03. 精神分裂病とは何か

「精神分裂病」という言葉は最も有名な精神病の名前として知られているが、最近、この名前は差別的な要素があるとされ、「統合失調症」と呼ばれるようになった。しかし、この事情を知っている人は少ないので、ここでは分裂病として論じることにしよう。


自明性の喪失

ブランケンブルクが『自明性の喪失』において分析している症例アンネは、妄想のともなわない単純型の分裂病である。アンネの父親は彼女のやることなすことが気に入らず、まるで「ぼろぎれ」を扱うような酷い仕打ちを加えていた。母親や兄弟はそれをかばいきれず、彼女はやむなく耐え続けながら一心に勉強に打ち込んだらしい。商業実習を経て会社に入ったが、自分がまだ「ほんの子ども」で「いろんな面で人に遅れている」と言って悩んでいたようだ。他人に好かれたい、知り合いになりたいと思いながらも、半面それに対して大きな不安を感じ、「もうそろそろ安らぎの場がほしい」というのが彼女の口癖であった。

やがて両親は離婚するのだが、それから数週間が過ぎた頃、アンネは問題が次から次へと湧いてくるように思えて混乱するようになる。そして、「自分はしっかりした人間ではないから今の仕事は無理だ」と言って、結局辞職することになった。その後、看護婦見習いとしてある病院に勤め始めたが、これも二週間後に辞職。彼女は絶望的な気持ちを抱いて返事もろくにできない程だったという。次に面接した託児所が気に入ったと言い、いよいよ出勤する直前になって、突然、彼女は自殺を企てたのである。

こうしてアンネはブランケンブルクの病院へ入院することになる。彼女は自分の疑問に対する答えを極度に欲しがっていた。それは、ごくありふれた言葉の意味や、日常生活のちょっとした「あたり前のこと」である。ちょっとしたこと、でもそれなしでは生きていけない大切な何か。健康な人間であれば、時として不安に駆られることがあっても、なお存在を底辺で支えているもの。アンネはこの何かを「自然な自明性」と呼び、「それはほんの取るに足りないことです」「それは知識ではありません」「感じの問題なんです」と語っている。ブランケンブルクは次のように述べている。

「自明なものの自明性は、ありふれた、取るに足りないものという仮面に隠れて健康者の注意を免れ、意識化に対して執拗に抵抗する。通常の理解によればそれは常識に属する事柄である。」(ブランケンブルク『自然な自明性の喪失』)。

それは「日常的な意識の基盤と同一のもの」として日常性を支えており、私たちが様々なことに意味を見出だす上で背景にあるものだ。普通、多くのものごとが意味の関連性の中で瞬時に把握され、特に問題のないものとして把握されている。日常生活がこのように認識されている限り、私たちの生活は安心感のある自明な世界として把握されるのだ。つまり、自明性の喪失は意味の関連性によって織り上げられた心の秩序、内的規範の破綻を意味しているのである。

これは時間についても同じであり、過去、現在、未来へと一貫する関連性の中でのみ、時間は自然に感じられるものである。そうでなければ、いつも何もかもまるで違って感じられることになる。日常における自然な経験は、「昨日のように今日も明日も」同じように過ぎていく必要があるのだが、アンネの場合、毎日新たに初めからやり直さなければならないのである。彼女にとっては絶え間ない現在があるだけで、過去や未来は現在と連続するものではないのだ。当然、彼女自身が繰り返し述べているように、自己を主張することも、信頼することも困難となり、成熟できなくなる。毎日新たな未知の脅威の中で生きざるを得ないという不安、それがアンネの生きている世界なのである。

ビンスワンガーによれば、自然な経験とは、非反省的、非問題的であり奇異の感を与えない、ちょうど自然の連続関係のような経験である。彼は分裂病の理解にとって重要なのは「自然な経験の非一貫性」だと言うのだが、これはブランケンブルクが「自然な自明性の喪失」を主張していることとほぼ同じことだと考えてよい。自然な経験が一貫したものとして成り立つためには、日常的な事物に自然な自明性が感じられる必要があるからだ。

