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14. M・ボス『精神分析と現存在分析論』補遺

精神分析と現存在分析論

(2002.11.19.フロイト研究会:山竹伸二)

1 《転移》と《行為化》の取扱い方

現存在分析的に考える治療者は、フロイトの分析上の諸注意を卓越したものだと認め、むしろ精神分析家たちよりも忠実にフロイトの注意を実践していると言える。それは、フロイトの二次的な理論仮説を鵜呑みにせず、現存在分析的に捉え直しているからであり、現存在分析家はフロイト派とは別様に治療問題と向き合うことになるのである。特に転移の解釈について、現存在分析はフロイトの理論を大幅に修正することになる。

フロイトによれば、転移とは抑圧され忘却されていた、本来は両親に向けられるはずの感情であり、患者は幼児期の感情を治療者との関係において、行動として反復するものである。それは幼児期の感情を意識化することへの抵抗であり、克服される必要のあるものだ。そこで分析医は、自己の感情を殺して冷静さを保ち、転移における行為化を拒絶し、それを解釈していかねばならない。それによって、本来の幼児期の衝動に関する想起が可能になるのである。

しかし、現存在分析的に理解する分析医は、こうしたフロイトの転移や行為化の操作に賛成することはできない。それは、患者の分析医に対する感情が、現在の状況から発するものではなく、幼児期の感情だという証拠はどこにもないからだ。事実、転移を解釈してもすぐには治らないことはフロイト自身が認めているし、だからこそ何度も解釈し続ける徹底操作の必要性を主張しているのだ。だが、現存在分析的な治療家からすれば、こうした徹底操作は決して有効とは言えない。

「むしろ現存在分析的な治療家は転移性恋愛を分析者に直接向けられた、真の共人間的関係とみなす。被分析者自身により体験されたとおりのものとそれをみなすのである。たとえ、この共人間関係が被分析者の神経症的な成熟遅滞によって、また彼らの幼児期のあやまった刻印によって、なお全く幼稚な型でしか示されないにしても、またそこでは《現実の状況》が全く誤認されているにしても、転移性恋愛を真の共人間関係とみなすという根本的事態にはなんのかわりもない。」(p.164-165)。

そもそも被分析者が分析医を愛しはじめるのは、被分析者が分析医こそ自分を本当に理解し、神経症的な歪曲があろうと、あるがままに受け入れるからに他ならない。共人間的な関係の中で自分の固有なあり方を出せるからこそ、被分析者は分析医を愛するのである。いかなる愛であろうと、その起源は自分に固有な存在を十全に展開できる可能性にある。したがって、現存在分析家は転移という行為化の中に、新しく芽生えてきた関係可能性に直接属している部分現象を見るのであり、この行為化を新たな態度可能性の展開として肯定的に捉えることになる。行為化を避けるのではなく、行為として示させることが、むしろ治療に繋がるのである。

行為化を解釈するような関係の中では、決して容認されず存在することを許されなかった態度可能性が、被分析者自身によって繰り返し経験され、習得され、自己のものとされることはないだろう。そして、被分析者の「行為として示す」態度が、分析医によって没価値的な意味で幼児的と見なされ、ずっと以前に克服されていて然るべきものと見なされるなら、患者の行為化を想起へと移しかえようとする分析医の態度は、非常に有害な効果を及ぼすことになるのだ。

以上のことは、フロイトも実際の治療においては実践していたと言える。なぜなら、徹底操作と言っても強引に解釈するのではなく、実際には流れに任せ、時がくるまで何もすべきではない、とフロイト自身が述べているからだ。つまり、それは行為をそのまま許容しておくということであり、結果的に現存在分析家のやり方と同じになるからである。勿論、行為化が二次的に抵抗として利用されることもある。それは、より怖れている領域の意識化に抵抗するために、すでに自己化し終えている関係様式が利用されるのだ。しかし、これは分析医に対してだけ演劇的な色彩をもって現れるので、すぐに抵抗であることがわかる。

