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03. フロイト「ある幼児期神経症の病歴より」(症例:狼男)

フロイト著作集 第9巻 技法・症例篇 (9)

・フロイト「狼男症例」(『フロイト著作集9巻』人文書院:所収)より作成

(2000.8.31. 山竹伸二)

本論文は症例「狼男」と呼ばれており、ある患者(以下、狼男と呼ぶ)の幼児期の神経症に関してのみ報告されたものである。狼男の幼児期神経症は、まず4歳頃に不安ヒステリー(動物恐怖症)として始まり、次第に強迫神経症へと変わって、10歳まで続いている。最初、狼男はひどく無関心な状態が続いていたため、分析に協力させるために、フロイトは転移と期限設定法を利用した。陽性転移が起きれば、不安〓抵抗が中和され、精神的平衡が成立する。さらに、一定の期限がきたら治療を打ち切る旨を告げ、患者の病気への執着を弱めたのである。こうして本格的な分析治療が始められることになった。

【環境と病歴の概観】

* 家族の構成は、父、母、姉、乳母。母親は病気がち。父親は抑鬱症。
第一期(〓3歳)……1歳半で原光景。以後、姉の誘惑を受けるまでおとなしい性格。
第二期(3歳〓4歳)……性格変化の時期(姉の誘惑後、暴れ、泣き叫び、イライラする)。
第三期(4歳〓4歳半)……動物恐怖症の時期(不安夢以後)。
第四期(4歳半〓10歳)……強迫神経症の時期(宗教の導入後)。

【誘惑およびその直接の結果】

3歳の頃から姉の性的誘惑(お尻を見せ合ったり、ペニスを掴んで弄ぶ)が始まり、これが男性としての自己感情に不快を与えることになる。姉は知的にも優れており、狼男は姉に圧倒された生活を過ごしていた。この姉に対して受動的であった事実は、姉に対する能動的な態度を示す空想(姉の衣服をはぎ取る等)によって隠蔽されることになる。姉の誘惑を拒絶した狼男は、自分の性器を触ってもらいたいという受動的な性目標をナーニャ(乳母)に向け、性器いじりを始めた。しかし、ナーニャは「そんなことをする子はそこの所(性器)に<傷>を受けますよ」と言う(去勢威嚇)。そのため、彼の性生活は性器以前の性的体制に退行し、サディズム的な肛門愛的傾向を帯びることになる。こうして、怒りっぽくなり、不満を爆発させ、小さな動物に対しても残虐になった。また、サディズムはマゾヒズムにも転化し、姉によって植えつけられた受動的な態度は父親に向けられ、マゾヒズム的な意図の対象とされた。

【夢と原光景】

姉の誘惑によって始まった悪行と性的倒錯傾向は、4歳以降、神経症へと変わる。そのきっかけになったのは、ある不安夢である。夢の内容は、ある冬の夜、窓がひとりでに開き、外には大きな木があり、そこに幾匹かの白い狼が座っていた、というものである。この夢を形成した一番強い願望は、父から(同性愛的)性的満足を得ることであったに違いない。この願望は、1歳半の時に眼にした両親の性交の記憶(原光景)を蘇らせ、偽装されて夢となったのだ。しかしこの光景は、ナーニャの威嚇、おしっこをしている少女を見たことなど、漠然と感じていた去勢が、実際に起こりうることを確信させることになる。母親のような満足を得るためには、去勢されねばならないというわけだ。この父の脅威から逃れるために、彼は父親への受動的態度を抑圧し、狼=父親に対して怖れを抱くようになったのである(動物恐怖症)。

【二、三の討論】

早期幼児期の記憶は、現実のできごとの再現ではなく、空想形成物であるかもしれない。しかし、本症例のように、「その後病歴に対して著しい意義を持つような内容を有する光景は、通例は記憶として再生されるものではなく、むしろ数多くの標示を総合しながら骨を折って一歩一歩推定――されねばならない」(分析による構成)。

