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09. A・フロイト『自我と防衛』

自我と防衛

・アンナ・フロイト『自我と防衛』(誠信書房)より作成

(2001.12.4)

第一編 防衛機構の理論

1章 自我の位置と役割

フロイトが精神分析を始めた頃は、自我は問題にされず、深層の無意識を明らかにすること、抑圧された衝動や感情、空想を研究することが重要であった。つまり、精神分析は深層心理学と同じものと見なされていたのだ。しかし、実際に患者を治療しようとすれば自我の錯乱に直面するため、その異常さを取り除いて自我の健康を取り戻すことが必要となる。1920年、「快感原則の彼岸」と「集団心理学と自我の分析」において、フロイトは自我の研究の端緒を開いた。現在の精神分析の課題は、人格を構成するエス、自我、超自我と呼ばれる三つの部分(審級)の相互関係、外界との関係を研究することにある。1920年以前の精神分析ではエス(無意識)を明らかにすることが課題だったが、以後においては自我の構造を明らかにすることが新しい課題となったのである。

自我を研究すれば、エスや超自我は自我を媒介にして間接的に知ることができる。エスは意識に現れたときに間接的に推測できるだけであり、超自我もはっきり意識されているわけではない。自我の変化の仕方を見れば、どのようなエスの衝動があるのか、どのような超自我の命令が働いているのかが明らかになるのだ。

「エスの領域は、いわゆる《一次過程》とよばれるような性質をもった領域である。すなわち、この無意識的な領域においては、観念はバラバラで、論理的な統一がなく、ある観念は他の観念と置き換えられやすく、互いに対立しているものが排他的にならず、矛盾せずに並存している。」(p.9)。「これに反して、自我の領域においては、観念は厳格な規則にしたがって連合される。論理的に理路整然としている。これがいわゆる《二次過程》と呼ばれているものである。すなわち、二次過程は、衝動を簡単に満足させないようにする。満足させようとするならば、自我の承認を得なければならない。」(p.10)。現実のルールを無視して衝動を満足させることはできないのだ。その上、超自我が倫理的、道徳的規範によって自我を統制しているため、この規範に一致しなければ衝動を満足させることはできない。

「衝動は自我から批判され、変容をせまられるので、尋常な方法をすてて、奇襲作戦をこころみ、自我を圧倒し、満足を得ようとする。衝動がこのような敵意にみちた侵略をするから、自我は疑いぶかくなる。自我は反攻作戦をこころみ、逆にエスの領域のなかに侵入してゆこうとする。自我の反攻作戦の目的は、衝動を永久に沈黙させることである。自我は適当な防衛法を利用して、衝動の侵略をふせぎ、自分自身を維持しようとする。」(p.10-11)。「われわれが知ることのできるのは、歪められない、もとのままのエスの衝動ではなく、自我が反攻作戦につかう防衛法によって変形され、自我の色彩が加えられたエスの衝動である。分析者の研究課題は、心理過程がエス、自我、超自我の間につくられた妥協の過程であることを明らかにすることである。」(p.11)。

2章 エス、自我、超自我は分析的にいかに研究されるか

精神分析療法が発見される以前の催眠法においては、無意識的なものを理解しようとはしていたが、自我の役割はほとんど考えられていなかった。むしろ、自我は催眠を妨げるものであるため、催眠は自我の妨害を除去し、深層の無意識を明らかにするものであった。無意識を患者に説き聞かせ、意識化させれば症状は消える、というわけだ。しかし、無理に意識的されたエスの衝動に対して、自我は新たな自己防衛の抗争を始めるため、催眠法の効果は一時的なものでしかない。