患者が自己を開くことができるのは、患者の態度様式の中へ分析医が自らを関与させるときである。その医師の態度様式は、小児の母に対する関係のように、言語的なものよりも身振りや許容的沈黙においてより効果を現すであろう。実際、行為化を記憶表象へ移しかえることは、小児分析では早くから捨てられている。これは成人患者の場合でも同じことが言えるのであり、決して行為化の意味を理解するようにせき立てたり、強く自覚を促してはならない。それは患者を危険にさらすことになるだろうし、せいぜい教育者としての分析医に似た贋ものに仕上げられるだけなのだ。

「それ故患者が必要としているのは、医師による《行為化》の合理的理性的説明なのではなく、なによりも長い時期にわたって彼自身がくりかえし反復できる次のような経験なのである。つまり、共人間的医師患者関係という《戦いの場》の上で《行為する》ことをゆるされるという経験、即ちこれまで彼が自分で容認しなかった種々の態度可能性を試みることができるという経験なのである。」(p.169-170)。

行為化に対して、その意味を「何故」と問うのではなく、そのような行為を「しないのは何故なのか」と問わねばならない。記憶の中から一つの「原因」を見出しても、それが厳密な意味での「原因」とは言えないし、それを意識するだけでは神経症的な態度を変化させることはできない。神経症的な態度の変化は、それまでの病因的な共同世界よりもはるかに自由に開かれた、分析医との信頼関係、共人間的関係空間によってのみ可能なのだ。「そしてこの信頼の関係を通じて分析医は患者に、彼の幼児における神経症的歪曲を経験させることができるのであり、またそれだけに止まらずさらにその歪曲が成人の今日にまで及んでいることを経験させうるのであり、同時にまた彼に本来の自己存在へといたる勇気を与えることができるのである。」(p.171)。

現存在分析家も幼児期の出来事を重視するのだが、それは記憶の想起が原因を取り除けると信じているからではない。過去のことがらは現在の態度の中に残っており、幼児期における狭隘化や歪曲もまた現在に生きているからである。「そもそも人間の過去、現在、未来が本質から関連しあっているからには、被分析者が現在の自分の神経症的な拘束と歪曲を十二分に、しかも必要なしなやかさをもって自覚し、同時にそれによって自由な未来可能性に気づくことができるようになるためには、かならず彼が彼自身の個人的な生活史経験の全部を一緒に思い出し現前せしめることができねばならないのである。」(p.173)。

ところで、精神分析は「拒絶」の中で進められるべきだとフロイトは主張したが、彼のいう「拒絶」とは、共人間的関係空間を十分な拡がりをもって容認しつつ、開き保つことである。実際、精神分析家は「拒絶」という言葉の本来の意味とは逆に、長年に渡って患者のために存在し、患者の反抗的な態度にも耐えるのであり、現実に分析医への信頼を呼び覚ますのは、医師の愛情深い共人間としての関心なのだ。

ある婦人患者は、床の上でひざまずき寝椅子にのもたれる姿勢をとろうとした時、分析医はすぐに「何故」そうするのか、それは何を意味するのかと問われたために、患者はこれを無情な禁止として体験し、治療は二年以上の遅れが生じてしまったという。実際、それは抑圧された記憶の行為化などではなく、むしろ幼児期においてはそのように行為できなかったことが問題であった。かつての親子関係ではできなかった行為を、分析医への信頼のもとではできそうになっていたのだ。まさに信頼できる母親のもとで、安心して行為ができる子どものように。分析医は「何故」と問うのではなく、「しないのは何故なのか」と問わねばならないし、もっと言えば無言の身振りによって、患者が安心して行為できるようにするべきなのだ。勿論、愛情を求めてきたから性行為まで許容するわけではない。それは幼児的な愛情渇望からくるものであることを認識しておくべきであろう。

第二編 現実の不安や現実の危険をさける例 ― 幼児期の防衛 ―

6章 空想における現実否認

防衛の精神分析的研究は、エスと自我の葛藤(ヒステリー、強迫神経症の分析)にはじまり、次に自我と超自我の葛藤(メランコリーの分析)、自我と外界(現実)の葛藤(動物恐怖症の分析)へと、その研究を進めてきた。特に幼児期は身体的に弱く、誰かに頼らなければならないので、現実の不快や危険にさらされやすい。では、幼児はどのように外界に対して防衛するのだろうか。

