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02. フロイト「自我とエス」

フロイト著作集 第6巻 自我論・不安本能論 (6)

自我論集

・フロイト「自我とエス」(『フロイト著作集6巻』人文書院:所収)より作成

(2001.3.12)

〓 意識と無意識的なもの

精神分析では、心的なものを意識的なものと無意識的なものに分ける。例えば、あるときに意識された表象は、次の瞬間には消えるのだが、それは再び意識されうる。それはその表象が潜在していた(無意識だった)ということであり、この潜在的な表象は意識されないまま、精神生活にとって影響を与えることができる。意識されないのはある種の力がそれに反対するからであり、この意識されない状態を抑圧といい、抑圧を起こしてそれを支持している力を、精神分析では「抵抗として感じる」と主張する。抑圧されたものは、無意識的なものの原型であり、無意識の概念は抑圧理論から得られたものなのだ。

しかし、「潜在的ではあるが意識されうるもの」もあり、記述的な意味では無意識は二種類あることになる。そこで(記述上の混乱を避けるために)、力動的な意味ではこれを前意識的と名づけることにし、無意識的という名前は「抑圧されて意識されないもの」にかぎることにする。これで、意識Bw、前意識Vbw、無意識Ubwの3つの術語が揃ったことになる。この区別は非常に有効なものであるが、さらに研究を進めていくと不十分であることが明らかになる。

われわれは個人の精神過程の脈絡ある一体制を自我と名づけたが、自我は精神の法廷であり、精神のあらゆる部分過程の調節を行ない、夜の間でさえ夢の検閲を続けている。精神のある傾向は自我によって抑圧され、意識から閉め出されるのであり、精神分析においても、連想が抑圧されたもの近づくと、自我の抵抗によって連想は停滞してしまう。しかし、患者は抵抗に左右されていることが分からない。つまり、自我の中には意識されないものがあるのであり、抑圧されたものと同じように、意識することなしに強い作用を示すのだ。結局、神経症は意識的なものと無意識的なものの葛藤ではなく、「統合する自我」と「分離された抑圧されたもの」との対立を考えねば説明できない。あらゆる「抑圧されたもの」は無意識的であるが、無意識的なものは全てが抑圧されているのではなく、自我の一部もまた無意識的なのである。

〓 自我とエス

内部から意識的になろうとするものは、記憶の痕跡によって可能になる。記憶体系が知覚〓意識体系に直接結びつくとすれば、記憶の残存物がもっている内部の備給は、知覚〓意識体系の要素へと容易に引き継がれると考えられる。この記憶痕跡の備給が知覚要素をおおうだけでなく、完全に知覚要素に移行してしまうと、知覚と区別しがたい幻覚となる可能性があるのだ。そして、何かが意識される(前意識的になる)のは言語表象との結合によるのであり、言語表象は聞かれた言語の記憶の、聴覚的な残存物なのである。一方、視覚的な記憶の残存物は、思考の具体的な素材として意識されても、思考を特徴づけるような素材間の諸関係については、視覚的表現を与えることができない。そのため、言語による思考よりも無意識的な過程に近いと言える。精神分析では、前意識的な仲介者を作り出すことで、抑圧されたものを意識的にするのである。

* フロイトは、意識は物表象と語表象の二つからなるが、無意識は物表象しかないと述べている。例え
 ば夢には素材としての物表象だけが現れ、思考としての素材間の関係も視覚的な表象となって現れる。

快と不快の系列の内部知覚は、外部から由来する知覚よりもはるかに根源的である。このように内部から直接伝達する感覚の場合、無意識的表象を前意識にもたらす結合仲介物は、特に必要ではない。感覚は意識的か無意識的かのどちらかであり、たとえ感覚が言語表象と結合するときでさえ、意識的となるためには直接そうなるのであり、意識と前意識の相違は意味をもたないのだ。

このように、外部と内部の知覚と知覚〓意識の表面体系の関係が明らかになると、自我のことがより明らかとなる。自我はその核心である知覚体系から由来しており、記憶の残存物に依存している前意識を含んでいるが、それ自身は意識されない。一方、自我がその中で存続する他の心理的なもの(無意識的にふるまうもの)を、グロデックにならってエスと名づけよう。自我は知覚〓意識の仲介のもとで、外界の影響によって変化するエスの部分であり、その自我から知覚体系が核心として発展する。自我は知覚体系が表面を形成している部位に限局されており、自我とエスは下のほうで合流している。しかし、抑圧されたものもエスの一部であり、抑圧の抵抗によって自我とは分かれているが、エスを通して自我と連絡することができるのだ。これを図で示すと(273頁)、「聴覚帽」が自我の上に斜めにのっているようになる。

