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01. 心の治療と自己了解

カウンセリングと心理療法の原理

ここ数年、カウンセリングの必要性が強く主張されるようになっている。しかし、そもそもカウンセリングとは何なのか、そのことを明確に答えられる人はあまりいないよう思える。勿論、心の苦しみを抱えている人の相談にのり、その苦悩をコミュニケーションをとおして癒し、治している、といった程度のことは誰でもわかっているだろう。少なくとも、カウンセリング関係の書物にもそのように定義されているので、こうした理解も間違っているわけではない。

しかし、このような言い方では、カウンセリングや心理療法の本質を言い表しているとは、到底言えないと思う。大体、カウンセリングや心理療法には膨大な種類の理論や技法があり、そこに統一性は全くないように見えるという事実を、どう説明するのだろうか。カウンセラーや精神科医たちの多くは、どうもそれでよしと考えているようだ。人の心は様々なのだから、それに応じて様々な技法があるのはあたり前だというのである。だからこそ、コミュニケーションを通して心を治す、という最大公約数的な当たり障りのない定義で落ち着いているのだろう。しかし、この定義は治療の本質を全く言いあてていない、単なる形式上の共通性に過ぎない。

また、治療者の人間観によって心理療法の技法が違うのはあたり前だ、という見解もある。確かに治療者の人間観は治療態度にも反映することは間違いない。しかし、そのことは心理的な治療がバラバラな原理によって実践されてもよい、という理由には全くならない。これでは、単に自分たちの理論的立場を守るために、お互いの理論的立場を尊重し合っているだけではないだろうか。信仰は自由だが、カウンセリングや心理療法が宗教でないのなら、このような主張は軽々に口にすべきではない。技法はバラバラであってもよいが、そこに共通の本質は必ずあるはずであり、そのことは十分に考えられるべきなのだ。

では、心理療法やカウンセリングに共通するものは何なのであろうか? 私の考えを率直に言えば、それは「自己了解」である。カウンセリングや心理療法に私たちの心を癒す力があるのは、他者(治療者)との関係によって、「知らなかった自己」を了解することができるからなのだ。自己了解がうまくできない人たちは、悩みや葛藤を解消できない状態から抜け出せない。心理療法やカウンセリングは、患者やクライエントが自己の不安や欲望に気づくことができるように、そして自己のルールを見直して修正できるように、手助けする作業なのである。


自己了解とは何か?

自己了解とは、自分がどんな人間であるのか、何を欲しているのかを知ることであり、また、何を怖れ、不安に感じているのか、それに気づくことである。自分の欲望や不安を知ることができれば、自分がどうしたいのか、何を避けようとしているのか、その葛藤の原因が明らかとなり、新たな可能性をめがけることが可能となる。自己了解は、「〓したい」という欲望と、「〓ねばならない」という自分のルール(内的規範)の葛藤に対して、納得できる選択を可能にするのである。

普段、私たちは自分の感情や思考、行動、身体感覚など、様々なことから自己を了解し、その都度新たな可能性を選び取りながら生きている。特に感情は自分の欲望や不安を端的に示しており、感情から自己を了解することは、誰もが日常的にやっていることだ。思考に過度に煩わされず、感じていることを素直に受け止めれば、自分の欲望や不安に気づかされるのである。そして、この自分の欲望や不安を知ることによって葛藤の原因を理解し、新たな可能性をめがけて踏み出すことが可能になる。自己を了解しつつ新たな可能性をめがけ続けるということは、ハイデガーが『存在と時間』において明確に示したように、人間のあり方の本質なのである。

感情だけでなく、自分の考え方や行動、身体感覚など、様々なことから自己了解はできる。これらは感情からの自己了解に比べて、それが本当に自分の欲望や不安だという確信は強くないのだが、それでも自己了解には欠かせない要因となっている。特に重要なのは、他者の指摘や反応による自己了解である。自分だけではうまく自己了解ができない人たちでさえ、他者との関係の中では新たな自己を了解する可能性があるのだ。信頼できる人間が「知らなかった自分」に気づかせてくれたという経験は、誰でも心当たりがあるはずであろう。

