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04. フロイト「制止、症状、不安」

フロイト著作集 第6巻 自我論・不安本能論 (6)

・フロイト「制止、症状、不安」(『フロイト著作集6巻』人文書院:所収)より作成

(2001.3.11)


〓〓〓:制止と症状

制止とは自我機能の制限の表現であり、自我とエスまたは超自我との葛藤を避けるために起きる機能低下である。この機能の異常な変化や新たな作用が問題となったとき、それは症状と呼ばれるが、それは中断された衝動満足の徴候と代償であり、抑圧過程の結果なのだ。自我はこうした症状と闘うために、様々な防衛を試みることになる。この防衛には抑圧の他に、置き換え、退行、反動形成など、様々な種類があり、その違いによって神経症を分類することができる。また、防衛は自我とエスの区別以前ではその方法が異なり、超自我の形成以前と以後でも異なっている。


〓〓〓:恐怖症、ヒステリー、強迫神経症の防衛

恐怖症1(症例ハンス): ハンスは馬に噛まれるという不安(症状)のために、街を歩くこともできなかった(制止)。馬は父親が置き換えられたものであり、原因はエディプス状況における去勢不安である。幼い年齢では動物と人の違いがまだ分からないので容易に置き換えられ、動物恐怖症を生じやすい。彼は父に対して愛情と嫌悪という両立性の葛藤があり、一方では父親に愛されたいと感じ、それが馬に噛まれる、つまり父親に食べられるという、受動的(女性的)な情愛衝動を示している。他方、それ以上に母親への情愛衝動が強く、母との関係を邪魔する存在として、父親を憎むことになる。しかし、父親への愛情からこの攻撃衝動は抑圧され、逆に父親からの攻撃という反対物に転化し、さらにそれは馬からの攻撃に置き換えられる。それは同時に去勢不安を示しているのである。

恐怖症2(症例狼男): 狼恐怖症のロシア人少年の場合、彼もハンスと同じように去勢不安が原因だが、それは母親をめぐるライバル心からではなく、母親のように父に愛されたいという欲望が強い。つまり、ハンスと違って、両立性の葛藤において父親への愛情がより強かったのだ。しかし、母親のように愛されるためには、自分も去勢された存在でなければならないことになる。この去勢不安が、彼の恐怖症を引き起こしているのである。

ヒステリー: 転換ヒステリーでは、不安は生じない代わりに、運動麻痺、不随意性の運動や痙攣、痛みや幻覚など、症状は運動機能に現れる(転換する)。その原因は、抑圧がおこった状況の中で痛みがあった、幻覚はその状況での知覚であった、麻痺している運動はその状況で遂行されるはずであった、などが考えられる。つまり、身体的な苦痛はあるのだが、その代わりに不安は完全に抑圧されている。

強迫神経症1: 強迫神経症の症状には、まず禁止、警戒、処罰などの否定的な性質のものがあり、その後、これと反対の代償満足が生じる場合がある。原因はヒステリーと同じように情愛衝動だが、性器期的編成が弱いこともあり、抑圧は不完全にならざるを得ない(罪悪感が関係する素材だけしか抑圧できない)。その結果、自我の防衛は初期のサディズム的肛門期への退行に向い、衝動解離によって情愛衝動は攻撃衝動へと変わり、対象への破壊衝動と同時に、超自我の破壊性を強めることになる。そして、自我は厳格化した超自我に服従するあまり、高度な反動形成を発展させ、極度に良心的、同情的、潔癖となる。しかし、超自我の過酷な批判を甘受する(禁止を守る)ことによって、自我は罪悪感を自覚せずにすむという代償満足を得ることができる。逆に言えば、ヒステリーと違い、不安や罪悪感が生じるからこそ、それを償おうと禁止を守るのである。

強迫神経症2: 強迫神経症には取消と分離という二つの手段がある。取消は否定をこととする魔術的な儀式であり、運動の象徴によって不安な状況が起こらないようにし、その状況自体を吹き払ってしまおうとする防衛反応である。また、強迫神経症ではヒステリーのように不安な体験を忘れ去ること(完全な抑圧)はできないが、その情緒を失い、連想的な関係を制圧したり中断することはできる。これを分離といい、正常者が都合の悪いことを遠ざけたり、注意を逸らしたりするのと基本的には同じである。また、攻撃衝動と情愛衝動はどちらも身体的な接触や結合が関わるため、強迫神経症では特に接触や結合が禁止される行為となりやすい。


〓〓〓:不安の問題

不安は期待と明瞭な関係をもち、漠然としていることと、対象がないという特徴がある。対象がある場合は恐怖と呼ばれることになるだろう。不安の根底には興奮の高まりがあり、一方ではこれが不快の性質をつくりだし、他方では緊張解除によって軽減される。不安は危険な状態への反応として起こり、そういう状態に再びおかれると、きまって再生される。そのため、不安は危険状況への信号としての役割を担っており、この信号によって自我の制止が起こり、精神神経症の原因ともなる。例えば、洗浄強迫の場合、手を洗うという強迫行為は、不安の襲来をふせぐという意図をもっている。一方、危険な状況下で自動的に不安反応が現れる場合もあり、これは現実神経症の原因となる。不安は神経症の基本現象であり、症状形成はすべて不安を避けるために企てられたものである。といっても、この不安の原因は自覚されはしない。現実の不安は分かっている危険に対する不安だが、神経症的不安は分からない危険に対する不安なのである。

子供の不安は、愛する人(母親)を見失うという唯一の条件に還元できる。最初は出産という生物学的な意味での母親との離別があり(ランク)、次に直接の対象喪失という意味で母からの離別がある。母親が見えなくなったり、いなくなったりしたときの不安がこれである。乳児は母親が一度目の前から消えると、もう二度と見られないかのように思いこむのであり、それがまた現れるということは学習してはじめて分かることである。「いないいないばあ」という遊戯は、この大切な知識を教えるものでもあるのだ。やがて、対象がちゃんといることが分かっても、今度は対象からの愛情を失う危険性が、不安の条件となるのである。去勢不安もまた、価値ある対象(性器)の喪失を意味し、それが超自我の形成によって、良心の不安や社会的な不安に発展する。この場合、超自我の処罰や怒りが自我の不安を引き起こすわけだが、それは超自我(両親)の愛情を失う不安でもあるのだ。そして、超自我に対する不安の最後の変化は、死の不安である。