05. フロイト「ナルシシズム入門」
・フロイト「ナルシシズム入門」(『フロイト著作集5巻』人文書院:所収)より作成
(2000.10.2)
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ネッケによれば、「ナルシシズム」という述語は、ある人間が自分の肉体を対象のように扱い、性的な関心を抱いてこれを眺め、さすり、愛撫して、ついには完全な満足に達する行為を表すもので、一種の性目標倒錯を意味する。しかし、ナルシシズム的な態度は非常に広範囲にわたって認められるため(例えば神経症者はナルシシズム的態度によって精神分析を困難にする)、性目標倒錯ではなく、自己保存本能のエゴイズムをリビドー面で補足するものであろう。
例えば、パラフレニア患者(精神分裂病)は誇大妄想と、外界の人物や事物からの関心の離反を特徴としており、自己のリビドーを外界から撤収している。誇大妄想は対象リビドーの犠牲によって生じたものであり、外界から撤収されたリビドーは自我に供給され、ナルシシズム的態度になる(二次的なナルシシズム)。また、同様なナルシシズム的態度は原始人や児童にも見られる。このように、自我リビドーと対象リビドーには一つの対立があり、一方が余計に使われれば、それだけ他方が減ってゆく。後者の発展段階が恋着であり、その逆が偏執病者の世界没落の空想である。そして、自我に固有のリビドー(自我リビドー)と、対象に付加されるリビドー(対象リビドー)を区別することは、性欲動と自我欲動とを互いに区別するという仮説(リビドー理論)に基づいている。
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感情転移神経症(ヒステリー、強迫神経症)が欲動のリビドー的な動きの追求を可能にしたように、早発性痴呆やパラノイアは自我心理への洞察を可能にする。また、器質的疾患やヒポコンデリー、愛情生活を観察することも、ナルシシズム研究には重要である。順を追って述べてみよう。
器質的な痛苦や不快に苦しめられている者は、リビドー的関心を愛の対象から引き上げ、愛することをやめている。病人はリビドーの割当を彼の自我へと引き戻し、全快後に再びそれを送り出すのだ。同じように、ヒポコンデリー(心気症:悪くもないのに身体的な苦しみを訴える)も、関心とリビドーを外界の対象から引っ込めて、自分が気を取られている器官に集中する。感情転移神経症が対象リビドーの鬱積によって起こるように、ヒポコンデリーは自我リビドーの鬱積によって起こるのである。ヒポコンデリーはパラフレニアにおいても生じ、その関係は、現実神経症(不安神経症、神経衰弱症)が感情転移神経症に対する関係と同じである。つまり、感情転移神経症における不安に相当するのが、パラフレニアにおけるヒポコンデリーであり、不安を解消するための空想形成(転換、反動形成などの心的加工)に相当するのが、パラフレニアの誇大妄想なのである。パラフレニアが感情転移神経症と区別される点は、拒否によって自由になったリビドーが、空想中の対象にとどまらず、自我に回帰してくることにある。
ナルシシズム研究の第三の方途は人間の愛情生活である。最初の自体愛的な性的満足は、自己保存に役立つ機能として体験され、世話をしてくれる母親(またはその代理者)に依存している。それが後に自立した性の欲動となり、母親は最初の性的対象となるのだ(依存型)。しかし、リビドー発達に障害をこうむった場合、愛の対象を母親ではなく自分自身を選ぶことがある(ナルシシズム型)。病気ではなくとも、全ての人間は一次的ナルシシズムをそなえており、これが対象選択の際に優勢に現れてくることも少なくない。男女を比較してみると、男性は(母親への転移によって)依存型になりやすく、対象愛のために自我リビドーが乏しくなりやすい。女性の場合は、思春期になるにつれて(女性性器の発達のために)ナルシシズムが高まり、対象愛を構成しがたいものにするので、愛するより愛されることを求めやすい。また、子どもができれば対象愛は強くなるのだが、ナルシシズムが復活すれば(同一視)、子どもは「赤ん坊陛下」として甘やかされることなる。