現象学的に考えるなら、客観的世界の実在性を確信させ、目の前の世界に現実感(自明性)を与えているのは、個的直観と本質直観だけではなく、他者の振る舞いや言動である。例えば、目の前のコップに対し、それが実在し、何かを飲むための容器だということが「あたり前」に感じられるのは、他の人たちがそれをコップと呼び、それで水やジュースを飲んでいるのを見るからである。こうした経験が繰り返されることで、私たちは他者がいない場所でさえ、コップをコップとして同定することが可能になる。つまり、他者とのコミュニケーションの中で獲得した知識が身体化され、直観として把握できるようになるのだ。これが自然な自明性を成り立たせる、基本的な経験なのである。したがって、アンネにおいても他者との交流にこそ問題の焦点は当てられるべきなのだ。

アンネは他者の自然な態度にも自明性を感じることができない。「自然にあるがままでいる人に出会うだけで、もう絶望的なのです」と訴え、「どうして人前でこんなにおかしな圧迫感を感じるのだろうか。誰も邪魔するわけではないのに」と述べているのである。他者に対して疎遠な感じを抱き、親しさが失われたとしても、周囲の人々が共謀していると感じられるわけではない。ここで他者に不信を抱き、陰謀があると感じられたなら、アンネは妄想というさらに厄介な問題を抱えることになったであろう。だが、アンネにそのような不信感はないのだ。

この「他者を感じ取れない」ことの起源は、母親を「理解できなかった」ことに遡るのではないか、とブランケンブルクは述べている。事実、アンネは母親について、「お母さんの言うことはみんなとってつけたことみたいに聞こえるのです」、「お母さんの言うことのどれが正しくてどれが間違っているのかの区別が、まだとても難しいみたいです....今でもお母さんと話していると、さっぱりわからないことが急に出てきて、また前のように何もかも疑問に思えてくるのではないかという不安があります」(同上)、と述べている。他者の自然な態度に対する不安は、母親の態度に対する不安に起因しているのだ。


共同主観的な世界の解体と妄想の構築

そもそも心の秩序は幼少期からの意味の関連づけによって形成されるものであるが、ダブル・バインド状況など、コミュニケーションにおける正確な意味の把握が妨害されれば、意味の関連づけは不完全なものになり、ふつうより格段に焦点が甘く、誤った関連づけがなされるのである。サリヴァンによれば、幼少期には多くの事物の意味に取り巻かれているが、経験によってそれらの意味は精神という容器に整理されて収められ、ほとんど無意味に感じられるようになる。分裂病者においては、この収められていた意味が溢れ出して、再び問題になるというのである。

「小児期初期が終って以来は無意味と思っていた大量のものが、再びその人の宇宙の重要成分になるのが分裂病者である。意味はいわばその容器から溢れて諸事物の上に再び氾濫する。それらのものの上をその意味がかつては蔽っていたとしても経験の教えに従って疾くの昔に撤退した諸事物である。」(サリヴァン『精神医学の臨床研究』)。

つまり、他者との交流を通して共通に了解できる意味を取り込み、関連づけられた意味の秩序、内的規範が築かれるということだ。もともと事物に普遍的な意味などないのであり、私たちは他者と共通の意味を様々な事物に見出すことで自明性を得ているに過ぎない。したがって、分裂病者において容器から意味が溢れ出すのは、再び多義的な意味の揺らぎの中に戻ることと同じであり、それは複雑な意味を帯びた未知なる脅威として現れるのである。

こうした世界の不可解さは、「一刻も早くこれらの謎を解き、あらゆる意味を把握しなければならない」「どうにかしなければ」という促迫感を生じさせる。理解しなければならない、何かが成されねばならない、しかし、何であるかは分からない。ああでもない、こうでもないと色々と関連づけたり、多くのことを試みる。この分裂病者の試みは、無意味な言葉の頻発、当て推量な応答として現れ、時には突然喋るのを中断して混乱した様子を見せるのだ。そして、ついに分裂病者は昏迷という緊張した活動停止状態に陥ることになる。昏迷、困惑状態においては、しばしば関連づけの水準に切り替えが起こり、新作言語のように自閉的な言語活動へといたる。一つの新作言語は多数の意味の媒体となっており、不明であった複数の意味の空白を同時に埋めることができる。こうして、分裂病者の話すことは理解しがたいものになっていくのである。

このような状況はしばしば誤った関連づけへと向かわせることになる。謎であった意味が明らかとなり、突然自分が求めていた答が何であるのか、それを確信することになるのである。例えば、ある朝目覚めてこう思うのだ、「どうも何か分からない、おかしいと思っていたら、みんなで俺を罠にはめていたんだな、」と。他者を介さない、誤った意味の関連づけ、それは謎を解決するために勝手な答を信じることでもあるのだ。こうして、分裂病者は誤った意味の関連づけの結果として妄想を生み出すのである。

