07. ラカン『精神病』(上巻、下巻)
(2001.9)
* 本書はラカンのセミネール〓を、上下巻に分けて刊行されている。このレジュメは、
重要と思われる箇所を抜粋して、簡単な注釈(*)を付したものである。
1.「間違っているのは、その意味なるものが了解されるものと思ってしまうことです。私達が新たに学んだはずのこと、そして当直室の雰囲気の中で思うこと、つまり精神科医の「共通感覚」の表われ、それは病人を了解しなくてはならないということです。しかしそれは、全くの幻想に過ぎません。」(上:p.8)
* ラカンは治療における「了解」の危険性を繰り返し強調しており、これはヤスパース以来の現象学的精神病理学への批判となっている。
2.「フロイトは「Verwerfung(排除)」という用語が適切であると思われる除外という現象を見出しています。そして、この除外は、ずっと後の段階になって起こる「Verneinung(否定)」とは違います。主体が経験したにもかかわらず、何かが象徴的な世界に参入するのを主体が拒否するということがあり得るのです。この何かとは、この場合まさしく去勢の脅威に他なりません。」(上:p.18)
* 抑圧は言語化した後で無視することだが、排除は言語化そのものの失敗である。そして、言語化されずに拒絶されたものが、現実界へ再び現れることがある。これが精神病における幻覚なのだ。
3.「精神分析を双数(決闘)的なものと理解する枠組の下で現に行なわれている対象関係の取り扱いは、象徴的次元の自律性を無視することに基づいています。この無視は自ずと、想像的平面と現実的平面との混同を引き起こします。だからといって、分析経験から象徴的関係が除外されてよいわけではありません。」(上:p.22)
* 象徴的交流の中で主体の要求を認めるべきところを、想像的な次元で認めてしまうと、(前精神病者の場合)精神分析自体が精神病を引き起こすことになりかねない。ラカンは多くの精神分析における治療関係が双数的関係、つまり鏡像段階における二者関係に陥っているのだと批判する。彼が分析において重視したのは、あくまでも象徴的関係なのである。
4.「パラノイアが私達にとって把握するのが大変難しく、しかもそれでいて大いに関心をそそるのは、それは、まさしくこの意味が、了解不能な現象でありながら、了解という次元に位置しているからに他なりません。」(上:p.33)
* 治療者が妄想を了解できたと感じる時、それは解釈に失敗しやすい時でもある。了解を性急に求めるのではなく、十分に患者の言うことを聞く必要がある。
5.「主体は己れのメッセージを他者からひっくり返った形で受け取っているということです。全きパロール、本質的なパロール、任されたパロールは、このような構造を基礎としています。」(上:p.58)
* 主体の言葉は他者へ向けて語られた瞬間に、象徴界の中に位置づけられ、そこにおいて確定される意味は、自分でも知らなかった意味である。つまり、主体は象徴界の中で自らの無意識を受け取るのだ。(7を参照)
「絶対的な他者(A)という限りでの他者がそこに存在しているということです。絶対的とは、つまり、この他者(A)は再認されてはいるが、知られてはいないということです。」(上:p.60)
* この他者をラカンは大文字のAと呼び、目の前の他者aと区別している。大文字の他者Aは、誰それと名指しできるような具体的な他者ではなく、一般化された抽象的な他者のことなのだ。
6.「神経症の場合、主体において現実からの部分的逃避、つまり秘かに保持されている一部の現実と直面できないということが起こるのは二次的なことです。つまり、現実が象徴的な仕方で十分に外的世界の中で再〓分節化されないからこそ、そういうことが起こるのです。それに対して、精神病の場合では、まさにこの現実そのものに穴があいてしまっているのであって、この穴を幻想的な世界がやがて埋めることになります。」(上:p.73)
* この現実の穴を埋めるものこそ、象徴界の外部に排除されたものの回帰である。
7.「このS、つまり私達が徹底的にそれであるこの主体(sujet)について話す方法は、二つしかありません。ひとつは他者(A)、つまり大文字のAの他者に真に語り掛け、皆さんに関係するメッセージをひっくり返った形で受け取る方法。そしてもう一つは、このSの方向、Sの実在を暗示という形で示す方法です。この患者が真にパラノイア患者であるのは、この回路が彼女にとって、大文字の他者(A)の除名を示しているからです。この回路は二つの小文字の他者だけで閉じています。この二つの小文字の他者は、一方は彼女と向かい合っている話すマリオネット、彼女自身のメッセージがその中で彼女にこだまするマリオネットであり、もう一方は彼女自身、すなわち自我という限りで常に他者であり暗示によって語る彼女自身です。」(上:p.85)
* 大文字の他者(A)は目の前の個人ではなく、そうした現実の向こうにある還元不能な絶対者である。この他者(A)が設立されているからこそ、「あなたは私の師」と言った場合、「私はあなたの弟子」というメッセージを受け取ることができる。これが正常者の場合。しかし、精神病者の発した言葉は、大文字の他者がない(象徴界が壊れている)ので、象徴界によって意味づけられたメッセージを受け取ることはない。その言葉は目の前の具体的な他者との二者関係(双数関係)の中で閉じているのだ。