自我はエスに対する外界の影響とエスの意図を有効に発揮させるように努力し、快感原則の立場に現実原則をおこうと努力している。自我は理性を代表し、情熱を含むエスという奔馬を統御する騎手のようなものだ。しかし、熱心な熟慮を必要とする知的作業でも、意識にのぼらずに前意識的に行われることがある。それだけでなく、自己批判と良心のように、きわめて価値の高い精神活動でさえ無意識に行われ、重要な影響を及ぼすことがある。それは、分析中に抵抗が意識されないことからも分かるし、このような無意識的罪悪感こそ神経症に決定的な役割を演じているのだ。自我は意識的自我である前に、身体の感覚が投射された身体自我なのである。

〓 自我と超自我(自我理想)

メランコリー(鬱病)の苦悩は、失われた対象を自我の中に再現し、対象備給を同一視によって代償するというものであるが、このような代償は自我の形成に重大な貢献をしている。そもそも口唇期においては対象備給と同一視は区別されていなかったに違いない。性的対象が棄てられねばならないとき、口唇期への一種の退行がおこり、自我の中に対象をつくることで、自我は対象を棄てることが可能になるのであろう。この取り入れという過程は初期の発達段階ではしばしば起こるので、自我の性格は棄てられた対象備給の沈殿であり、対象選択の歴史を含んでいるのである。

性愛対象選択が自我変化に転ずること(対象の特質を自分の性格に取り入れること)は、自我がエスを支配し、エスとの関係を深める一つの方法である。自我が対象の性状を身につけるとき、自我はエスに対してさえ愛を強いる(自己を愛するようにしむける)のだ。このように、対象リビドーが自己愛リビドーに変わることは、性的目標の放棄をもたらし、非性化、すなわち一種の昇華をもたらす。

* 自我の対象同一視が多くなり、強くなりすぎて不調和になると、個々の同一視が互いに隔絶し、自我の分裂が生じる可能性がある。その極端な例が、個々の同一視が交替しながら、意識自体を引き裂くことが、いわゆる多相性人格であろう。

幼い時代に起こった同一視の効果は永続的であるため、自我理想の背後には最初の最も重要な同一視、特に父との同一視がかくされている。この関係には、エディプス関係の三角関係的な素因と、個体の両性的素質の二つが関わっている。男児の場合、最初は母に対する依存型の対象備給がはじまる一方、同一視によって父をわがものにする。しかし、母への性的願望が強くなると、父がこの願望の妨害者であることを認め、エディプス・コンプレックスを生じる。ここで父との同一視は、敵意の調子を帯びるようになり、母に対する父の位置を占めるために、父を除外したいという願望に変わる。そして、母との同一視か父との同一視を強化することで、(母との関係を保ちながら)母への対象備給を放棄し、エディプス・コンプレックスは崩壊する。普通は父との同一視を強化し、父との関係はアンビヴァレントになり、男児の男らしさは堅固なものになる。

しかし、父と母、どちらの同一視に終わるかは、両性的素質の相対的な強度に依存している。例えば、男児は母に対する愛情の対象選択だけでなく、女児のようにふるまい、父に対して女性的態度を、母に対して嫉妬深い敵対的態度を示す場合がある。女児の場合も、普通は母との同一視の強化によって女らしくなるのだが、父との同一視によって男らしさを現すことがある。より詳細に研究すれば、完全なエディプス・コンプレックスの場合、陽性と陰性の二重のコンプレックスがあって、この両性的素質が互いに干渉していると考えてよいだろう。

エディプス・コンプレックスに支配される性的段階の結果として、互いに結合した二つの同一視が設立され、自我の中に沈殿が起こる。この自我変化は特殊な立場を保ち、自我理想あるいは超自我として、自我の他の内容に対立することになる。しかし、超自我はエスが最初に対象を選択した際の単なる残存物ではなく、その対象選択に対する精力的な反動形成の意味を持っており、自我との関係は「お前は父のようであらねばならない」という勧告だけではなく、「お前は父のようであることはゆるされない」という禁制をも含んでいる。これは、自我理想がエディプス・コンプレックスの抑圧によって生まれたからであり、その抑圧が(権威、宗教教育、授業の影響で)加速度的に行われるほど、超自我は良心、無意識的罪悪感として自我を厳格に支配するのである。

自我理想とはエディプス・コンプレックスの遺産であり、自我が本来、外界現実の代表者であるのに対して、超自我は内的世界、つまりエスの代理人として自我に対立する。自我と理想の間の葛藤は、現実と心理の、外界と内界の対立を写すものなのである。その後の成長過程では、教師の命令や禁止等が自我理想に残り、良心として道徳的監視を行ない、自我の行為との間の緊張は罪悪感として感じられることになる。また、社会的感情は、共通の自我理想にもとづく他人との同一視によって成り立つ。

