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06. C.G.ユング『心理療法論』

心理療法論

・ユング『心理療法論』(みすず書房)より作成

(2001.9.10)

1. 臨床的心理療法の基本

心理療法は弁証法的な手続きであり、二人の人間の間の対話、もしくは対決である。「一人の人間は一つの心的な体系であり、それは他人に働きかけると相手の心的な体系との間に相互作用を引き起こす」。そして、心的体系の個性は無限に多様であるため、ある特定の方法に定式化できるものではない。フロイトの精神分析、アドラーの教育的方法、シュルツの自律訓練法、リエボー=ベルネームの暗示療法など、これらは特殊な心理学的前提に基づいて互いを批判し合っているが、いずれも一定の成功を収めているのでそれなりに正当性がある。しかし、心理学が多様な個性を扱うものである限り、普遍的な心的体系を前提にするわけにはいかない。したがって、心理療法家は、患者の個性を自分のほうがよく知っていると考えるのではなく、相互の見方を比較するという姿勢が重要となる。

人間は個〓普遍の二律背反を持っているので、心因性ノイローゼは二つのグループに分けることができる。集団に適応できない個人主義者と、個性が発育不全の集合的人間であり、前者の治療は内なる集合的人間を意識し、集団的適応の必要性を認識すればよい(教育的方法)。しかし、後者にこれと同じ治療を用いれば、発達可能なあらゆる個性が破壊されてしまうので、あらゆる予見や技法を捨て、弁証法的な手続きに限定する必要がある。この手続きはこれまでの心理療法に代わるものであり、心理療法家は可能な限り偏見を捨て去り、知者や助言者ではなく、個性的な発展の過程を共に体験する者となるのである。

フロイトも認識していたように、分析家もコンプレックスによる偏見にとらわれており、この分析家の特性や特殊な構えによって、患者は自己認識を著しく妨げられてしまう。そこで、ユングは分析家も分析を受けるべきだと主張し、ついには弁証法的手続きの理念に到達したのだという。この手続きの理念が生まれる源泉には、「象徴的内容をいろいろに解釈できるという事実」もある。例えば、従来の分析的還元的な解釈では関心が幼児期の記憶内容に固着していると考えるが、総合的な解釈では「まだ幼児状態にいる」と考える。前者は後ろ向きな解釈、後者は前向きな解釈であり、実践的には大きな違いが生じてしまう。だからこそ、理論や技法を無批判に使うのは危険なのだ。心理療法は医師の人格を巻き込まざるをえないし、治療作用はラポールと医師の信頼させる力にかかっているのである。

治癒とは変化を意味するのだが、その変化によって人格に大きな犠牲が生じるのなら、医師は変えたいという気持ちを捨て、個性的な治癒への道を認めなければならない。この場合、治癒は人格の変化ではなく、「個性化」の過程となるだろう。患者は本来の彼自身となり、自分の病気を理解することで、どこで自分の個性的な道から外れたかを理解し、ノイローゼを我慢できるようになるのだ。個性化は個人が自分自身の法則を知ることでもあり、例えば夢による観点や提案はかつての集合的な規範(因習的な見方・偏見)を示している。無意識は意識の偏りを正すのであり、個性化にとって非常に重要なのである。

夢におけるイメージの連続性は、特定のモチーフが繰り返し現れているのであり、あらゆるモチーフの根底には元型的性格を持った原イメージがある。例えば水のモチーフが海の夢や川の流れの夢として繰り返し現れた場合、海は生命の発生地としての集合的無意識、川は生命の流れを現している。また、繰り返し現れるのが未知の女性である場合、彼女は無意識が人格化したものであることが多く、これを「アニマ」という(男性の場合)。夢み手が女性である場合は、無意識は男性的特徴を持っている。こうしたモチーフは神話や分裂病者の妄想にも見られるので、個性化は人類の先史時代への退行であるかのような外観を呈する。実際、これは精神病を顕在化させてしまう危険もあるのだが、これは新しい秩序を作り出す「跳躍のための後退」なのである。