1895年、フロイトとブロイアーの「ヒステリー研究」において明らかされた自由連想法では、自我を強いて除去することはなかった。そのかわり、自我は連想を評価したり論理的関係に気を配ることを禁じられ、エスが話しやすくなるように自制を求められる。しかし、催眠と違って自我は元気であるため、様々な防衛法を使って連想の流れを邪魔し、自我はエスに対して《抵抗》を示す。分析の規則を厳守させようとすることが、むしろ葛藤を生み出すのだ。そこで、分析者の注意は連想から抵抗に、エスの内容から自我の活動に移される。連想に及ぼす影響から、どんな防衛法を使ったのかを明らかにし、自我を再構成するのだ。したがって、分析者の任務は防衛機構を知ることであり、次に防衛機構によって歪められたものを元通りにすることである。置き換えられたものを修正し、分離されたものを真の文脈に戻し、切断された関係を統合させる。そこで、もう一度自我分析からエス分析に注意を移すのだ。精神分析は一方向的な催眠法と違い、自我とエスの二方向に交互に注意を向けながら治療する方法なのである。

患者が分析の根本規則に従っている時は、意図的に自我の機能を停止しているのだが、夢を見ている時は、眠りによって自我の機能は自動的に停止している。したがって、夢の解釈は、潜在夢の思想を明らかにする限りではエスの研究に役に立つ。夢における象徴を解釈すれば、エスの内容が明らかになるのである。一方、夢における歪曲や置き換えからは、自我の防衛を知ることができる。

転移の解釈も自我分析とエス分析に分けることができる。「患者が分析者に対して経験するあらゆる衝動興奮が、転移とよばれるものである。この興奮はそのときの分析状況にそくして新しくつくりだされたものではない。この興奮は小さいとき――ほんとうに全く幼児時代の対人関係に起源をもち、分析中に反復強迫のために再生されたものにすぎない。」(p.24)。そのため、転移は患者の過去の情緒的経験を知るのに都合がよい。転移は次の3つに分けられる。

a.感情転移: 患者は分析者に対して、愛、憎しみ、嫉妬、不安のような激しい感情を抱き、
自分の感情がかき乱されていると思う。これらの感情の源泉は、幼児期の感情関係、エディプ
ス・コンプレックスや去勢コンプレックスの中にある。この転移から、幼児期の衝動生活を明
らかにすることができる。

b.防衛の転移: 幼児期の衝動だけでなく、その時の防衛法まで強迫的に反復する。この場合、
分析の焦点を衝動から特定の衝動防衛の機構に、つまりエスから自我に移すほうがよい。この
転移を解釈することは、エスの内容だけでなく自我の活動も明らかにすることができるのだ。

c.行為に移された転移: 日常生活では自我の方が強いのだが、分析状況ではエスの方が強く
なるようにしむけられる。転移が強くなると、転移の感情に含まれている衝動や防衛を、日常
生活の行為に現しはじめる。この行為を解釈すれば、自我やエスに供給された実際のエネルギ
ー量も明らかにすることができるが、これは防衛の転移より扱いにくく、治療的に利益の少な
いものであり、避けられねばならない。

今日の精神分析においては、自我の大部分が無意識的なものであることがわかり、自我分析が重要なものとなってきた。しかし、自我の抵抗ばかりを分析していれば、エスの内容は犠牲にされざるを得ないし、強度の転移は多くの材料を提供するが、行為に移されれば分析状況を越えたものになり、治療関係を修正することが困難になる。自我分析とエス分析のバランスが大事なのである。

3章 分析の対象としての自我の防衛活動

「分析者の課題は、無意識的なものを意識的にすることである。無意識的なものは、エス、自我、超自我のいずれの領域にもふくまれている。どんな領域にふくまれていようと、とにかく、無意識的なものを意識的にすることが分析の課題である。分析者はいずれの領域にふくまれている無意識的なものにも、平等に、客観的に注意をむける必要がある。」(p.36)。