例えば間違った関連づけが一般化の方向に向かい、「自分はイエス・キリストである」となると、これはもう妄想症(パラノイア)と言うべきである。何故なら、周囲の人間は全て彼を十字架につけようと企んでいることになり、自分が悪いから非難されていたのではなく、全ては自分の超越的存在性ゆえに、スケープゴートにされる宿命であることになるからだ。こうなれば、むしろ彼は昏迷状態から脱することができる。わけのわからぬ不安の原因が明らかとなるからである。

このように、妄想は自明性の喪失という不可解な状況から逃れるために生じた脱出口であり、説明のつく世界の再創造である。これは一般に現実の世界の苦悩に耳を塞いで創り上げた幻想の世界だと考えられやすいのだが、そもそも現実の世界自体が、他者とのコミュニケーションを通じて構成された共同幻想なのである。そして自明性の喪失とは、この関連づけの弱かった秩序が遂に揺さぶられて崩壊の危機に瀕することである。この解体の脅威から逃れるために、意識の志向性がどうにか事物を関連づけようとし、言わば秩序の再構築が試みられる。そしてこの再構築された秩序が誤った関連づけによるものであり、他者とのコミュニケーション、共感を通じたものでなければ、それこそが妄想と呼ばれるものなのである。

現実も妄想も、私たちの精神が構築したものであることには変わりない。しかし、妄想は間主観的な構成によるものではないので、周囲の人間は意識を持った自我(他我)として認識されることがなく、無名の苦しめ手、無名の力、陰謀でしかないのだ。ビンスワンガーの『妄想』によれば、諸印象を結合する志向作用の間にある意味の指示は、全ての関与者にとって同一であり、この指示によって個々の事物は関連づけられるわけだが、この意味の指示方向が他者との共有性を離れ、異常な意味の指示によって結合が起こる時、妄想は凝固してゆくのだと述べている。

そして一時的な妄想が慢性化した妄想体系を完成させると、全ての領域で感官錯誤が生じ、重い幻覚が現れることになる。自分の思考が他者の声のように聴こえたり、自分と他人の区別が不明瞭となるのだ。そしてテレパシーのような声は、夜ごと自分を苦しめるために周囲の者らが結託して放つのだと信じることになる。分裂病における妄想の世界は、私たちの想像を絶するほど恐ろしく、暗闇に閉ざされた死の世界であり、謀略に満ちた暗澹とした世界なのである。


妄想型分裂病の治療例

分裂病者の内的世界は、神経症やうつ病と違って想像することが非常に難しく、外側からその言動を見ただけでは到底理解しがたいものである。私たちがそれを少しでも知るためには、多くの症例や手記を読む他にない。そこで、精神分析家であるセシェーの記録した『分裂病の少女の手記』を読み解くことで、分裂病者の妄想世界を描き出してみることにしよう。

ルネは生まれたばかりの頃、母親がミルクを薄めすぎて与えていたため、いつも哺乳瓶を嫌がって泣いていたようだ。しかし、これを胃が弱いせいだと医師が判断したため、ミルクはさらに薄められて与えられることになった。そのため、赤ん坊のルネはますます哺乳瓶を恐れるようになる。餓死寸前となったルネを救ったのは祖母であり、彼女は麦粉を牛乳で煮込んだお粥をスプーンで食べさせてくれたのである。しかし、愛情を込めて世話をしてくれた祖母も、ルネが十一カ月になった時に突然家を去ることになり、このことは彼女に激しい衝撃を与えたようだ。ルネは泣き、頭を打ちつけ、彼女の目は祖母を探してさまよい続けたという。

その後、両親はルネが食物を要求しても、からかい、焦らし、「泣くんだったら一切何もやらないぞ」と脅したりしたらしい。父親は「ママを取り上げるぞ、ママは俺のものなのだから」と言って母親に噛み付く真似をしたり、十四カ月の頃には、ルネが可愛がっていた兎をルネの目の前で殺してしまう。また二歳の時には、冗談でルネの下着を捲り上げ、裸のルネを大声でからかっており、彼女の心はかなり傷つけられたようだ。

