02. 欲望と不安の自己了解について
1.「したい」と「ねばならない」の葛藤
普段、私たちは様々なことに悩んでいる。例えば、「会社に行かねばならない」とわかってはいても、身体がだるく感じ、ぐずぐずしてしまうことがないだろうか。そこには「休みたい」という欲望があるのだが、会社へ行かなければ生活できなくなることは明らかだ。しかし、そんなことでたやすく納得できるぐらいなら苦労はしない。生活のために仕事するのなら、もっと楽な仕事、あるいは楽しめる仕事もあるのではないか、などという思いが頭をかすめる度に、またしても身体を起こす力が失せてゆく。こうして、毎朝のように葛藤と闘いながら、会社へと向かうのだ。
そこには「休みたい」という欲望と「働かねばならない」という義務感の葛藤がある。あるいは何か仲間内の集まりがあるとする。仲間にも会いたい。だが、どうも胸がムカムカしてきたり、胃が痛くなり、少し考えてみると「なんか嫌だな」と感じるのだが、あまり悩みの原因ははっきりしないとする。よく考えると、その集まりには気の合わない人間が一人いて、いつも居心地が悪くなる。だから「行きたくない」と感じているのだが、一方では他の仲間との付き合いも大事なので「行かねばならない」と感じたり、あるいは自分の不快感に無自覚な場合も多いのだ。
「悩み」とは何かを考えてみると、それは行為の選択に迷っている状態であることがわかる。選択肢がないように見える場合でも、悩むからには自分自身で判断し、選ぶことのできる自由があるはずだ。複数の「〓したい」という選択肢に悩む場合もあるが、これは苦しみの大きい状態ではないので問題にしない。ここで取り上げるのは、「〓ねばならない」という実感と、それに反するような「〓したい」という実感の葛藤である。単純に考えれば、「〓ねばならない」は義務感のようなもので、「〓したい」と感じる欲望の実現を、つまり自由を抑えつけるものに思えるだろう。だが実際には、「〓ねばならない」は他の「〓したい」という欲望に結びついていることも多いのである。このことを、ハイデガーの実存論的な視点から考えてみよう。
2.ハイデガー時間論からみた欲望と不安
ハイデガーによれば、私たちはこれまでの自分が「何であったか」を了解し、それによって今後「何でありうるか」をめがけて生きており、そこに「いま」という時が生成されるという。彼は「死の不安」から時間性の違いを導き出しているが、そこに「欲望」という視点を導入してみよう。もし、「いま、ここ」で悦びや楽しさ、エロスが得られているなら、私たちは未来の可能性にすがる必要性は感じないかもしれない。逆に、「いま、ここ」で不全感、不満を感じている場合、欲望を満たす可能性を未来に求めることになるだろう。いまは苦しいが将来はきっと幸せになれる、あるいは自分の思い描く夢を実現できると考えるのだ。この場合、現在よりも未来の悦びを思い描くために、時間性に違いが生じることになる。
しかし、私たちは悦びや満足への欲望に導かれるよりも、不安に突き動かされることのほうが多いかもしれない。例えば、現在ある程度の満足、心地よさ、エロスが得られていても、「いつまで続くのだろう」とか「このままでいいのだろうか」といった不安があれば、やはり自分のやっていることを振り返り、将来の可能性に思いを巡らすことになるだろう。私たちは、自我の不安、愛情喪失の不安など、様々な不安を抱えている。そこで、不安を抑圧して刹那的な快楽を求めるか、不安を取り除くための行為を選択して可能性を求めるのであり、そこに時間性の違いが生じるのである。
可能性の中に意味とエロスを求めることは、「〓したい」という現在の欲望を超えて、将来において「〓したい」、だからいまは「〓ねばならない」という実感があることを示している。この「〓ねばならない」は、はっきりした可能性のエロスから生じる場合もあれば、不安から生じる場合もある。ハイデガーは死の自覚による「良心の呼び声」を主張しているが、これは死の不安から生じる「〓ねばならない」という実感の比喩なのだ。
3.欲望と不安、ルールの関係