【強迫神経症】

4歳半の頃、彼の敏感で不安な状態を改善するために、母親は聖書を教え始める。その結果、動物恐怖症は解消されたのだが、新しく強迫症状が現れ始めることになる。彼は、神の受難に耐えるキリストに同一化し、父に対するマゾヒズム的態度を昇華した。非常に信心深くなり、床につく前には必ず長いお祈りをし、際限なく十字を切り、夕方には聖像の一つ一つに接吻するようになる。しかし、一方ではキリストに受難を与えた神=父へのサディズム的な敵意も生じ、「神〓豚」「神〓大便」という連想をどうしても避けることができなかった。フロイトによれば、このアンビヴァレンツな葛藤は肛門愛に関係している。また、乞食や不具者、老人を見ると大きく息を吐き出し、他の条件では息を吸い込まねばならなかった。それは、悪霊を吐き出し、聖霊を吸い込むという意味があり、病気でやつれた父を見て、そうなりたくはないという願望の現れであった。その後、ドイツ人家庭教師の影響で信仰を捨て、受動的(同性愛的)態度(マゾヒズム)を脱却し、かなり正常な発達を歩むことになる(このことが、分析治療における転移において役立つことになったとフロイトは述べている)。

【肛門愛とコンプレックス】

強迫神経症は加虐的・肛門愛的素質の上に発生している。彼は幼児期から腸障害に苦しんでおり、分析治療を受ける頃にも浣腸が与えられなければ排便活動ができない状態にあった。この腸障害は強迫神経症の根底にある部分的なヒステリーである。不安夢によって抑圧された父への女性的態度は、腸症状に退行し、幼児期の下痢や便秘、腹痛となって表現された。大便は身体から分離可能な贈物であり、子ども、ペニスを意味している。排便行為は快感と引き換えに身体の一部を放棄することであり、母親のように去勢を受け入れて父から快楽を与えられ、子どもを父親に贈ることなのである。動物恐怖症として抑圧されていた去勢が受け入れられ、強迫神経症になったわけだ。

【根源期からの追加――解決】

狼男の記憶に、黄色い縞の入った大きな蝶に不安を感じた、というものがある。この記憶の背後には子守娘(グルーシャという、黄色い縞のある梨と同じ名前)の記憶が隠蔽されている。彼は子守娘が床を洗っている時、小便を漏らしてしまったのである。排尿行為は性的な誘惑を意味している。子守娘の姿勢(蝶の羽のように、脚がV字になっていた?)に刺激された失禁は、子守娘にしかられたのであろう(去勢威嚇)。このグルーシャとの光景の分析によって、患者の抵抗はなくなり、後はただ連想を集めて構成するだけに専心すればよかった。

【総括と諸問題】

口唇的体制は摂食本能に依存した性的興奮であるため、その統御がうまくいかなければ摂食障害となる。やがて口唇的体制は肛門愛体制に発達し、姉の誘惑によって性器的体制に目覚め始めるが、ナーニャの去勢威嚇によって、再びサディスティックな肛門愛体制に退行する。そしてサディズムはマゾヒズムに転化し、アンビヴァレンツな葛藤を抱え込む。次に不安夢による原光景の活性化によって、性器的体制が再び活動し始めるのだが、去勢不安によって恐怖症となる。そのため、無意識的同性愛は腸障害(ヒステリー)を生じさせ、肛門愛のサディズム、マゾヒズムはその後も沈殿して活動を継続。やがて抑圧という高度な形式(宗教による)によって恐怖症は解消するが、代わりに強迫神経症となり、潜在的に活動していたサディズム、マゾヒズムは、神への冒涜、自己=キリストの受難という形ではけ口を得る。やがてドイツ人家庭教師の影響下に、表面的には性器的体制へと移行し、成人となる。しかし、淋病によって去勢不安が復活し、男性的自己愛が挫折。神経症となってフロイトの分析を受けることになったのである。