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08. カレン・ホーナイ「精神分析の新しい道」9〓16章

ホーナイ全集 第3巻 (3)

・ホーナイ『精神分析の新しい道』(誠信書房)より作成           

(2002.1)

第九章 転移の概念

分析者と分析状況に対する患者の情動的反応は治療に利用できる、という考え方は、フロイトの発見の中でも最も価値がある。患者は分析状況の中で自分の現在や過去を語るだけでなく、分析者に情動反応を示し、しかもその反応は非合理的なものであることが少なくない。この情動反応こそ転移であり、それは分析する上で役に立つのである。

「分析者は、患者の生活である役割を演じている第三者よりもっと公平である。分析者の注意は、患者の反応を理解することに集中しているから、他の場合のように素朴に、主観的に反応しないようにつつしんでいる。また一般に、分析者は自分自身分析をうけたことがある。だから非合理な情動反応をすることが少ない。最後に、分析者は、自分は患者があらゆる人間関係に必ず持ち込む情動反応に直面しているのだということを知っているため、患者の反応をその本人の直接の反応とは考えない。」(p.153)

しかし、フロイトは機械論的・進化論的思考を転移の概念にも持ち込んでいるため、患者の非合理的な情動反応(転移)は、幼児性の感情のよみがえりだと考えている。「フロイトは、分析中の患者の非合理的な感情や衝動を、両親や兄弟姉妹に対してかつていだいた類似の感情の反復と解釈しているから、彼は、転移反応は『けだるいような規則正しさで』エディプス関係をくり返しているのだと信じている」(p.162)。分析者は患者の父親や母親のイメージを投影され、幼児期における父親や母親との情動関係を繰り返しているというのだ。したがって、分析者は自分のパーソナリティはできるだけ排除して幼児期の重要人物の役割を演じ、「鏡のよう」であるべきだとフロイトはいう。この時、分析者は患者の感情に個人的な感情を持ち込むのではなく、このことを患者に解釈しなければならない。

しかし、患者の愛着を幼児性の型という見地から見る解釈には、次の三つの危険が含まれている。1.この解釈は現存する不安を残したままなので、分析者への依存を引き起こす一因になる。2.全体としての分析が非生産的になる。3.過去にこだわりすぎると、現実のパーソナリティ構造の解明が十分にできなくなる。つまり、過去にこだわるあまり、現在の不安やパーソナリティを軽視してはならない、というのがホーナイの考えなのだ。そして次のように結論を述べている。

「神経症は究極的に人間関係の障害のあらわれである。分析関係は人間関係の一つの特別な形式であり、現存する障害は、他であらわれるのと同じように、ここでも必ずあらわれる。分析は行なわれる条件は特別だから、他でよりもっと正確にここでこれらの障害を研究できるし、これらの障害が存在することや、それが演じている役割を患者に納得させることができると。もし転移という概念がこのように反復強迫という理論的な土台から解放されるなら、それはやがて本質的に生産的な結果を生むだろう」(p.165)。

第十章 文化と神経症

フロイトは本能的な欲動を重視していたので、パーソナリティに及ぼす文化の影響を正当に評価できなかった。西欧の中産階級に見られる神経症患者の傾向を生物学的な因子に帰着させ、人間性に固有なものと考えたのだ。しかし、その社会の文化や価値観の影響ははるかに大きく、そのことを自覚しなければ、精神分析はその社会の価値観に基づいた「正常」への適応を目指すだけとなり、その価値観こそが神経症の一因であることに気づくことができない。

「神経症に及ぼす文化的因子の影響は、神経症患者が自分自身と他人に見せたがっている像の中にいちばんはっきりあらわれる。この像は、非難の恐れと名誉に対する渇望によって主として決定されている。(中略)たとえば利他的という文化的イデオロギーがないなら、神経症患者は、自分の自己中心性をかくすだけでなく、幸福になりたいという自然の欲望をおさえつけて、自分自身のためになにも欲しがっていないというふりをしなければならないとは思わないだろう。」(p.174)。