ハンスの動物恐怖症: ハンスは母を愛し、父には嫉妬のために攻撃的であった。しかし、父を愛してもいたので、攻撃的衝動の罰として、自分は去勢されるのではないか、という不安がおきた。この去勢不安を現実の不安と同じように恐ろしく感じたので、まず《置き換え》という防衛法が利用された。父に対する不安は動物への不安に置き換えられ、父に対する恐怖を《転倒》して、父から迫害されているという不安に換えた。さらに、口唇期の特性である、咬み切られるのではないか、という不安にまで《退行》した。こうして、母への禁止された愛情、父に対する攻撃衝動は意識から消えたのだが、去勢不安はウマへの恐怖として残り、戸外へ出ることを断念しなければならなくなった。ハンスの恐怖症を治すためには、不安がウマとは関係ないことを示し、その後で父を恐れる必要もないことを示す必要がある。しかし、ハンスは恐怖症が治った後も、父より身体(性器)が小さいことで、父への嫉妬、攻撃性は残っていた。そのため、ハンスは「鉛管工が釘抜きで尻と性器をぬきとり、より大きく、より立派なものにつけかえる」という空想(父と同じ性器をもつ空想)によって、現実を否認し、自分の願望を満たしたのである。

大人と動物を同一視することは、正常な子どもでもよく見られる。ある7歳の少年は、ハンスと同じように父親を動物(ライオン)と同一視することで、父への不安を動物に置き換え、空想の中でライオンを飼い慣らすことで不安を解消している。つまり、空想によって現実の不安を否認すること、特に動物空想によって父への不安を解消することは、子どもではよくあることなのだ。こうした白昼夢は、やがて自我の現実検討の力が強くなってくることもあり、児童期の初期が過ぎる頃にはなくなってしまう。

7章 言葉や行為における現実否認

大人が子どもに与える喜びのうち、多くのものは現実の否認によってつくり出される。小さい子どもに「なんと大きいんでしょう」と言い、事実は逆であるのに、「お父さんのように」強い、「兵隊のように」勇敢だ、などと言う。子どもが怪我をすると「もうよくなった」と言い、子どもが嫌いな食べ物だと「ちっともまずくない」と教え、誰かがいなくなって寂しがると「すぐ帰ってくる」と言う。子どものほうも、こうした慰め方を利用するようになり、苦しいことがあると「なんともない」といつも決まって言い、母親が部屋からいなくなると「ママ、すぐくる」と呟いたりする。しかし、こうした子どもの強迫的現実否認は、その環境から逃れようとするもので、それ自身病的な性格をもつものではない。

強迫神経症においては、反動形成が禁止された衝動興奮を逆転し、抑圧は反動形成に加勢されて安定する。子どもが空想、言葉、行為によって現実を転倒する場合も、同じような不安の解消ができる。(ただ、神経症の場合は内在化された葛藤が問題だが、子どもの場合は外界への防衛であるところに違いがある)。言葉や行為による現実否認の防衛方法は、空想における現実否認と同様、自我の現実検討の力が強くなる頃には利用できなくなる。しかも、空想なら誰にも知られることもないが、言葉や行為は外界に表出されるため、外的条件によってより制限されるのである。

8章 自我機能の制限

現実否認と抑圧、空想と反動形成の間には類似点がある。外界の不快と内界の不快を避けようとする方法の間には、ある平行関係があるのだ。子どもがもう少し成長してくると、現実否認のような方法を用いなくても、外界の不快を避けることができるようになる。実際に不快になるような場面を避けることができるからだ。特に他人の優れた成績を見ること(遊びや運動、勉強など)は、父親(女の子の場合は男性)への劣等感、自分より大きな性器への嫉妬に繋がっているため、その活動を止めることになる。(* アンナ・フロイトは去勢コンプレックスの考えを踏襲しているため、自我の劣等感情を去勢不安やペニス羨望に還元する傾向があり、問題を複雑にしてしまっている)。自分の活動を制限し、不快なことに遭遇しないようにすること、これを自我機能の制限という。

