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15. フロイト「抑圧」

衝動(欲動)を無効にしようとする抵抗にぶつかるのが、衝動の運命である。衝動はある条件のもとで抑圧の状態におかれる。外的な刺激作用が問題なら「逃避」すればよいのだが、衝動の場合には逃避という方法は役立たない。「そこで、のちには判断の回避(拒否)という衝動に対抗する良い方法が見つかるだろうが、その前段階、つまり逃避と拒否の中間物が抑圧であり、その概念は精神分析の研究以前には設定できなかった」(p.78)。

「抑圧」が起きるには、衝動目的を達成することが快感ではなく不快感を与えてしまう、という条件が必要である。抑圧のもとにある衝動は満足の可能性が充分にあるし、それ自体は快感に満ちているが、他の要求や意図と一致しない。それは一方では快感を、他方では不快を生むのであり、不快の動機が満足の快感よりも強い力を持つことが抑圧の条件となっている。また、精神分析の経験からすれば、「抑圧はもともと存在する防衛機制ではなく、意識された精神生活と無意識の精神生活とのはっきりした区別ができる以前にはありえないということ、抑圧の本質は意識からの拒絶と隔離においてのみ成り立つということである」(p.79)。抑圧の機制が生じる以前は、反対物への転化、自分自身への向け換えなどが衝動を防衛していたのだ。「精神の審判秩序の構造や、無意識と意識の区別をもっと経験するまで、抑圧の本質の深みに入り込むのを延期しなければならない」。われわれにできるのは、抑圧の二、三の特徴を記述的にまとめることだけである。

「われわれには原抑圧Urverdrangung、つまり衝動の心理的(表象的)な代表が意識の中に入り込むのを拒否するという、第一期の抑圧を仮定する根拠がある。これと同時に定着が行なわれる。というのは、その代表はそれ以後不変のまま存続し、これに衝動が結びつくのである。これは後で述べる無意識的な過程の特長の結果おこるのである」。「抑圧の第二段階、つまり本来の抑圧は、抑圧された代表の心理的な派生物に関連するか、さもなくば、起源は別だがその代表と結びついてしまうような関係にある思考傾向に関連している。こういう関係からこの表象は原抑圧をうけたものと同じ運命をたどる。したがって本来の抑圧とは後期の抑圧である」。原抑圧を受けたものは、それと関連する可能性のあるすべてのものに引力を及ぼすのだ。

抑圧は意識の体系への関係だけしか妨げないので、抑圧されたものは無意識の中で存続し、組織化され、派生物を生み、結びつきを固くする。衝動の代表が抑圧によって意識の影響をまぬがれると、無意識において自由に発展するのだ。それは闇の中で極端な表現形式を見つけてはびこるため、神経症者の心の中で育つと、患者にとっては異物にしか見えない。「神経症の症状は抑圧されたものの派生物」であり、拒絶されていた意識への通路を症状形成によって最終的に勝ち取ったものなのだ。(精神分析では、抑圧されたものの派生物を出すように要求しているのであり、その派生物は隔離や歪曲のために、意識の検閲を通過できる)。

抑圧は個別的であるだけでなく、流動的でもある。「抑圧とはたえず力の消費を必要とするものであり、その消費を中止したら重大な結果をまねくであろうから、新しい抑圧の働きが必要となる」(p.81)。抑圧されたものは意識されたものにたえず圧力をかけていて、それにはたえず反対圧力が加わり、平衡が保たれている。抑圧し続けることは力の消費を意味するのだ。また、抑圧の流動性は、夢の形成にも示されている。衝動が活性化すると、直接に抑圧を放棄するのではなく、回り道をしながら意識に入り込もうとする。しかし、活性化によって不快な表象がある程度以上に強くなると抑圧が生じる。抑圧は不快をやわらげることにその代償を見つけるのだ。