第十一章  「自我」と「イド」

フロイトは、神経症的葛藤は「自我」と本能の間にあると述べているが、この二つは対立するものではない。もともと自我はリビドーではないものを全て含んでいたが、ナルチシズムが導入されるとともに、自我はリビドー的性質をもつものと見なされ、「超自我」が導入されると、道徳的な目標や内的基準も本能的なものとなったからだ。つまり、自我はそれ自体が本能的な性質をもつのであり、それは「イド」(本能的欲求の総体)の組織化された部分なのである。自我はイドの満足を手に入れたいが、超自我の禁止に従わねばならない。自我の本質的な特徴は弱さであり、その愛好や嫌悪、目標、決断は、イドと超自我によって決定されるのだ。自我は、イド、超自我、外界の三つに依存し、その調停者として働いているのである。

しかし、自我には本能的に解消できないような判断や感情がある。ホーナイは、フロイトの本能理論に基づいた「自我」の概念を捨てることができれば、精神分析療法の新しい可能性を開くことができるのだと主張し、次のように述べている。「『自我』がその他ならぬ性質によって『イド』の召使で、監督者だとみなされている間は、それ自体は治療の対象になることはできない。そのとき治療の期待は、『飼いならされてない情熱』を『理性』によりよく順応させることにかぎられるに違いない。しかしもし弱さをもったこの『自我』が神経症の本質的な部分とみなされるなら、そのとき『自我』を変えることが、治療の仕事になるに違いない。」(p.189)。

フロイトによれば、神経症的葛藤には三つのタイプがあり、1.個人と環境の葛藤、2.自我とイドの葛藤、3.自我と超自我の葛藤、が考えられる。まず本能的遺産のために個人は環境と必ず衝突し、この葛藤は飼いならされていない情熱と理性(道徳規範)の葛藤として継続するのだ。しかし、ホーナイによれば、人間は必ずしも環境と衝突しないし、衝突しても本能のためではなく、環境それ自体への恐れのためである。それに、神経症的葛藤は様々な仕方で生まれるのであり、フロイトのように図式的な仕方では決められない。

第十二章  不安

ホーナイによれば、不安には次の三つの特徴がある。まず、不安は危険に対する情動反応だが、恐れのように具体的な対象があるのではなく、漠然としていて不確かである。また、不安を呼び起こすものは、パーソナリティの中核に属している。各人が何に価値を置いているかには違いがあり、その価値を置いているものが損なわれる可能性がある時、人は不安になるのである。神経症的不安で危険にさらされているものは、その人を特別保護している傾向、それがあれば安全が保障されるような傾向である。それは、外的な因子だけでなく、内的な因子(敵意や攻撃性が生じることなど)によって生じる場合も多いのだ。最後に、不安には恐れと違って危険に対する無力感がある。

「神経症的不安の謎は、不安をひき起こす危険があきらかにないこと、あるいは外見上の危険と不安の強さがとにかく不釣合なことである」(p.194)。フロイトは、神経症的不安は客観的な不安の場合と同様に現実的だと主張し、それは「イド」の本能的な要求のために「自我」が圧倒されるという恐れだと考えた。満足は本能的な緊張が減少した結果であり、不安はそれが増大した結果だということになる。「フロイトの説を手短に言うと、危険の源は、本能的な緊張の大きさ、あるいは『超自我』の処罰する力である。危険の対象は『自我』であり、無力感は『自我』の弱さと『自我』が『イド』と『超自我』に依存していることから来ている」(p.195)。しかしホーナイは、危険にさらされるのは「自我」ではなく、個人の安心感だと述べ、フロイトの不安の概念を修正すべきだという。

不安には二つの型がある。一つは基本的不安であり、潜在的な危険に対する反応である。もう一つは、顕在的不安であり、これは顕在的な危険に対する反応である。基本的不安は、それ自体が神経症的な症状であり、両親に対する依存と反抗という矛盾した葛藤の結果生まれる。両親に依存するためには、両親への敵意は抑圧されねばならないからだ。そのため、警戒すべき状況になっても、その不安を顕在化できずに、服従的になったりするのである。そして、この基本的不安が危険に対する無力感を生み出すのである。したがって、治療においては患者の不安に直面した場合、分析者は抑圧された欲動を探すのではなく、ある激しいジレンマに陥った結果ではないかと説明し、このジレンマの本質を探すように促すべきである。