五歳になると、父親の女性問題で家庭内に言い争いが生じるようになる。母親はルネに父親を監視するよう言いつけたり、「お前達をおいて出ていくよ」と脅したりし、父親は「なあ、生きてなんかいたくないだろう」と言って、一緒に死のうとさえ言ったのである。このためルネは恐怖に怯え、父親に対して激しい怒りと軽蔑を感じたという。

この頃から、ルネは自分の影を自分に敵意を抱くもう一人の自分のように感じ始める。影はルネの行動を真似してからかい、機会があれば彼女に飛び掛かろうとしたので、彼女は報復を恐れて影を踏まないように気をつけるようになった。こうして非現実的な感覚は、その萌芽を見せ始めるのである。やがて父親があり金を全部持って女性と失踪したため、母親に「生きていたくなんかないわね」と言われ、本当はルネを生みたくなかったこと、ひどく醜い赤ん坊だと思ったのだと聞かされてショックを受ける。さらに母親は、ルネが自分を愛していない、教会に通いすぎると言って非難するようになり、倒錯的傾向があると責めたり、「いやらしい」と言って叱ったりするようになる。十三歳となっていたこの頃までには、非現実感の頻度は急速に高まり、妄想的になり始めたのである。

「私のまわりにいる他の児童達はうつむいて一生懸命仕事をしていましたが、彼らはまるで目に見えないカラクリで動いている、ロボットか操り人形のようでした。教壇の上では先生が話しをしたり、身振りをしたり、字を書くために黒板を上げたりしていましたが、それもまたグロテスクなびっくり箱の人形のようでした。そしてこの幽霊のような静けさは、遥かな彼方から聞こえてくる騒音によって破られ、無慈悲な太陽が生命と動きを失ったその室を照らしていました。たとえようもない恐怖感が私をとらえ、私は叫び出しそうでした。」(セシェー『分裂病少女の手記』)

周囲の人間がロボットや人形のように感じられるということ、それは他者がすでに生きた存在としては感じられないことを示している。他者に心を感じられなければ、他者とのコミュニケーションの中で様々な意味を関連づけることはできない。特に、その重要な役割を本来果たすべき他者である両親は、ルネを愛しておらず、むしろその情緒不安定な対応によって彼女をダブル・バインド状況に置いたのだ。母親に愛されているのか、愛されていないのか、生きるべきなのか死ぬべきなのか、彼女が拠り所とすべき価値、秩序のモデルは存在せず、混乱の中で生きることになるのである。

必然的に意味の関連づけは焦点の甘いものとならざるを得ず、絶えず崩壊の危機を孕みながら思春期を迎えることになる。やがて彼女は、無機的で不気味な世界における、例えようもない不安の原因を発見する。ある巨大な〈組織〉が存在し、その〈組織〉の最高位を占める人々が命令を発し、自分を苦しめているという確信が生じるのだ。「すべての人はその〈組織〉の一部でした。しかしその中のごく一部の人だけが彼らが〈組織〉の一部だということに気づいていたのです」(同上)。それに気づいている自分は特別な存在であり、だからこそ〈組織〉に苦しめられるのだという彼女の結論は、すでに妄想について考察してきた私たちには十分理解できる論理展開であろう。

この頃からルネは、授業中に大声で独りごとを言い、「天国の鍵を持っているのは誰ですか」などと突飛な質問をするようになる。また、よく使っている単語の綴りができないこともあり、その単語をどう結びつけていいのか解らないこともしばしばであった。ノートの上に奇妙な幾何学図形を描き、これが〈組織〉で地球を爆破させるための機械であると説明したりするのである。さらにルネの精神状態は悪化の一途をたどり、不安、幻覚、衝動的な自慰を示すようになる。入院時にルネと一緒にいた少女によれば、ルネは絶えず動いて跳ね回り、絶え間なく笑っていたという。世界を爆破する機械のことを喋ったり、一晩中起きていることも多かったらしい。

二十歳になり、精神分析家のセシェーが治療を始めた頃には、ルネは病識もなく、現実感の欠如、離人感、幼児性退行を示していた。そのため、セシェーはルネを治療する上で大きな問題に突き当たることになる。何故なら、精神分析は患者の欲望を解釈し、それを患者に理解させることを主たる目的としているが、仮にルネの不安や欲望を正確に解読できたとしても、その解釈を理解することは無理な状態にあったからだ。だからこそ、今日においても精神分析を分裂病に使うことは不可能だと言われているのである。