あらゆる抵抗は自我の防衛工作から起きてくるため、抵抗としてあらわれるものはすべて自我分析に役立つ。また、自我は衝動にともなっておきる情緒に対しても、抑圧、置き換え、転倒のような防衛法を利用して情緒の表出を防ごうとする。したがって、情緒の変化から自我を知ることもできるのだ。自我の防衛を研究できるもう一つ分野は《性格》である。性格は過去において旺盛であった防衛過程の名残りであり、ある防衛過程が繰り返されることで永続化され、現実に防衛すべき状況から離れて《性格の装甲》(ライヒ)にまで発展するのだ。性格の装甲を分析する場合、防衛法は凝固した姿でしか理解されないし、意識にもたらすことは難しい。

特定の神経症と特殊な防衛法の間には規則正しい関係がある。例えば、ヒステリー患者は衝動の侵略に対して、抑圧によって観念表象を意識から排除する。強迫神経症の場合は、衝動を全体の文脈から切り離し、観念表象と情緒を隔離してしまう。

児童分析においては自由連想が使えないという欠点がある。エスの情報は自由連想でなくとも、例えば夢や遊戯、描画などから理解することができるが、自由連想を使わない分析は、分析の根本規則(自我の自制)によって生じる葛藤を生み出すことができない。この葛藤こそ自我に抵抗を生じさせ、防衛活動を明らかにすることができるのである。つまり、児童分析はエス分析には強いが、自我分析には弱い、ということだ。イギリス学派は児童の遊戯を大人の自由連想と同格に扱いうると考え、遊戯の中断を自由連想の中断と同じように見なし、自我の防衛を明らかにできると主張している。しかし、これは象徴解釈を極端にまでおしすすめる危険があるので適当ではない。自由連想を使えないという欠点は、情緒の変化の分析によって補えばよい。例えば落胆するかと思うと無関心であったり、嫉妬するかわりに親切である場合、通常の情緒の変化を妨げる自我の防衛が働いていると考えられるのだ。

4章 防衛機構

フロイトが防衛という言葉を最初に使ったのは「防衛〓精神神経病」(1894)だが、その後、防衛という言葉はあまり使用されず、抑圧という言葉が使われるようになった。しかし、「制止、症状、不安」(1926)の補注で、フロイトは防衛という概念を見直し、自我が利用する手段一般を防衛と呼んだほうがよい、抑圧は防衛の一種だと述べている。そして、特定の症状と特定の防衛法には緊密な関係があることも、すでにフロイトによって示唆されているのである。例えば、ヒステリーには抑圧、パラノイアには投影、強迫神経症には転倒が利用されるのだ。自我の防衛法は、退行、抑圧、反動形成、隔離、打消し、投影、取り入れ、リビドーの自己への向け換え、転倒、昇華あるいは置き換え、という十種類が考えられている。

若い婦人の事例: 彼女は兄弟の影響で男根羨望に苦しめられ、嫉妬心から母親に激しい敵意を感じていた。しかし、一方では愛情も強かったために、この敵意は母親を失う不安を引き起こし、自分を激しく批判するようになる。この愛憎の矛盾した葛藤を解決するために、彼女は憎しみの感情を母以外の他人に向けた(置き換え)。しかし、この置き換えでは葛藤は十分に解決されなかったため、憎しみを内に向けるようになる(リビドーの自己への向け換え)。今度は自虐的傾向が強くなったため、自分が他人を憎んでいるのではなく、他人が自分を憎んでいるのだ、と確信するようになる(投影)。こうして彼女は罪悪感から解放されたのだが、愛されているという感じを持つことはできなくなった。投影という防衛機構を利用したことは、彼女の性格にパラノイアの刻印をおすことになったのである。