第十三章  「超自我」の概念

一定の神経症的なタイプの人は、特別融通のきかない高度の道徳規範に固執している。彼らは一連の「すべきだ」と「ねばならない」によって支配されており、その道徳的要請を果たせないと不安か罪悪感が生まれるのだ。こうした規範を意識している程度は人によってまちまちだが、この規準は対人関係や自分に影響を与えているのであり、そのことは次の三つの観察から知ることができる。1.その時の状況や利害関係ではなく、必ず融通のきかない行動するという観察。2.強迫的な規準から逸脱しそうなとき、ある種の不安や自責が起こるという観察。3.相手は過大な要求をしていないのに、非難していると思っている人がいるという観察。このことを最初に発見したのはフロイトであり、それは彼の「超自我」という概念に結びついている。

フロイトによれば、「超自我」は主として禁止する性格をもった心の中の機関である。それは禁止された傾向は何であれ確実に見破り、冷酷に処罰する。したがって、完全を目指す神経症的欲求は「超自我」の破壊的な力の結果であり、それが不安や罪悪感を引き起こしているというわけだ。しかも、フロイトにはリビドー理論と死の本能の理論があるため、それはサディズム的なエネルギー(攻撃欲動)を自分へ向けている、ということになる。しかし、ホーナイによれば、神経症患者は完全を目指す欲求ではなく、「完全という見せかけを維持しようという欲求」によって駆り立てられている。それは他者から、そして自分自身に対しても「完全だと思われたい欲求」である。だとすれば、超自我は自我の中の特殊な機関ではなく、個人の特殊な欲求ということになるだろう。

完全だと思われたい欲求は、幼児期における両親の禁止と関係がある。しかし、超自我を両親による禁止(特にエディプス・コンプレクス)の直接の残りとみなすことは単純すぎる。それよりも、両親の命令に従うことで、両親の怒りから逃れ、不安を回避することができたとしたら、内在化された両親の規範や外部の規範に従うことで、自分は完全だ、自分には何の責任もない、と感じることができるだろう。しかし、このような規範への従属は正義感ではなく、自分を受け入れてもらうための見せかけの完全さであるため、この見せかけが見破られることを恐れ、分析者に不信感を示すことが多い。

「抑圧をひき起こすことができる『超自我』の力を、フロイトは主として自己破壊本能のせいにした。しかし私の意見によると、抑圧という現象は、根底にある不安を防ぐ強い防波堤になっているから、強力なのである。だからそれは、他の神経症的傾向のように、どんな犠牲を払ってでも、維持されなければならないのだ。」(p.231)。つまり、ホーナイによれば、超自我は全ての抑圧を引き起こすというより、抑圧をひき起こす多くの因子の一つに過ぎず、それは主として本能的欲動を抑圧する。しかし、「抑圧されるものは、一個人がどうしても示さなければならないと思っている外観の種類によって決まる。いいかえると、外観に合致しないものはすべて、抑圧される」(同上)のであり、自発的な願望や個人的な判断なども抑圧されるのである。

第十四章  神経症的罪悪感

罪悪感が神経症の決定的な因子だとみなされるようになったのは、「超自我」という概念がたてられてからである。神経症的なあるタイプの人は、わずかなことで過敏に反応し、自責の念に駆られてしまう。それを防ぐために極度に慎重になって行動し、間違いをしないように完全を求めるのだ。フロイトによれば、神経症患者は極度に道徳的な超自我のために、罪深く感じやすいのであり、罪悪感は超自我と自我の間にある緊張のあらわれである。自分たちの罪悪感を受け入れない患者の場合は、無意識的罪悪感があるのであり、罪悪感を認めないことで病気のままとどまり、罪を償おうとするというのだ。しかし、ホーナイによれば、フロイトの主張は十分なものとは言えない。