しかし、セシェーは「象徴的実現」という独自の方法を開発し、この困難を乗り越えることに成功する。それは、ルネと同じ象徴の次元でコミュニケーションをする方法なのである。そして、この試みは、ルネが緑の野菜と緑のリンゴしか食べられなかったので、そのことをきっかけに始められることになった。

「そこで私はルネに、欲しいだけリンゴをあげますよと言うと、途端にルネは叫んだ。『ありがとう、でもそれはお店のリンゴなのでしょう、大人のリンゴなのでしょう。私が欲しいのはママのリンゴなの、そこにあるような』とルネは言って、私の胸を指さした。『そのリンゴなの。お腹のすいたときだけ、ママはそのリンゴをくれるの。』」(同上)。

緑が大地や樹木などの自然を象徴しているとすれば、それは母なる大地という言葉に象徴されているように、母性を表わしていることになる。だとすれば、緑のリンゴは樹(=母親)についたままのリンゴ、つまり母親の乳房を象徴しており、緑の野菜は大地(=母親)の生産物、母親の生み出したものを象徴していることになるだろう。そこでセシェーは、「ママのリンゴのおいしいお乳を飲む時間ですよ。これからママがルネちゃんにお乳をあげますよ。」(同上)と、リンゴを差し出して言ってみた。するとルネは、セシェーの胸にリンゴを押し当てて食べたのである。

セシェーによれば、満たされていなかった母乳への欲望は、彼女の妄想体系の中で緑のリンゴという別の象徴で表現されていた。この欲望を満たすためには、緑のリンゴから煮たリンゴ、次いで本物の牛乳の入ったオートミールへと、近接する象徴を順次移行させながら、私たちと共通の秩序へと導く必要がある。そして、ひとたび欲望を満たすことができると、その象徴には関心が失われてしまい、その都度ルネの精神状態は良くなっていったのだ。

関心が失われるのは、その象徴が自明なものとなってしまったからだと考えられる。つまり、妄想秩序が崩れ始め、私たちと共通の秩序が築かれ始めたのである。何故なら、自明性は他者と共通に了解された意味となって初めて構成されるからだ。その他者としての重要な役割は、本来は母親が果たすものなのだが、その代わりをセシェーが担ったと言えるだろう。ルネにとって、セシェーも自分と同じ主観を持つ存在として、同じ世界を見ていると感じること、それこそが自明性、現実感をもたらすことになるのである。こうしてルネは分裂病を克服し、二度と再発することはなかった。

セシェーは満たされていない欲望の充足のために、患者の退行した幼児水準の象徴を利用することを重視したわけだが、私はこの説明だけでは不十分だと思う。例えば、満たされなかった母乳への欲望があった、だから象徴を使ってその意味を解読し、実際に乳を与えたことでよくなっていったのだとすれば、母乳という欲望の対象が問題であったかのようにも解釈できる。しかし、ルネが本当に求めていたもの、それは母親の愛である。自分が何を欲しているのかを母親が理解してくれること、そしてそれを与えてくれることは、母親が自分を愛している確かな証拠になるのだ。

つまり、セシェーの分析に決定的に欠けているもの、それはセシェーとルネの関係にすでに転移が生じていたのか、その関係に信頼と愛情があったのかどうか、という点なのである。そして、この関係性への欲望が満たされたとき、間主観的な共通了解の基盤が整ったことになる。ここまでくれば、他者との関係性の中で共通に了解できる意味を獲得し、現実性を取り戻すことが可能になるのである。

幼少期からの両親の不適切な対応ゆえに、彼女の秩序は不完全にしか形成され得なかった。そのために事物の関連性は不透明なものとなり、自明性を感じることが困難になったのだ。やがてそれは非現実感を誘発し、意味を関連づけていた糸が切れた時、つまり心の秩序、内的規範が壊れた時、増殖した未曾有の意味の脅威は収拾のつかない混乱をもたらすことになる。そこで彼女の精神は最後の方途を選ぶことになる。解体しかけた秩序の立て直し、再構築への試みである。しかし、この試みは独断的な誤った設計に基づくものであり、妄想となってなお彼女を苦しめることになった。したがって、妄想秩序を崩すだけでは自明性の失われた苦悩だけが残ることになるので、新たなる秩序を構築することが必要となる。セシェーの象徴的実現という方法は、共同世界に属する私たちとのコミュニケーションを通じて、その共通する共同主観的な秩序を再構築する試みだと言ってよいだろう。