もし彼女が憎しみを抑圧によって解決し、身体的症状に転換されていたなら、ヒステリーとなっていただろう。同じように憎しみが抑圧されていても、抑圧されたものが逆戻りしないように反動形成が作られていたら(つまり母に過度にやさしくなっていたら)、そして強迫的な儀式によって攻撃衝動が爆発しないように防衛されていたら、強迫神経症となっていたかもしれない。自我が抑圧を利用するなら、葛藤は解決されるがヒステリーや強迫神経症になってしまう。抑圧は他の防衛法に比べると独特な位置を占めており、強大な衝動興奮をも克服することができるのだが、情緒的、衝動的生活から意識的なものは追放され、自我の統制はなくなり、永久に人格の統一を破壊する危険性がある。このため、神経症になりやすいのである。

すでにフロイトも指摘していたように、エス、自我、超自我が分化した心的体制で利用される防衛法と、それ以前の防衛法では違いがある。自我とエスが分化していなければ抑圧は問題にならないし、抑圧や昇華は発達過程の後期に使用される。退行、転倒、リビドーの自己への向け換えは、おそらく発達的差異に関わりなく、衝動と同じくらい古いものであろう。投影や取り入れは、自我と外界が分化していなければ利用できないと考えられる。しかし、イギリス学派によれば、自我が外界から分化するのは投影や取り入れの機構によるものである。

5章 不安や危険にもとづく防衛過程の概観

大人の神経症の場合、自我が衝動を恐れるのは超自我を恐れているのであり、自我の防衛は超自我にもとづく不安によって生じている。超自我は理想的基準を代表し、その基準に照らして性欲を禁止し、攻撃を反社会的であると決めつける。自我は独立性を失い、超自我の願望を遂行する道具の位置に格下げされるのである。自我は必ずしも願望を認めないわけではないが、超自我が衝動の満足を禁止しているため、その命令に服従して、エスと抗争せざるを得ないのだ。

「もし、神経症が超自我の峻厳さからつくられるものであるならば、子どもの養育を受け持っている人々が、ただ、過度に厳格な超自我を形成するようなことは、どんなこともしないようになればよい、ということになる。」(p.70)。子どもは同一視によって、両親を手本にして超自我を作るので、両親は子どもに対し、極端に厳格な道徳的掟を見せつけるべきではない。攻撃性についても、外界へのはけ口が必要である。そうすれば、子どもは大人になっても残忍な超自我の不安に怯えずにすみ、神経症になる心配もない、という考え方もある。しかし、こうした(ライヒや一部の教育者による)理想は、現実的なものではない。実際には超自我に関係なく神経症になる場合あることは、幼児神経症を見れば明らかである。

子どもの神経症の場合、衝動に対する防衛は超自我の不安ではなく、現実の不安によって起こされる。幼児の自我は、養育している人たちが衝動の満足を禁止するため、そうした現実的な罰(特に去勢)を恐れるのである。重要なのは、外界からの不安であろうと、超自我の不安であろうと、不安によって防衛過程が起こるということだ。また、超自我や両親の援助がないと感じる場合、そして衝動が過度に強い場合においても、自我の不安が生じ、神経症になることがある。自我の不安は、良心の不安や現実の不安によって、普段は隠されているのである。

「分析という治療は、患者の防衛をとりのぞき、これまで防衛されていた衝動の興奮や情緒をあらためて意識にもたらし、自我が超自我や衝動や情緒ともっとも安全なかたちで和解できるようにすることである。」(p.79)。防衛が超自我の不安によって起きている場合は、葛藤は全く心理的な問題であるから、超自我が穏当なものになれば和解は容易である。幼児神経症のように現実の不安が問題である場合は、養育者の態度変更が必要である。分析は自我を強める場合もあれば弱めることもある。自我を強めることができれば、治療は成功に向かっているのである。


第二編 現実の不安や現実の危険をさける例 ― 幼児期の防衛 ―

6章 空想における現実否認

防衛の精神分析的研究は、エスと自我の葛藤(ヒステリー、強迫神経症の分析)にはじまり、次に自我と超自我の葛藤(メランコリーの分析)、自我と外界(現実)の葛藤(動物恐怖症の分析)へと、その研究を進めてきた。特に幼児期は身体的に弱く、誰かに頼らなければならないので、現実の不快や危険にさらされやすい。では、幼児はどのように外界に対して防衛するのだろうか。