自我機能の制限は、神経症の制止との間に平行関係が見られる。神経症の制止は禁止された衝動が行為に移されないように防衛しているのであり、それは環境が変わっても変化しないが、自我機能の制限は外界に対する防衛であるため、環境の条件によって変化する。制止の背後には衝動的願望があるため、単純な制止で間に合わなくなると神経症になるのだが、自我機能の制限の場合、制止のような葛藤は起きない。それは外界の不快を避けることが目的なのであり、自我発達の正常な過程なのである。しかし、過度に逃避ばかりしていれば、それは自我の貧困化、神経症的な制止に繋がってしまう。そのため、最近の教育学のように自由ばかりを与えるやり方は、決して好ましいことではない。

2 フロイトの《無意識》に関する現存在分析論的考察

フロイトの抱いていた中心的な関心は、心的現象に了解可能な意味性を提示することにあった。すでにディルタイが自然科学的な説明に対して「意味連関の了解」という概念を対立させていたが、この了解可能な有意味性が、一見無意味な心的現象(失策行為、夢、神経症、精神病)においてさえ支配していることを主張したのだ。また、フロイトは心的現象の意味を、ある目的へ向かう《途上にある》ものだと考えた。その目的とは、他の全ての共人間に対して自由な対人関係を獲得することであり、それこそ精神分析療法の目的でもあるのだ。

フロイトはあらゆる心理過程に意味があることを示そうと努力したすえに、《無意識》という概念に到達することになった。彼は無意識を《本来の、真に心的なるもの》とさえ呼んでいる。そして、無意識を意識の下に存在する《心的局所》として、深層にある《心的体系》として把握しようとしたのだ。それは直接的な経験を超えているので、超心理学とも呼ばれていた。フロイトは失策行為や神経症症状、夢などの背後に無意識の願望が働いていると仮定したのだが、無意識という仮定が立てられると、今度は潜在的な観念である前意識と、抑圧されて意識化できない無意識を区別するようになる。そして後期の超心理学において、意識と無意識の概念は、エス、自我、上位自我などの観念に置き換えられてゆく。無意識という概念は、最初はある心的事象の特性(心的過程の謎めいた性格)として考えられていたのだが、やがてその意味を離れ、《心的局所》、《心的体系》という自立的な事物の意味を獲得したのである。

フロイトによれば、無意識の仮定が必然的であるのは、意識という事実がきわめて間隙的だからである。例えば、われわれは頭に浮かぶ思いつきの由来を知らないし、時には思考結果についても、なぜそのような形になったのかを理解できない。心的作用が全て意識を通じて経験されねばならないとしたら、これは説明できないのだが、無意識の作用をそれらの間に挿入すれば説明できることになる。無意識という仮定に立つと有用な行為を行うことができるのだ。

しかし、無意識という仮定は意識と同様に正当なものだとフロイトは言うが、そもそも《意識》という仮定の正当性が問題である。意識とは本来何なのか、それを確信をもって断言しうる人は一人もいない。フロイトも意識という概念を明確にしようと努力はしているが、彼の結論は、意識は心的装置の知覚する表面に他ならない、というものに過ぎなかった。意識は知覚という感覚器官の役割を担っており、外界や内面からの刺激に言語表象(聴覚的な記憶痕跡)を結びつけることで、思考活動が意識化されるというのだが、これは後に有害な影響を与えるだけの理論であった。大体、幼児は意識的に考える場合でも、言語的観念を自由に使うことはできないし、意識には暗闇があることを認めざるを得ないのだ。

また、フロイトは心的現象に意味連関をもたらすために、無意識の中で心的活動が起こるという考えを導入したのだが、それは自然科学的な因果連関の世界への退却に他ならないものであり、意味連関に関する理解としては間違っている。そこには自然科学そのものの前提をなしている機械論的な世界観があり、この哲学的前提が彼の人間観を作り上げている。しかし、無意識という仮定を立ててみても、人間の態度可能性を現実的に把握する上では役に立たない。それは人間を写真機のように見なしてその構造を解明するようなもので、写真家の存在を考えないような考え方なのである。