現代の心理療法は患者の多様性に応じて重層的になっており、人間的常識や助言を必要とする単純なケースから、症候の還元的分析を必要とする重い神経症のケースまで様々である。重い神経症の場合、フロイトかアドラーのどちらかの原則に則って治療すべきである。人間は二つのグループに分けることができ、幼児的な快楽追求を特徴とする人は、社会的役割より禁じられた願望や衝動の満足が重要であり、フロイト理論による治療が適している。逆に社会的地位や権力のほうが重要な人、劣等感の強い人は、アドラー理論による治療が適している。しかし、停滞が生じたり、神話的・元型的な内容が現れた場合は、分析的還元的治療をやめて、シンボルを秘教的・総合的に扱うべき時が来たのであり、弁証法的な手続きや個性化の時が来たのだと判断すべきである。いずれにせよ、ノイローゼの原因は意識と無意識の分裂にあるので、治療は無意識の同化だと言えるだろう。


2. 心理療法の目的

神経症が心理的な治療によって治りうることは誰もが認めるところだが、神経症の構造や治療の原理については、未だに一致した見解がない。フロイトの性欲に基づく理論とアドラーの自己中心欲に基づく理論はその代表だが、どちらも患者を適応させて正常に戻す方法なので、若い人々には非常に有効である。しかし、ユングの治療経験によれば、年輩の神経症者についてはうまくいかない。若者にとっての正常な目標は、年輩の人には障害になることが多いのだ。また、幼児的な自己中心欲をもつ失敗者にフロイト的な治療をするのは誤りであり、逆に快楽心理をもつ成功者にアドラー的な治療をするのは重大な誤解である。この誤りに気づく上で、患者の抵抗は重要な指標となる。

心理療法においては、確固とした目標を持たないほうが賢明である。ユングによれば、「人間の生が下す偉大な決定は、一般に意識的な恣意や善意の分別よりも、はるかに多く本能やその他の神秘的無意識的な要因に従っている。ある人にぴったりする靴は他の人には窮屈であり、普遍的に妥当する生の処方箋など存在しない」。(社会への適応を目指す)合理的な治療で満足できればそれでいいのだが、そうでない場合は、非合理的な部分に照準を合わせ、患者の中にある創造的な芽を成長させる必要がある。実際、ユングのところへ治療を受けに来る人の多くは、人生の後半に位置しており、人生の意味や目標に苦しんでいるため、合理的な治療には抵抗を示すだけであったという。若者は自らの意志を鍛え、自我を形成することで社会に適応する必要があるのだが、人生後半の人間にそのような必要はない。彼は社会的には無用な創造活動の中に自らの個性的な意味を見出し、内的な安定を獲得することを必要としているのだ。

合理的な領域で満足できなかった患者の場合、非合理的な領域に足を踏み入れることで、日常的で平凡なものも変化し、新しい輝きを得ることができる。そのため、無意識の反応、特に夢の中に現れるものを、患者と治療者が共同で解釈し、時には神話学や考古学、宗教史などの知識を活かしたり、それを絵に描いてみることが有効である。想像力の創造的活動は、人間を「〓でしかない」状態から解き放ち、遊びの状態にまで高めてくれるのだ。患者が描いた絵の特徴は、原始的な象徴的性格であり、この太古的なイメージは集合的無意識から発している。これは「無意識的かつ人類に普遍的なこころの諸機能」である。この絵を総合的に解釈することで普遍的な体験(超個人的な意識)に気づき、それを意識へ統合することが必要となる。問題は意識とは異なる「こころ」の生の過程なのだが、それは直接観察できないのである。


3. 心理療法と世界観

世界観は心のうち生理的に縛られた部分の対極であり、最上級の支配者として、心の運命を決定する。心理療法家の精神も世界観がかたちづくっているのだが、何度となく患者の真実に触れて砕かれ、再建されるのだ。患者が集合的な解決に抵抗するなら、心理療法家は患者のために自らの信念を壊す覚悟で、元型的な姿で現れる宗教的〓哲学的観念を受け入れる必要性がある。最も治癒的で心に必要な経験を得るためには、元型的内容の襲来を同化することが必要なのであり、そのためには持ち合わせの哲学的・宗教的見解を使うだけでは不十分である。したがって、キリスト教以前および以外の世界の素材にまで遡る必要があるのだ。