ハンスの動物恐怖症: ハンスは母を愛し、父には嫉妬のために攻撃的であった。しかし、父を愛してもいたので、攻撃的衝動の罰として、自分は去勢されるのではないか、という不安がおきた。この去勢不安を現実の不安と同じように恐ろしく感じたので、まず《置き換え》という防衛法が利用された。父に対する不安は動物への不安に置き換えられ、父に対する恐怖を《転倒》して、父から迫害されているという不安に換えた。さらに、口唇期の特性である、咬み切られるのではないか、という不安にまで《退行》した。こうして、母への禁止された愛情、父に対する攻撃衝動は意識から消えたのだが、去勢不安はウマへの恐怖として残り、戸外へ出ることを断念しなければならなくなった。ハンスの恐怖症を治すためには、不安がウマとは関係ないことを示し、その後で父を恐れる必要もないことを示す必要がある。しかし、ハンスは恐怖症が治った後も、父より身体(性器)が小さいことで、父への嫉妬、攻撃性は残っていた。そのため、ハンスは「鉛管工が釘抜きで尻と性器をぬきとり、より大きく、より立派なものにつけかえる」という空想(父と同じ性器をもつ空想)によって、現実を否認し、自分の願望を満たしたのである。

大人と動物を同一視することは、正常な子どもでもよく見られる。ある7歳の少年は、ハンスと同じように父親を動物(ライオン)と同一視することで、父への不安を動物に置き換え、空想の中でライオンを飼い慣らすことで不安を解消している。つまり、空想によって現実の不安を否認すること、特に動物空想によって父への不安を解消することは、子どもではよくあることなのだ。こうした白昼夢は、やがて自我の現実検討の力が強くなってくることもあり、児童期の初期が過ぎる頃にはなくなってしまう。

7章 言葉や行為における現実否認

大人が子どもに与える喜びのうち、多くのものは現実の否認によってつくり出される。小さい子どもに「なんと大きいんでしょう」と言い、事実は逆であるのに、「お父さんのように」強い、「兵隊のように」勇敢だ、などと言う。子どもが怪我をすると「もうよくなった」と言い、子どもが嫌いな食べ物だと「ちっともまずくない」と教え、誰かがいなくなって寂しがると「すぐ帰ってくる」と言う。子どものほうも、こうした慰め方を利用するようになり、苦しいことがあると「なんともない」といつも決まって言い、母親が部屋からいなくなると「ママ、すぐくる」と呟いたりする。しかし、こうした子どもの強迫的現実否認は、その環境から逃れようとするもので、それ自身病的な性格をもつものではない。

強迫神経症においては、反動形成が禁止された衝動興奮を逆転し、抑圧は反動形成に加勢されて安定する。子どもが空想、言葉、行為によって現実を転倒する場合も、同じような不安の解消ができる。(ただ、神経症の場合は内在化された葛藤が問題だが、子どもの場合は外界への防衛であるところに違いがある)。言葉や行為による現実否認の防衛方法は、空想における現実否認と同様、自我の現実検討の力が強くなる頃には利用できなくなる。しかも、空想なら誰にも知られることもないが、言葉や行為は外界に表出されるため、外的条件によってより制限されるのである。

8章 自我機能の制限

現実否認と抑圧、空想と反動形成の間には類似点がある。外界の不快と内界の不快を避けようとする方法の間には、ある平行関係があるのだ。子どもがもう少し成長してくると、現実否認のような方法を用いなくても、外界の不快を避けることができるようになる。実際に不快になるような場面を避けることができるからだ。特に他人の優れた成績を見ること(遊びや運動、勉強など)は、父親(女の子の場合は男性)への劣等感、自分より大きな性器への嫉妬に繋がっているため、その活動を止めることになる。(* アンナ・フロイトは去勢コンプレックスの考えを踏襲しているため、自我の劣等感情を去勢不安やペニス羨望に還元する傾向があり、問題を複雑にしてしまっている)。自分の活動を制限し、不快なことに遭遇しないようにすること、これを自我機能の制限という。