〓 二種類の本能

本能にはエロス(性本能、自己保存本能)と死の本能があるが、この二種類の衝動は混合することもあれば、解離する可能性もある。例えば性衝動のサディズムは衝動が混合しているが、独立したサディズムは解離の典型である。一般に、初期の段階から性器期への進歩はエロス成分が加わるのだが、性器期からサディズム肛門期への退行は衝動が解離すると考えられ、神経症では衝動解離と死の衝動の発現が見られる(後に述べる強迫神経症など)。この二種類の本能の対立は、愛と憎しみの対立で置き換えることもできる。様々な事情によって、愛は憎しみに変わる。アンビヴァレントな態度は最初からあるもので、変転は、エネルギーが性愛的興奮から離れて敵対的エネルギーに移ることによるのである。

この移動エネルギーは非性化したリビドーであり、自我はリビドーの一定部分を、自己とその目的のために昇華し、それによって緊張を支配するエスの仕事を助けるのだ。そもそもの初めに、あらゆるリビドーはエスの中に蓄積されたが、自我はまだ形成中であり弱体であった。エスはこのリビドーの一部分をエロス的対象備給におくり、次に強化された自我はこの対象リビドーを占有(わがものに)し、自己をエスに対する愛の対象たらしめようとする。自我の自己愛は対象という二次的なものから撤退したものなのである。

〓 自我の依存性

自我は大部分が、放棄されたエスの対象備給の代わりになる同一化から形成されている。この同一化の最初の時期に属する超自我は、自我の中で特別の機関としてふるまい、その後、強化された自我と対立するようになるのだ。超自我は、自我がまだ弱い時期に起きた最初の同一化であり、エディプス・コンプレックスの遺産として強大な対象を取り入れた結果であるため、生涯にわたって強い支配力を保持することになる。子供が両親に従うように、自我は超自我の命令に服従するのだ。そして、エスのうちに深く入り込んだ超自我は、自我に対してエスの代表としてふるまい、意識から遠く離れているのである。

これらの関係を示す臨床的事実がある。例えば、分析中に治療の現状が良好であることを示したり、部分的解決が得られたりすると、きまったように状態を悪化させる人々がいる。これを陰性治療反応というが、問題は道徳的な要素、罪悪感にあるのだ。この無意識的罪悪感の原因は、かつての放棄された愛情関係、その影響下に形成された超自我(自我理想)にある。罪悪感を取り除くには、抑圧された原因を徐々に取り除き、意識的な罪悪感に変わるようにするしかない。また、分析者が自我理想の位置に置かれるかどうかも、治療結果を左右するだろう。

強迫神経症とメランコリーでは、罪悪感は非常に強く意識され、自我理想は特別な厳格さを示す。メランコリーの場合は超自我が意識を独占しており、批判対象は同一視によって自我に取り入れられているので、超自我は自我に対してサディズムを発揮する。この場合、死の本能が超自我を支配しており、自我は死に駆り立てられるのを防ぐためには躁病に転じるほかない。これに対してヒステリーでは、超自我の批判は抑圧され、罪悪感は無意識なままにとどまる。しかし強迫神経症では、自我は罪悪感が関係する素材だけしか抑圧できないため、抑圧された衝動によって罪悪感は生じるのだが、自我によって是認されることはない。

強迫神経症では、前性器的体制への退行によって、愛の衝動が(衝動解離によって)攻撃衝動にかわるのだが、メランコリーと違って対象は保持されているため、この攻撃衝動が自己へ向かうことはなく(つまり自殺衝動はない)、対象を滅ぼそうとする。この攻撃衝動はエスにとどまり、それに対して自我は反動形成や予防策を講じるのだが、それでも超自我はこの攻撃衝動に対して自我を非難する。そして、超自我の非難によって攻撃を統御すればするほど、攻撃衝動は自我へ向け換えられたことになる。死の本能は、リビドーを統御する力を与えるが、それは自己の生命を失う危険性をともなっているのである。

* 衝動解離はエロス的成分の昇華と破壊性の解放をもたらすのであり、超自我の場合も父との同一視
 によって衝動解離が生じ、その残忍性を強めることになったのであろう。

自我は外界の脅威、エスのリビドーからの脅威、超自我の脅威という、三様の不安におびやかされている。超自我に対する自我の不安、つまり良心の不安は去勢不安から引き継がれたものであり、死の不安も去勢不安の加工されたものだと考えられる。神経症的不安は、自我と超自我とのあいだの不安(去勢の、良心の、死の不安)によって強められるのであろう。自我はエスの無意識的な命令を合理化し、エスと現実や超自我との葛藤を解消しようとするのであり、精神分析は自我のエス征服をおしすすめるのに役立つのである。