「私は、罪とは、どんな状況でも、ある文化で妥当とされている道徳的要請、あるいは禁止に違反することから生まれ、罪悪感は、このような違反をしたという痛ましい確信のあらわれだ、と言わなければならない」(p.241)。さらに重要なのは、罪悪感は「その人自身が規範と認めているような規範の違反と関係がある」ということである。しかし、こうした規範の一部は特別の目的に奉仕するためにできた見せかけであり、その場合は本物の罪悪感とは言えない。罪悪感は自分が良心的な人間であることの証になる場合もあるし、相手の非難を避けるために、(無自覚のうちに)先回りして自分を非難している場合もあるのだ。

フロイトは神経症患者がなかなか罪悪感を認めないのは「無意識的罪悪感」のためだと考えたが、ホーナイによれば、「患者が自分の問題に真の洞察をえにくいのは、彼が完全だと思われたいという強迫的な欲求を持っているため、外見上は、中に入り込めない態度をとるからである」(p.249)。患者はそうした解釈に憤慨するか、無視しようとする。したがって必要なのは、第一に「君は自分自身に不可能なことを要求しているのだ」と教えてやることであり、第二に「君の目的と君のしたことは形式的だ」と悟らせることである。彼は自分の完全癖的な欲求の厳しさに問題があることを知らなければならないのだ。

第十六章 精神分析療法

不利な環境によって自分に対する関係と他人に対する関係が損なわれると、子どもには基本的不安が生じることになる。この基本的不安に対処するために選ばれる方法(神経症的傾向)は、強迫的な性格を持っている。神経症的傾向は、不安を回避して安全を手に入れる唯一の手段となるのだが、逆にそれは自分自身を疎外し、かえって人間関係を損なう機会を増やし、顕在的な不安は発生しやすくなる。そして、柔軟性のない神経症的な性格を発達させることになり、神経症の中核となる。様々な神経症の「症状」には、その背後に神経症的性格があるのであり、だからこそ症状の違いが生じるのである。したがって治療にあたっては、まず性格傾向を理解したほうがよい。

「私の神経症理論によると、主な神経症的障害は、神経症的傾向の結果だ。それゆえ私の主要な治療方針は、神経症的傾向を確認してから、それが果たしている機能と、それが患者のパーソナリティと生活に及ぼしている結果をくわしく知ることである。」(p.290)。フロイトなら神経症的傾向を超自我と呼び、まずその起源(エディプス関係)を調べるであろうが、ホーナイはまず神経症的傾向の実際の機能とその結果を調べるべきだという。結果がわかれば不安は大幅に減って、他人との関係も改善され、神経症的傾向なしでも大丈夫になるからだ。小児期との因果関係は、その後で考えればよい。その間の方法はフロイトと同じ(自由連想と解釈、転移の分析)だが、分析者はフロイトが言うほど受動的でなくともよく、積極的に介入してもよいとホーナイは言う。

例えばホーナイは、患者が自分の神経症的な行動の原因を尋ねたら、「一般にそんなに早く理由を詮索してもうるところはありませんよ。そっれよりもまず、この態度があなたにどんな結果をもたらしたかをくわしく調べたり、それがどういう機能を果たしているかを理解するほうが、もっと有益ですよ」と指摘するようにしているという。ただ、神経症的傾向を知ってそれを変えるということはパーソナリティを変化させることでもあるが、多くの患者は症状を取ってもらうことは求めても、性格まで変えて欲しいとは思っていないので、その介入の仕方が問題である。特に分析者が自分自身の問題を解決していること、教育分析を受け、終わることのない自己分析を続けることが必要である。自己理解は他人を分析するために不可欠の条件なのだ。最後に、ホーナイは次のように述べている。「私は、分析の目標は人生を危険と葛藤のないものにすることではなくて、個体が彼の問題を自分自身で結局解決できるようにすることだ、と主張したい。」(p.316)。