自我機能の制限は、神経症の制止との間に平行関係が見られる。神経症の制止は禁止された衝動が行為に移されないように防衛しているのであり、それは環境が変わっても変化しないが、自我機能の制限は外界に対する防衛であるため、環境の条件によって変化する。制止の背後には衝動的願望があるため、単純な制止で間に合わなくなると神経症になるのだが、自我機能の制限の場合、制止のような葛藤は起きない。それは外界の不快を避けることが目的なのであり、自我発達の正常な過程なのである。しかし、過度に逃避ばかりしていれば、それは自我の貧困化、神経症的な制止に繋がってしまう。そのため、最近の教育学のように自由ばかりを与えるやり方は、決して好ましいことではない。


第三編 防衛の二つの類型

9章 攻撃者との同一視

《同一視》は超自我の形成に必要な機構であると同時に、衝動の克服に役立っている。例えばあるチックで顔がひきつる少年は、いつも彼を怒っていた先生の顔つきにそっくりであったし、幽霊を恐れていたある少女は、幽霊の格好をして不安を克服していたという事例がある。ここには攻撃者との同一視が見られる。子どもは不安を与える人の属性を取り入れ、攻撃を模倣することで、恐怖を与えられる者から恐怖を与える者に変化し、不安を処理するのだ。

攻撃者との同一視は超自我の発達に必要な前段階であり、自分の行為に対する他人の批判を内在化することに繋がっている。「子どもはたえずこの内在化の過程を反復し、自分を教育してくれる人の特質を自分のものにするようにとり入れ、その人たちの属性や意見を自分のものとし、超自我を形成するに必要な材料をあらかじめ準備しているのである」(p.144)。しかし、この内在化だけでは自己批判の能力は形成されないので、子どもは批判を外界に向けてしまう。批判を受け入れた瞬間に、自分の罪を他人になすりつけてしまうのだ。この防衛機構を《投影》という。

批判する権威を超自我として取り入れ、禁じられた衝動興奮を他人に投影するため、自我は、最初は他人に対してのみ厳格になる。他人への非難は罪悪感の先駆なのだ。「真の意味での道徳は、超自我の批判と同じような意味を持つように、とり入れられた批判が内在化し、そのために、自我が自分の過誤を自覚するようになるときにはじめておきてくる。その頃から、超自我の厳しさは外でなく、内に向けられ、他人に対する不寛容さは次第になくなってゆく。」(p.148)。こうした超自我の発達過程において、他人への攻撃性が残っている場合は、メランコリー患者の超自我が自我に対して冷酷非情であるのと同様、他人に対しても冷酷になる。また、投影が同性愛的衝動に対する防衛となる場合は、愛は憎しみに《転倒》され、パラノイア的な妄想を起こさせる。

10章  愛他主義

投影は、危険な衝動興奮を意識すると、その危険を自我とは関係のないものとしてしまう。イギリス学派によれば、まだ抑圧の生じていない生後数ヶ月の頃、幼児はすでに最初の攻撃的興奮を外界に投影するという。この時期にはまだ自他の区別がはっきりしていないため、投影が利用されても不思議ではないだろう。投影によって、自我は自分を批判する代わりに他人を非難するようになるため、人間関係は損なわれる。しかし、自分の衝動興奮を他人に「愛他的に譲渡」した場合、逆に人間関係を強固にすることもある。例えば、衝動を満足させる代理人に同一視した場合、代理人の願望に対しては理解を示して寛大となり、自分に対しては反動形成によって厳しくなることがある。自分の衝動を他人によって満足させようとするため、愛他的行動となるのである。例えば、男性の夢のために過剰に尽くす女性、理想を子どもに求める親、ある種の慈善家、ロスタンの戯曲「シラノ・ド・ベルジュラック」など。


