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01. フロイト『精神分析入門』第1講 序論

(フロイト著作集1)

医学の授業では実地で目に見る観察が主となります。みなさんは対象に直接触れることができ、自分の目で新事実の存在を確認することができるのです。しかし、精神分析では言葉のやりとりがあるだけです。患者は過去の体験を語り、嘆き、その願望や感情の動きを打ち明けます。医師はこれに耳を傾け、患者の思考や動きを指導しようと試み、その注意を特定の方向に向かわせます。「言葉はもともと魔術でした。言葉は、今日でもむかしの魔力をまだ充分に保存しています。われわれは、言葉の力によって他人をよろこばせることもできれば、また、絶望におとしいれることもできるのです」。「言葉は感動を呼び起こし、人間がたがいに影響し合うための一般的な手段なのです。ですから、心理療法において、言葉を手段として用いることを軽視してはならないのです」(p.11)。

ただ、精神分析における会話について、みなさんは傍聴することができません。「分析にとって必要な報告が得られるのは、患者と医師との間に特別な感情の結びつきが成立した時にかぎるのです。もし、自分と関係のない聴き手がひとりでもその場にいるとわかれば、患者は口をとじてしまいます。それというのも、患者が口にすることは、心情生活の最も内奥にあるもの、自分が一箇の独立した社会人としては他人に隠して置く必要のあるものさらに統一ある人格として自分自身にすら告白したくないようなものに関係があるからなのです」(p.12)。

次のような疑問を抱くかもしれません。精神分析に客観的な確証がなく、観察して学ぶこともできないなら、どうして精神分析を身につけ、その主張が真実であると確信できるのか、と。「精神分析はまず自分自身の身体について、自分という人間を研究することによって習得されます」(p.13)。技法を少し学べば、自分自身を分析の対象にできますし(自己観察)、ある程度まで精神分析の正当性を確信できるはずです。ただし、この方法には限界があります。練達した分析者に分析してもらい、分析の効果をわが身に体験できれば、そして他人が分析を受けているところをこっそり聞くことができれば、かなりの進歩を遂げることができるでしょう。

また、みなさんは心理学的な思考法に慣れていないため、その種の考え方に科学性を認めず、治療効果の一部を素人医者や自然療法家、神秘主義者に譲り渡していないでしょうか。医学の枠内では、精神障害の病態像を構成している症状も、その発生の理由や機制や相互の結びつきについては未知のままです。症状に対応して、心の解剖学的器官である脳の変化が証明できるわけでもなく、またそのような変化から症状を説明することもできずにいます。「精神分析は精神医学に対して、いままで欠けていた心理学的基礎をあたえようと意図し、身体的障害と心的障害との合致を理解させる基礎となる共通の基盤を発見しようとしているのです」(p.14)。

精神分析には世間から好まれていない二つの主張があります。一つは、「心的過程はそれ自体として無意識的であり、意識的過程は心的全活動のたんに個々の作用面であり、部分であるにすぎない」(p.15)という主張です。われわれは、心的なものと意識的なものとを同一視するのに慣れており、意識とは心的なものの基本的特質だと考えているため、この主張は非常識なことに感じられるのです。しかし精神分析は、無意識の思考や無意識の意欲があると主張せざるをえません。「私は無意識的な心的過程が存在するという仮定を立てることによって、世界の学問にとって全く新しい方向づけが可能になったと断言するのです」。

もう一つは、「性的なものと呼ぶよりほかはない欲動興奮が、神経と精神の病気の原因として、これまで正しく評価されなかった大きな役割を果たしている」(p.16)という主張です。「それどころか精神分析は、この性的な欲動興奮は、人間精神の最高の文化的・芸術的ならびに社会的創造に対して、軽視することのできない大きな貢献をなしてきたと主張するのです」。文化は欲動の満足を犠牲にして創り出されるのであり、欲動が昇華された結果として生み出されます。しかし、それは不安定なものであり、性の欲動が解放されれば文化は脅威にさらされます。社会は、社会の根底をなすこのきわどい部分にふれるのを好まず、性の欲動の強さが公認され、性生活の意味が解明されればいいという関心は持っていません。精神分析の成果を道徳的に非難すべきもの、危険なものだと見なしています。しかし、もし反論したければ、知的な領域の問題として主張しなければなりません。