4. 心理学から見た良心

良心とは、「われわれの行為の動機だと考えているような諸観念の、情動的な価値についての知、または確信である」。また、一方では根源的な意志の働き、理由のない衝動から成り立ち、他方では合理的な感情の判断(主体の判断)から成り立つ、複合的現象である。それは、何らかの心的出来事についての意識的反省として現れることもあれば、情緒的な付随現象として現れることもある。後者の場合、理由のない不安があるだけで、道徳的判断は夢に象徴として現れるだけであることも多い。例えば、ある行為に対して「罪の意識」はないのだが、その夜に自分の手が黒く汚れた夢を見る場合などがある。つまり、良心は意識なしでも機能するのである。

フロイトは良心を超自我による抑圧として捉えているが、抑圧は意識の意志による行為であり、道徳的にいかがわしいと意識されていなければ起こり得ない。しかし、夢に現れる道徳的判断は意識されなかったものであり、抑圧説では説明できない。この場合の道徳的判断の主体は自我ではなく、無意識的人格なのだ。フロイトは元型(遺伝的本能的な行動様式の仮説)を非科学的だとして拒絶し、無意識的な良心の働きを超自我による抑圧だと主張しているが、超自我は伝統的習俗の中で意識的に獲得されたものである。つまり、無意識も意識に依存していることになるのだが、無意識は意識的意志からはほとんど影響を受けないし、発生的にも意識より古いのだ。

道徳法は道徳的反応(無意識的元型的反応)の結果であり、命題化したものであるが、良心とは対立するような慣習的道徳も存在する。この場合、道徳律に従うことと、良心の声に従うことの間に葛藤が生じるのだ。古来、良心の声は「神の声」として捉えられ、(特に宗教的な人にとっては)慣習的な道徳律よりも高い権威を持っている。フロイトでさえ、超自我を慣習や伝統として定義しながらも、悪魔的な力を認めているのだ。(ここでユングは、フロイトの超自我における無意識的な面を評価しているのだが、超自我が無意識的であるのは「身体化」で説明可能なので、良心の自律性のためだとは言えない。)

良心はマナの現れ、「異常な力」の出現であり、元型的イメージに固有なものである。それは集合的無意識の範疇に属しているが、認識の働きによって初めて道徳的性格を獲得する。集合的無意識はあらゆる個人において同一であり、超心理学的現象、共時的現象を伴う可能性がある。例えば、(良心の不安に関する)無意識的内容が活性化している人と話していると、自分の無意識にも類似の元型が活性化して、同じように良心の不安が生じることもある。

良心は主として道徳律からの逸脱に対する反応を意味しており、この反応は本能的なものだが、それが反省的である場合には倫理的と呼ぶことができる。意識的な吟味がなされるのは、二つの道徳なあり方が葛藤する場合だが、この時、エートスの創造的な力のみが最終的決断を下せるのだ。


5. 分析心理学における善と悪

患者にとって何が善で何が悪であるかはわからないので、臨床家はあまり(自分の善悪の判断について)自信を持ちすぎないほうがよい。患者にとって善いように思えても実は悪い状況を招いたり、患者にとって悪いように思えても、それは耐えねばならないことなのかもしれない。具体的な場面では、何が善くて何が悪いかという判断は、仮説的でなければならない。「善いとか悪いとかいうことは、私を通じて言われているのです。諸原理を語る私の中の誰かが、私を利用して表現している」。それは東洋思想における普遍的アートマンであり、意識的な自我だけを意味するのではなく、「自己」という心の全体性なのだと、ユングは述べている。また、善と悪を意識的に選ぶのは望ましくないのであり、ヌミノースな状況(主体の意志を超えた意識変容、宗教的体験)にあって、無意識における上位の力に委ねるほうがよいとも述べている。


6. ナチズムと心理療法

この論文は、ユングがナチスに加担しているという批判を受けたことに対し、それが全くの誤解であることを主張したものである。ユングによれば、心理療法の世界を守るためには必要以上に政治的な反抗をすることは無益であり、また、ユダヤ人の特質を述べることが、それだけで差別になるわけではないのだと主張している。