「〓したい」という実感が端的に欲望を示しているのに対し、「〓ねばならない」という実感には、「欲望の実現」と「義務の遂行」という二面性がある。何かをしなければならないのは、「〓のため」というような、何らかの目的があるはずだが、この目的が未来の満足、可能性のエロスに繋がっていれば、「〓ねばならない」も「〓したい」と同じように、欲望を指し示し、その実現へ向かっていると言える。しかし、悦びや満足に繋がっていなくとも「〓ねばならない」という実感が生じることは少なくないだろう。そのことを詳しく考えると、「〓ねばならない」は以下のように分類できることがわかる。
理想追求型
例えば、「一生懸命働かねばならない」というような場合、「金持ちになりたい」から、「家族を幸せにしたい」から、「もっと成功した人間になりたい」から、等々のエロスに繋がっている。もっとはっきりした夢や理想がある場合には、その可能性のエロスを手に入れるために、より現在の欲望を我慢し、苦しいことを引き受ける動機は強くなるだろう。また、これは理想の自己像に近づきたいという欲望にも繋がっている。強い人間、優れた人間、優しい人間という理想の自己像があれば、がんばって身体を鍛えたり、勉強したり、他人に優しくすることになるのだ。この場合には、「〓ねばならない」の必要性を自覚しやすいため、自分の意志で選び取ったという納得感がある。これは、可能性のエロス(未来における満足)をはっきり自覚しやすい型である。
自我安定追求型
夢や理想像ではなく、単に特定の他者に認められたい、愛されたいという欲望に繋がっている場合もある。これは、夢や理想のようにはっきり思い描ける悦びではなく、誰もが抱えている承認や愛情への欲望である。他人に親切にする場合でも、「親切な人間」という理想像があるというより、その特定の他者に嫌われたくない、認められたいという動機のほうが強いわけだ。ただし、これは自覚的(戦略的)に親切にする場合もあるが、習慣化し、自覚しにくいことも多い。このため、理想追求型よりもエロス(悦び)への繋がりを自覚しにくく、納得感もあまり強くはない。むしろ後述する「不安回避型」に近い面もある。
義務遂行型
悦びや満足に繋がっていないように見える場合でも、「〓ねばならない」理由がはっきりしていれば、納得はできる。例えば「暴力をふるってはいけない」というような、一見、悦びとは無関係に見えるルールに従う場合でさえ、「自分も暴力を振るわないで欲しい」という欲望に繋がっている。ただし、これは意識的に自覚することは少なく、将来における悦びや満足に導かれるような欲望でもない。普段はただルールに従っているような拘束感があるだけなのである。それでも、「自分が社会で安全に生きていくため」という目的を自覚できれば、悦びはなくとも納得できるわけだ。また、これは社会のルールを守ることで、他者から認められたい、認められるような人間でありたい、という欲望に繋がってもいるため、「自我安定追求型」にも近い面がある。
不安回避型
不安から生じる「〓ねばならない」という実感も、未来の状況が悪くならないように、少しでも望ましい状況に「したい」という欲望に繋がっている。悦びや楽しみに導かれているわけではないが、「〓のため」という生の意味を感じさせ、強いエロスに転化していく可能性はある。しかし、実際に不安が悦び(エロス)に転化することは少なく、ただ状況が悪くならないようにという、ネガティブな欲望がほとんどである。死の不安、批判されることへの不安、不幸になることへの不安など、予期される最悪の状況を避けるためだけに、「〓ねばならない」と感じ、その行為は遂行されるのである。
不合理信仰型
不安による「〓ねばならない」は誰もが少なからず経験することだが、必要以上の過剰な不安という場合もある。これは、他者からみれば不合理とも思えるような過剰な不安、強迫的な「〓ねばならない」という実感がある場合だ。事実、それは不合理な思い込みによるものがほとんどである。他者に迷惑をかけないためでも、他者との関係に信頼やエロスをもたらすためでもない。また、自分が安心して生きていくためでも、夢や理想に繋がっているわけでもない。「〓ねばならない」の根拠がない場合、それは不合理なルール、思考を身につけてしまっているのであり、不毛なゲームにはまっている可能性が高い。