自己了解が自らの意志によって行為を選び取ることを可能にするのなら、それは私たちが生きていく上で不可欠なものだと言える。勿論、私たちはいつでもうまく自己了解できているわけではないし、自分の感情や行動を考え直してみる余裕がない場合も少なくない。しかし、自分だけではうまく自己了解ができない人たちも、他者との関係の中では新たな自己を了解する可能性があることは間違いない。というより、誰もが大なり小なり、他者のお陰で自己了解できている面があるのだ。

このような他者との関係性における自己了解こそ、様々な心理療法の中で共通するものだというのが、私の考えである。しかし、カウンセラーや心理療法家の多くは、こうした原理があることを自覚していないように見える。むしろ必要以上に自分の理論的立場に固執している人も多く、心理療法の目的が自己理解にあるのだと主張している専門家でさえ、無意識が実在することを仮定した上で、その意識化によって真実の自己を知る、という意味で主張しているに過ぎない。そのため、心理療法を自己発見(本当の自分探し)、自己成長のプロセスとして、過度に物語化してしまうことも多いのである。

しかし、心理療法が有効なのは、「本当の自分」を知るからではなく、そこに他者と共に了解できる新たな自己を見いだすからであり、治療に必要なのは、抑圧された感情や無意識の自己を解放することではなく、その都度の自己了解であるはずだ。事実、多くの心理療法には、必ず他者との関係性における自己了解という構造が成り立っているし、自己了解が心理的な治療の中心にあることは間違いない。そのことを、もう少し詳しく説明してみよう。


カウンセリングと自己了解


私たちは様々な歪んだルール(内的規範)を多かれ少なかれ身につけており、自分の感情、欲望を抑えるような「〓ねばならない」という感じを持つことがある。しかし、その歪んだ内的規範が極度に強くなければ、自分の感情から「〓したい」という欲望に気づき、それと対立する「〓ねばならない」という自己ルールが、自分にとって本当に必要なルールなのかどうか、将来の満足や悦び、他者からの承認に繋がっているのかどうかを知ることができる。つまり、ある程度までは自己分析によって内省し、自己了解できるのだ。

自分だけで自己了解することが難しい場合には、他者の存在が必要となる。他者が話を聞いてくれたり、反応してくれるだけでも自己了解がしやすくなることは、多くの人が経験的にわかっていることである。勿論、自分にとって信頼できる人や好きな人が、必ずしも自己了解を促してくれるとは限らない。優しくて親切に見える人でも、様々な問題を抱えているために、矛盾した言動になりやすい人もいるだろうし、そうした人と一緒にいても、相手の本音ばかりが気になって、なかなか自分へ眼を向けることできず、自己了解することができないかもしれない。だからこそ、カウンセラーは言動に矛盾のない他者として、クライエント(相談に来た人)を自己了解へと促すプロとして必要とされるのである。

カウンセリングの世界に強い影響を与えたロジャーズは、カウンセラーが「自己一致」していることを特に重視しているが、これは言動が矛盾していないということでもある。自己一致とは自分の感情に気づき、それが自分の欲望や不安を示していることを自覚し、自己了解していることなのだ。カウンセラーが自分の感情を自覚できれば、それだけ矛盾した言動は少なくなり、自分の感情と考えが一致している状態(自己一致)になることができる。この考え方は全く正当なものであり、あらゆるカウンセラー、心理療法家に求められる条件であることは間違いないであろう。

カウンセリングにおいてクライエントとなるのは、自己一致していない人たちであり、彼らは自分の感情から自己了解することが難しくなっている。だからこそ、自己了解のために他者(カウンセラー)との信頼関係が必要となるのである。そして、他者との関係に心地よい感情や信頼感があればあるほど、それだけ「知らなかった自分」を認めることが可能となる。逆にカウンセラーが自己了解、自己一致していなければ、信頼関係は築かれず、クライエントの自己了解は進展しないのである。