ここまでわれわれは、衝動代表を衝動から汲んだある量の精神的エネルギー(リビドー)でみたされている表象(表象群)として理解してきたが、表象以外にも衝動を代表するものとして「情緒価」がある。このことから、衝動の運命は三種類あることがわかる。「つまり、衝動はまったく圧迫されて見えなくなってしまうか、なんらかの質的な色彩をおびた感情として現われるか、または不安に転化するかである。最後の二つの可能性は、衝動の精神的なエネルギーを感情、とくに不安に置きかえることが衝動の新しい運命なのだと理解するように教えている」(p.82)。「われわれは抑圧の動機と意図が不快をさけることにほかならないことを覚えている。したがって、衝動代表の感情価の運命は、表象の運命よりずっと重要であり、これが抑圧過程の評価を決定するのである。抑圧が不快や不安の起こるのを防ぐのに失敗したら、たとえそれが表象の部分でその目的を達したとしても、それは失敗だといってよいだろう」(p.83)。

抑圧とは一般に代理形成を生み出すものだ。では、代理形成と症状形成を一致させてよいのだろうか。症状形成のメカニズムと抑圧のメカニズムは一致するのだろうか。さしあたり言えるのは、「この両者はまったく違うものであり、代理形成や症状形成を作るものは抑圧それ自体ではなくて、まったく別な過程から発生する抑圧されたものの再現の徴候なのだということである」。事実、抑圧のメカニズムは代理形成のメカニズムと一致しない。代理形成のメカニズムには様々な種類があり、そのうち一つは抑圧のメカニズムに共通する点がある。それはエネルギー充当(性衝動を問題にするならリビドー)の除去である。

不安ヒステリーの場合(例;動物恐怖)。抑圧のもとにある衝動興奮は、父に対する不安をともなったリビドー的態度であり、抑圧後、この興奮は意識から消えていたが、代理として、不安の対象に適した動物が父と同じ位置を占めていた。表象部分(リビドー対象としての父親)の代理形成は「置き換え」(動物)の道をたどり、その結果、父に対する愛情要求は狼への不安になったのだ。この場合、抑圧は失敗したものと考えてよい。抑圧の作業は表象を除去して置きかえただけであり、不快の軽減は成功していないからだ。そのため神経症の活動はしずまらず第二段階に進み、不安の発生を防ぐ多くの回避が行なわれる。

転換ヒステリーの場合。抑圧によって「情緒価」はまったく消えてしまう。(他の場合には、抑圧はそれほど完全ではなく、苦痛な感覚の一部が症状自体と結びついたり、いくらかの不安の発生が避けられなくなり、恐怖症のメカニズムを働かせる。)転換ヒステリーでは、衝動代表の表象内容は意識から完全に除去され、代理形成として、神経支配が起こり、時には感覚性、時には運動性の性質を持ち、興奮または制止として現われる。過度に神経支配された場所は、抑圧された衝動の代表自体の一部なのだ。「ヒステリーの抑圧は、それが充分な代理形成によってのみ可能であるかぎり、完全な失敗だと判断されても仕方がない。しかし抑圧の本来の課題である情緒価の処理という点では、ヒステリーは一般に完全な効果をおさめている。その場合転換ヒステリーの抑圧過程は、症状形成で終了して、不安ヒステリーのように二段階に――または無限に――つづく必要がない」(p.85)。

強迫神経症の場合。「退行」によって、情愛的な力がサディズム的な力にかわって現われるため、抑圧下にあるのがリビドー的な力なのか敵意をもった力なのかはっきりしない。愛する人に対する敵意に満ちた衝動が抑圧下にあるのだ。「まず抑圧の仕事は完全な成果をおさめ、表象内容は拒絶されて情緒は消失してしまう。代理形成として自我の変化、つまり、症状とはいえないような良心の高まりが現われる。ここで代理形成と症状形成は分解してしまう」。抑圧はリビドーの除去をもたらしたが、その目的のために、反動形成、反対物の増強という方法を使ったのだ。「しかし、初めはうまくゆく抑圧も長続きせず、経過が進むにつれて失敗が多くなってくる。反動形成によって抑圧を許した両立性は、抑圧されたものが再現できる場所でもある。消滅した情緒は、社会的不安、良心の不安、容赦ない非難などに変化してふたたび現われてくる」。拒否された表象は置き換えによって代理される。しかし、この表象は意識によって執拗に拒否され続ける。「そこで強迫神経症の抑圧の仕事は、なんら効果のない、終わることのない輪を描くのである」。