以上5つの型は単純に分けられるものではなく、相互に規定し合っていることは言うまでもない。こうした「〓ねばならない」という実感は、社会的なルールや価値観が内面化されたもの(内的規範)から生じることが多く、そのルールの多くは無意識のうちに身についている。この内的な自分のルールのことを「自己ルール」と呼ぶことにしよう。自己ルールが社会と共通性を持ち、その価値観が可能性のエロスや理想を含んでいるものなら、そこから生じる「〓ねばならない」の根拠は自覚しやすいものとなるだろう。しかし、私たちは歪んだ内的規範を多かれ少なかれ身につけており、自分の感情、欲望を抑えてでも「〓ねばならない」と感じてしまうことがあるものだ。それが極度に強くなった状態が「不合理信仰型」であり、要するに神経症的な状態なのである。
4.欲望と不安の自己了解
自己ルール(内的規範)が極度に歪んでいなければ、自分の感情から「〓したい」という欲望、「〓ねばならない」という自己ルールを知ることができる。つまり、ある程度までは自己分析によって自分が最も望んでいること、不安を感じていることを知ることができるのだ。それが少し難しい人は他の人の存在が必要となる。他の人が話を聞いてくれたり、反応してくれるだけでも、自分の欲望や不安に気づくこと、つまり自己了解はかなり進展するはずである。これは、自己ルールの歪みが少なく、信頼できる他者(友人・恋人・親など)に恵まれていれば、すでに日常的に経験していることだろう。しかし、自己ルールの歪みが大きい場合は簡単ではない。以下、自己了解ができるための条件を、いくつかに分けて述べておくことにしよう。
感情からの自己了解
「悩み」の多くは、モヤモヤした気分が最初にあり、問題自体がわからない状態である。「〓したい」と「〓ねばならない」の葛藤は、即座に言語化、分類できるほどはっきりしたものではないことが多い。そこで、まず自分がその場面で感じていることを内省し、その感情が何を意味しているのかをよく考えてみることだ。そうすれば、そこにある「〓したい」と「〓ねばならない」がはっきりしてくるし、自分が漠然と感じていた欲望や不安も見えてくる。つまり、まずどのような「〓したい」と「〓ねばならない」が葛藤の中心にあるかを抽出し、それに気づくことが必要なのである。
自己分析から自己決定へ
「〓したい」と「〓ねばならない」がはっきりしても、すぐにはどちらを選べばいいのか分からないことが多い。そこで、次にその「〓ねばならない」の根拠を考える必要がある(既述の分類を参考)。「〓ねばならない」が何らかの悦び(エロス)や満足に繋がっており、それが現在の「〓したい」を超えるような価値があれば、多少は我慢してもこの「〓ねばならない」に従う理由があることになる。また、不安を回避することや、安全確保のためであっても、モヤモヤしたままにしておくよりは納得ができるはずだ。この内省によって自己の欲望や不安を了解し、納得のいく行為の判断、自己決定をする可能性が開けるであろう。
他者による自己了解
以上のようなやり方でも「〓ねばならない」の根拠が見つからない場合、それは不合理なルールが刷り込まれている可能性が高い(不合理信仰型)。この場合は、まずその不合理性を指摘してくれる他者、新たな理解のための助けとなるような信頼できる他者の存在が必要である。もっと言えば、他者との関係に信頼感と親和感があればあるほど、この不合理な「〓ねばならない」を修正する可能性があるのだ。そこには他者によって指摘されたり、他者の振る舞いによって発見される、「知らなかった自分」への気づきがある。それは、自己分析で薄々気づいていたにせよ、他者によって認めてもらい、受け入れてもらうことで確信が持てるのである。
以上をまとめると、まず自分の欲望と不安に気づくことであり、いつの間にか身につけていた自己ルールに気づくことが必要になる。そして、自己ルールの根拠が自分の望むもの、納得できるものに繋がっているかどうかを確かめ、自分が本当はどうしたいのかを考える。そのことが悩みや迷いを解消し、自分の納得のできる判断、行為を可能にしているのだ。しかし、自分一人で考えてもうまく自己了解ができない人は、他者の助けが必要になる。この役割を意図的に担うべき存在として、現代社会にはカウンセラーという存在もある。カウンセラーの役割は、クライエント(相談に来た人)の自己了解を促すことなのである。