もっとも、ロジャーズは自己了解という概念を使っていないので、この説明は私なりに言い直したものであることを断っておきたい。要するにカウンセリングとは、クライエントが「本当の自分」をカウンセラーに教えてもらうことではなく、カウンセラーという他者と共に新しい自己を了解すること、他者によって受け入れられる自分を見出すことだと私は思う。カウンセリングは、クライエントの話を聞くことを中心に、共感的な反応を示すことで、自己了解を促していく。カウンセリングの対象であるクライエントは、そのほとんどが健常者なのだが、自分一人ではうまく自己了解できないので、自分なりの考えを自己了解できている他者(カウンセラー)に聞いてもらう必要があるのだ。


様々な心理療法と自己了解

しかし、実際にカウンセリングに訪れる人は、ちょっと手助けさえすれば自分の力で自己了解できる程度の健常者ばかりではない。神経症の患者は勿論、精神病の患者がカウンセリングを受けにやってくることもあるため、カウンセラーは専門の知識を駆使し、クライエントの状態に応じた様々な心理療法を駆使しなければならない。したがって、自分の習熟した技法では手に余るという場合は、他のカウンセラーや精神科医に紹介することも必要になるし、精神科医のほうも、薬よりも心理療法が有効だと考えられる場合には、カウンセラーを紹介したり、自ら心理療法を行うことになる。少なくとも、そうあるべきなのだ。

なかなか自己了解できないということは、自分の欲望や不安の原因が意識できない、言語化できない、ということでもある。しかし、本人は自覚できなくとも、無意識の欲望や不安は何らかの行為となって現れる。少なくともそう考えれば、それを解釈する方法も有効になるだろう。精神分析や、ユング派の分析、絵画療法や遊戯療法など、象徴を解釈する心理療法はその典型である。これは、様々な媒体に現れた表現を、抑圧されていた欲望、不安の現れとみなし、それを解釈して気づかせる方法なのだ。

例えばクライエントに絵を描かせる。そこにクライエント自身も気づかなかった無意識の欲望が象徴化される。子どもの場合は遊戯療法が有効であり、遊ばせることで、そこに無意識の欲望が行動化される。言語化することは意識化することと同じであり、それが難しいからこそ、言語以外の媒体に現れた象徴を、無意識の欲望や不安と考え、それを解釈する(言語化する)ことが有効になるのだ。そして、この解釈を「知らなかった自分」としてクライエントが受け入れるためには、やはり治療者という他者との信頼関係が不可欠になる。ここには他者との関係性における自己了解が成立しているのである。

しかし、夢や絵に現れた無意識の欲望(「〓したい」)だけを問題にし、それを意識化するだけでは、無意識化した行為の規範(「〓ねばならない」)は何も変わらない。歪んだ内的規範、不合理な「〓ねばならない」という自己ルールが変わらない限り、問題は何度でも繰り返されることになるだろう。ロジャーズ流のカウンセリング(実存的な心理療法)は、自己の欲望に気づくことの重要性を明らかにしたが、無意識を「本当の自分」として考えているため、内的規範の歪みを現実的なものへ修正する視点が欠如している。そのため、深い病理には対応しきれないのだ。

軽い神経症であれば、抑圧されたものを意識化するだけで治ることも多いのだが、内的規範が歪んでいる場合には、大きな変化は望めない。内的規範の歪みがあれば、「〓したい」という欲望があっても抑圧し、その歪んだ内的規範に準じた不合理な「〓ねばならない」感じを持つことになるからだ。しかし、内的規範の歪みが修正されれば、不必要な「〓ねばならない」という思考から解放され、「〓したい」という感情を素直に受け止めることが可能になるだろう。習慣化された思考、強く身体化されたルールは容易に修正されるわけではないため、内的規範の歪みを修正する方法、例えば認知行動療法などが必要になるのである。

認知行動療法では、まずクライエントの考え方(〓ねばならない)に根拠はあるのか、そうしなければ本当に不幸になるのかを、クライエント自身に考え直させる。しかし、内的規範は幼少の頃から身体化され、ほとんど無意識のうちに従ってしまうほど身体に染みついたルールであり、それを単純に論理的な間違いや矛盾を指摘しても、なかなか修正できるものではない。そこで、「〓ねばならない」行為とは反対の行為を何度も実行させ、それができた時には褒めたり、報酬を与えたり、あるいはリラックスした状態になるよう訓練する。そうすると、次第に「〓ねばならない」行為をしなくても大丈夫になるのである。