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リビドー的な欲動活動は、それが文化的および倫理的な諸観念と衝突すると、これらの観念を自分に対する規範として認め、それらが要求するところに自ら従おうとする。つまり、自我の自尊心から抑圧が生じるのである。自我の側からみた抑圧の条件は、自己のうちに一つの理想をうち立て、それに現実の自我をあわせることにある。このような「理想自我」にあてはまるのが、幼時には現実の自我が享受していた自己愛なのだ。ナルシシズムは、幼時の自我と同様に完全性をそなえて存在する、この新たな理想的な自我に変位したものとして姿を現す。しかし、この理想自我の完全性は現実の様々な規範によって崩され、やがて「自我理想」という新しい形式のなかに、もう一度完全性を獲得しようとする。彼が自己の理想としてその眼前に投影するものは、幼時の失われたナルシシズムの代理物なのである。また、こうした理想形成は自我の諸要求を高めると共に抑圧を支援するものであり、昇華のように別の目標に要求を向け換えることではない(昇華は抑圧を生じない)。
ナルシシズム的満足を確保するために現実の自我を絶えず監視し、理想に合わせようとするような心的法廷があるとすれば、注意妄想や観察妄想を正しく理解することができるだろう。彼らは自分たちの考えが全て知られているし、自分たちの行為は観察され、監視されているのだと訴え、「いま彼女はまたあの事を考えている」と、その声の存在を主張する。実際、われわれの一切の意図を観察し、関知し、批判するこのような力は事実存在しており、正常な生活を営んでいるわれわれにも見られる。いわば、この心的法廷には良心がその番人として立てられているのだ。良心という掟は、第一には両親の批判の、ついで社会(教師、同胞、世論)の批判の具体化されたものであり、はじめは外部からの禁止または妨害によって、抑圧傾向が生じてくる際に反復される現象であった。この力が退行すると、観察妄想のように声が具体的に聞こえ、良心の発達史を逆行的に再生することになる。自己観察の上に築かれた良心の自己批判は、内界探求の役目も果たし、この内界探求が哲学的思考に材料を提供している。このことは、パラノイア患者の思弁的体系形成(妄想)とも無関係ではないだろう。
自我感情はまず自我誇大という形で現れる(自尊心のようなもの)。人が現に所有しまたはこれまでに達成した一切のもの、経験によって裏書きされた素朴な全能感情のあらゆる残存物が、自我感情の高揚を助けるのだ。また、自我感情はナルシシズム的リビドーに緊密に依存している。例えばパラフレニアにおいては自我感情が高められ、感情転移神経症においては低下しているし、愛されないことは自我感情を低下させ、愛されることは自我感情を高めるのである。対象へのリビドー割当は自我感情を高めないため、愛する対象への依存や恋着は自我感情を低下させる。したがって、恋着している人は自己のナルシシズムの一部を喪失し、卑屈になるのであり、愛されなければ自我感情を高めることができない。愛されないまま自我感情を再び高めるには、対象からリビドーを引き上げるしかないのだ。
自我の発達は一次的ナルシシズムから距離をとることによって成り立ち、このナルシシズムを再び獲得しようと激しい努力を生み出し、自我理想を形成する。つまり、リビドーを自我理想に、理想の実現によって得られる満足感に移動させるのである。同時に、自我は対象割当のリビドーを送り出してきたものであり、自我はこのような割当と自我理想のために貧困になるのだが、対象満足や理想実現によって再び豊富になる。自我感情の一部は一次的なものであり、小児ナルシシズムの名残だが、第二の部分は経験によって裏書きされた全能性(自我理想の実現)に由来し、第三の部分は対象リビドーの満足に由来している。また、性的理想は自我理想に対して補助関係にあり、自我に理想として欠けている長所を所有する者は愛されやすい。自我理想の実現が困難な人は、性的理想によって自我感情を高めようとするのである。最後に、自我理想は社会的な部分を有しており、家族や階級、国民の共通の理想でもある。この理想が実現されないと罪責の意識が生じるのだが、それは元来、両親の愛を失うことへの不安から、後に不特定多数者への罪責感になったのだ。