第四編 衝動の強さにもとづく不安の防衛 〓 思春期を例として 〓

11章  思春期における自我とエス

精神分析では、性生活は幼児期からすでに始まっていると考えるため、思春期を特に問題にすることは少ない。ただ、思春期は幼児初期、更年期とともに、エスが強化され、自我が弱体化される時期として考える必要がある。これは、エスは生涯を通じてほとんど変化しないのだが、自我が変化するためである。

幼児の場合、自我は自分の願望を自覚し、衝動に対する自分の力を反省できるほど強くはない。エスに対する自我の態度は、外界から命令されたものに過ぎないのだ。外界の影響を多く受ければ「よい」子だと言われ、衝動を制限しようとしないなら「わるい」子と言われるのである。やがて、衝動の要求が大きくなり、現実の不安が強くなってくると、内的な葛藤が生じるようになる。この葛藤によって、衝動を克服しようとする自我の機能が形成される。自我はある程度まで衝動を抑制できるようになるのだ。潜在期になると、自我は新しい内容、知識、能力を獲得し、外界に対してより強くなってくる。両親への依存に代わって同一視が現れ、両親や教師の願望や理想はますます自我に取り入れられる。こうして環境の要請に一致する永続的な組織体制、超自我が形成されるのである。

思春期になると、身体的成熟によって活気を与えられた衝動は、性衝動として心理的なものになる。そして自我とエスの間に新しい内的葛藤が生じるのである。潜んでいた口唇的、肛門的関心は再び表面に現れ、獲得されていた清潔の習慣は消え、汚いものを欲したり、だらしない服装をし、露出傾向や残忍性が現れる。しかし、幼児初期の性欲が復活しても、すでに自我は強くなっているため、簡単にはエスに譲歩しない。さらに、前性器的興奮をおこす衝動は減少し、性器的感情や目的、性器に関する観念が重要になっているで、前性器的な攻撃性や幼児的倒錯は消え去る。もっとも、性の衝動が正常か異常かは大人の価値判断であって、本来は自我とは関わりがない。そして、思春期の怒濤のような衝動に抵抗してきた自我の組織体制は、一般に生涯を通じて変わらないほど強固になる。

12章  思春期における衝動の不安

思春期における自我の衝動に対する態度には、禁欲と知性化が顕著に見られる。思春期の禁欲は、衝動のある性質ではなく、その量的な強さに対する不安から生じている。衝動が「私は……したい」といえば、自我は「お前は……すべきでない」と答えるのだ。しかし、この禁欲が無害な衝動や必要でさえあるような衝動まで拒否するなら、例えば身体的満足は全て悪いと考えて拒否するなら、むしろ危険である。神経症のような代償的満足もないので、突然に禁欲を捨てて衝動耽溺に変わることも珍しくないが、そうでもなければ精神病に至る場合さえある。

青年の知的過程を研究すると、青年が関心を抱いている主題は、自分の心の中に生じている心理的葛藤と同じ主題であることが多い。性衝動に身を任すか、それを放棄するか、自由と束縛、権威に対する反抗と屈従、といった問題である。衝動を熟考すること、すなわち知性化は、禁欲以上に衝動を抑制する手段となる。青年の世界観、社会変革の思想は、エスの衝動的欲望の中に新しい欲望を見つけるために作られる。知性の強化は衝動を克服しようとする自我の努力によるものであり、言語的に表現し、意識的に統制することを可能にする。だからこそ、精神分析において感情や衝動過程を言語的に表現することが治療に繋がるのである。

思春期における対人関係は原始的な同一視にもとづくものが多く、真の意味での相手というものはいない。同一視は次々と対象を変えることができるので、熱情的に誰かを愛したり崇拝したかと思うと、すぐに別の人へと心変わりをするのだ。