認知行動療法は、深層心理学的な心理療法とは全く異なった理論だと思われているが、歪んだ思考や行動をしていた自己(知らなかった自己)を了解する、という原理があることに全く変わりはない。それに、人格障害のような病理の場合、素直に行動療法のやり方に従うことはありえないし、何度も練習を繰り返す行動的アプローチが進められるためには、やはり治療者との関係性が重要になる。つまり、他者との関係性における自己了解があることに、認知行動療法も変わりはないのである。

治療者と患者の関係、セラピストとクライエントの関係は、これまで様々な形で論じられてきた。まず、治療関係を「転移」概念において考えてきた精神分析は、陽性転移においては解釈の効果が高まることを見出した。コフートのような現代精神分析になると、解釈より治療者との関係性における感情の動き(体験過程)を重視するようになっている。一方、実存派のセラピストは現実的な関係性を重視したが、なぜ他者との関係性が重要になるのかを明確にしたわけではなく、単に「他者との関係が重要である」という常識的なことを言っているに過ぎない。家族療法やナラティブ・セラピーなどは、よりはっきりと関係性の重要性を理解しているが、こちらは自己の現実や物語は他者との関係によって構成されるという考え方が強すぎる。いずれの理論も関係性の重要性を強調しているのだが、重要なのは、他者との関係における自己了解であることを見落としているのである。


心理療法と自由の意識

以上のように、様々な心理療法に共通しているのは、他者との関係性における自己了解である。全ての心理療法がこの原理に基づいているとは言えないが、代表的な心理療法には必ずこの原理があることは確かであり、また、だからこそそれらは代表的な心理療法になっているのだ。

現在、カウンセリングや心理療法の必要性が叫ばれながらも、一方では心理療法への批判やカウンセリング不要論も多く、うさんくさいという印象を持つ人も少なくない。それは、どのような原理で成り立っているのか、様々な心理療法に共通性はあるのかが、はっきりしなかったからでもある。しかし、優れた心理療法には必ず心を癒し、活力を取り戻す原理がある。勿論、かなりいい加減な心理療法も山ほどあることは間違いないのだが、有効性の認められている代表的な心理療法には、必ず自己了解が生じているのだ。

他者との関係性における自己了解、それは私たちが身近な人たちとの間で日常的に行っていることである。他者の私に関する指摘や振る舞いは、その他者の私への感じ方そのものであり、その関係性に信頼感や親和感があれば、そこに自己了解が生じる可能性は高くなる。特に他者の身体的な表出、振る舞いや表情などは、その他者の本音として了解されるし、それに対する自分自身の感情の動きも自分の本音として了解される。それがその他者との関係性そのものの了解に繋がり、その関係がよりよいものだと了解されれば、自己了解が生じる可能性はさらに高くなるのである。

そして、自己了解は「〓したい」という欲望と、「〓ねばならない」という自分のルールに気づき、自分がより求めているもの、納得できる方向に向かうことを可能にする。「〓ねばならない」という自分のルールが、本当に自分の欲望を抑圧する不合理なものなのか、それともより大きな理想を実現するために必要なルールなのか、それを判断するのは自分自身なのである。そこには自分で納得して選び取るという自由の意識が生じている。したがって、カウンセリングと心理療法は、自由の意識をもたらし、確保するための技法でもあるのだ。

自己了解を促し合うような他者との関係性、それはカウンセラーに頼らなくとも可能であるかもしれない。だが、そうした関係性に恵まれない人もいるだろうし、そもそもそうした関係性を築くこと自体が困難な人もいる。カウンセリングは必要に応じてうまく利用すればいいのであり、友人に相談できないことでも、カウンセラーになら話せるかもしれない。勿論、重度の精神障害に対してはカウンセリングだけでは通用しないので、その病の種類に応じた心理療法は不可欠である。そして、心理的な治療の基本は自己了解であり、最終的には自覚的に自らの行為を選び取り、心の自由を取り戻すことが重要なのである。