過去を発掘することではなく、心理療法という現象学的場における「今〓ここ」の経験となる。」(パールズ『ゲシュタルト療法』)。
セラピーにとって重要なのは、クライエントが目標達成できるように自己解決能力を育て、その人にとっての目標を見つけ、それに向かって進んでいけるように彼らの成長を促すことである。ゲシュタルト療法は、従来のセラピーのように心身二元論に基づいて一つの原因を設定することはない。「無意識」よりも広い意味での「今、ここで気づかないこと」を扱い、クライエントが自分自身の気づきの領域を広げるのである。「もしもクライエントが自分の自己妨害の方法に気づき、それが過去のことであれ、現在のことであれ、自分が実際にどのように自分を妨害するのかということを経験できるようになれば、妨害されない真実の自分や本当にやりたいことに迫ることができるようになるものである」(同上)。
神経症者は社会を必要以上に過大視し、自己を過小視する傾向にあるため、自分の欲求に気づくことができない。これは個人の欲求と集団の要請が違うため、どちらを優先させたらよいか選択できない状態でもある。人間は社会で生きていくために様々な社会規範、作法、手段を取り入れるが、これらは生物的な志向や本能と対立し、実存の根底を損なうことがあるために神経症になるのだ。神経症者は過去の未完結なことが邪魔をするので、現在に十分に関わることができない。そこで、ゲシュタルト療法では過去の原因にこだわるのではなく、「今〓ここ」で自分が何をしているかに注意を向けてもらう。それは解釈のセラピーではなく、経験的なセラピーだと言えるだろう。話すだけでなく、「今〓ここ」で、現在でも未完結になっている問題やトラウマを再体験し、自分を感じるようにしてもらう。自分の動作や呼吸、情動や声の調子、顔の表情に注意を向けてもらえば、クライエントは自分自身に気づくことができるのだ。
「気づく」ことは知的で意識的なことではなく、言葉や記憶による「〓であった」という状態から、今しつつある経験へのシフトである。それは、自分の感情を自分で妨害した過去の経験を処理することを可能にする。フロイトは神経症者の自己妨害を「検閲官」と呼び、妨害のない自由な流れ(自由連想)を重視したが、重要なのは検閲された内容ではなく、検閲のあり方(自己妨害の姿)そのものなのである。妨害そのものに集中することで、クライエントは自分自身を押さえ込んでいる事実と、何を押さえ込んでいるのかに気づいていくのだ。
ゲシュタルト療法の基本は「気づきの技法」だが、それだけでは限界があるため、様々な技法が開発されている。例えば空想を言語化したり、文章に書き留めたり、また心理劇として行動化することも多い。心理劇は非常に効果的で、クライエントに一つの役割から別の役割へ交代して演じてもらうことで、その時の感情に気づくというやり方だ。例えば子どもと口喧しい母親を交代して演じることで、クライエントは自分の口喧しい超自我が、実は母親を取り入れたものであることに気づくことができる。心理劇は一人で演じてもらうこともあり、これをモノセラピーと言う。モノセラピーは、クライエント自身が舞台や俳優、演出を創作することで、彼が空想するものは全て彼自身のものだと気づく機会が与えられる。また、シャトル技法という、意識の往復運動を利用する方法もある。例えば伝統的な分析家なら記憶と連想の間を往復させるが、ゲシュタルト療法では記憶の再体験と、「今〓ここ」での経験の間に意識を往復させ、気づきを得るのだ。
セラピストの態度において重要なのは、まず同情だけではクライエントを甘やかしてだめにするので、感情移入的であることが望まれる。しかし、感情移入的なだけで欲求不満が起きなければ、セラピーはそれ以上進展しない。「クライエントが混乱して途方に暮れ、当惑している、まさにその領域で満足を得ることができなければ、いかなる人格的成長も生じないということである」(同上)。つまり、神経症による自己妨害が働いているまさにその時、その妨害のやり方に気づくことが必要なのだ。
「クライエントが表現する欲求や要求が、本人の自己概念や相手を操縦する技や神経症的パターンを反映しているならば、セラピストはこれを阻止し、クライエントを欲求不満に陥らせなければならない。セラピストがクライエントの何らかの自己実現を援助するつもりであれば、自己実現を妨げているパターン(神経症)を少しでも満たすことを、きっぱり止めさせ、クライエントが発見しようとしている本来の自己を表出することを勇気づけねばならない。」(同上)。
実存的アプローチの総括
実存的アプローチの心理療法に共通する特質を整理してみよう。まず、客観主義的傾向の心理療法、つまり行動療法が無視している内面を重視する。ただし、最近は行動療法も内面を重視して認知的アプローチを取り入れているので、この言い方だけでは不正確である。厳密に言えば、クライエント自身からみた内面が重要なのであり、本人にとっての意味が問題なのである。このことはフランクルの重視した「意味への意志」、ロジャーズの「クライエント中心的」という考え方が端的に示している。そして、このことが「実存的」と言われる所以だと言えるだろう。ロロ・メイの強調した「自己への気づき」、ロジャーズの「自己一致」も、自己了解と言い換えれば問題はクリアになってくる。つまり、クライエント自身が「知らなかった自己」に気づくこと、それが重要なのである。そして、この自己了解を中心とした考え方を、私は全く正当なものだと思う。
しかし、実存的アプローチの心理療法は、あまりにも多くの不必要な仮説を導入している。まず、本来は無意識を前提としない立場であるにもかかわらず、結局は無意識を実体化し、それを潜在的な可能性の宝庫のように考えている。そのため、可能性を引き出すという「自己成長論」に繋がり、「本当の自分」を仮定した自己実現や、「本当の人間関係」を仮定したエンカウンター(出会い)の運動など、過度な物語化に繋がっている。これは厳密な現象学や実存論の立場から言えば明らかに逸脱である。しかも、潜在的な可能性としての無意識は、近代的な理性に抑圧されたことになっている点で、精神分析の抑圧仮説と何ら変わらない。これはマルクーゼやフロムらのようなフロイト左派の主張と同じなのだ。つまり、近代の合理主義は自然な感情や欲望を抑圧してしまった、だから自然な感情や欲望を解放するために、社会を変革しなければならない、というのである。
このように、実存的アプローチは様々な心理療法と同列に並ぶ仮説の位置に留まっており、基本原理にはなり得るほど、徹底した現象学的、実存論的な視点ではない。むしろ、こうしたロマンティシズムのために、一方では多くの信奉者を集めながらも、他方では宗教的なイデオロギーと見なされて、うさんくさいものだという印象を拭えないでいるのだ。実存的な心理療法の何が仮説で、何が本質的な治療原理として働いているのか、そこを見失ってはならないだろう。