8.「こうして患者は、結局この他者(A)のない生の現象に直面して、当惑した状態にいるのです。患者がこの当惑のまわりに妄想的秩序と呼ばれる秩序を復元しようとするまでには、長い時間が必要です。…(中略)…。こうして他者(A)が全く除名されているので、主体に関することは、小文字の他者によって、つまり他者の影によって、現実に語られます。」(上:p.86〓87)
* 大文字の他者(A)がなければ、自分の言葉を象徴界から受け取ることはなく、現実的な言葉として受け取ることになる。例えば、「私、豚肉屋から来たの」と言った後で、目の前の男に「雌豚」と言われたのだと主張する精神病者の場合、彼女は他者(A)から「雌豚」というメッセージをひっくり返った形で受け取ったからでななく、むしろ他者(A)が欠落しているために、小文字の他者(a’)である男の口から〈患者自身についてのメッセージ〉を現実に聞かされたのだ。これが精神病者の妄想である。
9.「あらゆる象徴化に先だって――時間的にではなく、論理的に先だって――或る段階が存在しているということを精神病は示している、という点です。この象徴化に先立つ段階で、象徴化の一部が行なわれないことがあり得るのです。この段階は、神経症的なあらゆる弁証法に先立つものです。つまり抑圧と抑圧されたものの回帰とは同じ一つの事態であるという限りで、神経症は分節化されたパロールである、という意味での神経症の弁証法に先立つ段階です。患者の存在に関する原初的な或るものが、象徴化の中に入らないということ、しかも抑圧されるのではなくて、拒絶されるということが起こり得るのです。」(上:p.133)
* 神経症では象徴界の中で抑圧されたものが現れるが、精神病では象徴界から「排除」されたものが現実界の中に現れる。現実界に出現したものは象徴界に統合されずに連鎖的な崩壊をもたらし、妄想を形成するのである。
10.「私達はナルシシズムの関係を対人関係の中心をなす想像的関係と考えています。…(中略)…。それは、実際は、一種の性愛的関係なのです。すべての性愛的同一化、つまり性愛的魅了という関係の中で、イマージュによって他者を捉えることはすべて、ナルシシックな関係という方法を介して行なわれます。また、それは攻撃的な緊張の基礎でもあるのです。」(上:p.153)
* この関係は、鏡像段階において鏡の中の他者を自我として設立したように、他者は自己の投影であり、それは自己愛的なものである。しかし、そこには「彼か私か」という排斥関係も存在している。
11.「摂理、あるいは報いをもたらす審級、これに相当するものがシュレーバーにはその痕跡すらないのです。ということは、ちょっと先を急いで申しますと、神とのこの恋愛妄想は、超自我の領域に直ちに記入されるものではないと言えましょう。」(上:p.208)
* シュレーバー(有名な精神病者)における神は、超自我のように命令する絶対的他者ではなく、妄想においては他者(A)が欠けている。したがって、彼と神の関係は想像的関係、ナルシシックな関係である。
12.「精神分析治療の理論は、主体の自我と理想自我との関係、自我と他者との関係、つまりその質はおそらく様々に変わり得るとしても、経験上明らかなように、常に唯一無二である想像的関係の他者、そういう他者と自我との関係へと誤って陥っているのです。」(上:p.245)
* ラカンは精神分析が想像的な二者関係への還元に陥っていると再三警告しているが、ここでは特にクラインの対象関係論を批判している。ラカンにとって治療に重要なのは、患者を象徴的な関係へと導くことなのだ。
13.「分析家にとっては、患者が自分のイマージュを次第にSへと移していくのを助けることが重要なのです。というのは、このSこそが、明らかにされるべきもの、名をもたぬものであり、Sから大文字のAへと直接の回路が完成されない限り、その名を見出すことのできないものですから。主体がそれまで誤ったディスクールを通して語らなくてはならなかったものが、想像的な関係の経済が次第に少なくなるにつれて、それだけ容易に通路を見出すようになります。」(下:p.5)
* したがって、分析家は大文字の他者Aのどこかにいるべきであり、患者の抵抗と結びついてa’ (想像的関係)において語ってはならない。ここでもラカンは、治療関係が想像的関係に陥ることを戒めており、大文字の他者Aという象徴的関係の重要性を強調している。
14.「私が強調したいことは、フロイトの場合神経症のメカニズムや発展が依拠しているこのリビドー的弁証法の中心点、焦点は、この去勢というテーマだったということです。精神病におけるナルシシックな怖れの条件となっているのもこの去勢です。精神病の患者は、この去勢を受け入れるためには、現実のすべてを手直しするという大きな代価を支払わなくてはならないわけです。」(下:p.270-271)
* しかし、フロイト理論における「ファルスの優位」、「父の機能」は見失われ、精神分析は次第に母子関係の想像的弁証法、対象関係に限定される傾向にあるのだと、ラカンは指摘している。