「もしフロイトの思索の根底にある《哲学的》基盤をまったく正しいものとするなら、彼が《無意識》という言葉で意味したような、特殊なリビドーの貯蔵所、《心的局所》あるいは《心的体系》といった仮定は不可避となるであろう。もし人間のあらゆる心的現象の《本来的に真なる》出発点として、衝動とか秘められた欲求とかの《質を持たない》興奮の度合いを採用してしまうなら、けっして直接的には知覚することのできない多くの心的な変化過程の場所として、このような心の暗室を考える以外に手があるであろうか。」(p.189)。

現存在分析論的な人間理解では、無意識という無用な仮定を完全に不要なものとして廃棄している。外的現実や、表象、思考過程は、心の中のどこか(心的局所)に支点を持たねばならないわけではなく、それらは現存在の光の中で自らを示してくるのだ。「人間はすでに根源から、自分の現存在の光に照らされ理解されてくる事物や共人間に対する関係のうちへと、あらかじめ自らの場所を開き整えるという仕方で、自己を示し、実存し、自己の時間を費し、また自己の現存在を充実させるのである」(p.191)。多様な現象はそのまま直接的な現実と認めることができるのであり、それらを無意識という不適当な欺瞞へとおとしめる必要はないのだ。

「さらに現存在分析論的な視点からみれば、直接的な経験を超えねばならぬという必然性はすべて消失する。フロイトをして《無意識》という概念の規定へとかりたてたいっさいの心的現象は、現存在分析論的な視点からみれば、なんの困難もなく、直接的な経験から照明されるのである。」(p.192)。

例えば私がフライブルク大寺院を思い浮かべている場合、私はフライブルク大寺院のもとにあり、それを思い浮かべている関係のうちに滞在しているのであって、次の瞬間には別の事物を《明るみの境域》へと引き込み、現れさせることもできる。無意識にあったフライブルク大寺院が前意識となり、意識に浮かび上がってくる、などと考える必要はないのだ。同じように、開会の辞で「閉会を宣言します」と述べた人に対し、無意識の中に閉会を望む衝動を持っていたと考える必要もない。彼は参加者への拒否的な関係の中に滞留していたのだが、あからさまに現前しなかっただけなのである。

「したがってもしわれわれが、一般に全く不適切な言い方で《表象》とよばれているかの直接的経験のもとに滞留するなら、われわれは精神内部の空間といういみでの《無意識》とか《意識》とかいった思弁的補助的概念構成を全然必要としないであろう。われわれはその際には、《たんに》事物へのわれわれの関係について語ればよいのである。」(p.193)。

神経症においても、無意識に抑圧された観念を想定しなくとも、神経症者のそのつどの世界関係という、直接的な現実へ引き戻して考えることができる。例えば、ある少女は職場への通り道で働いている青年に恋をしていたが、そのような素振りは一切見せず、ある日、両下肢の麻痺を来した。彼女の両親は性的なものを嫌い、男性への愛情を禁止していたので、少女はこの《してはならぬ》という要請に支配され、それは身体をも含めた少女の全存在に及んでいたので、この《してはならぬ》が両下肢麻痺の形で現れたのである。《してはならぬ》は青年との出会い以前からすでに存在し、そこにとどまっていたのであり、少女は《してはならぬ》へと頽落していたのだ。この場合、何らかの表象が無意識に抑圧されていたわけではない。《してはならぬ》は表象ではなく、事実的な青年に関係した一つの特殊な様式なのである。

最後に、フロイトが無意識の仮説を信じた大きな理由として、夢がある。『夢解釈』の全内容は何の損失もなく捨て去ることができるのだが、この書物の最初の命題だけは残ることになる。それは、「あらゆる夢はいみにみちた心の産物であり、覚醒時の心的活動の一定の位置に組み入れることができる」という命題であり、これこそ人間のあらゆる現象には意味があるという新しい思考の発見である。この洞察だけは、その後の自然科学的な理論的退行によっても、少しもくもらされることはなかったのだ。また、フロイトの無意識の仮説は確かに多くの批判を受けねばならないのだが、現存在分析論的な人間理解と同じ意義を持つ領域へと焦点を合わせているのも確かである。

「そのたえざる《無意識》への探求により、フロイトはつねに匿されたものへの、秘匿性そのものへの、途上にあった。秘匿性と闇黒なしには、人間それ自体であるところの、事物を開示する明るみの領域としてはありえない。光と闇、秘匿性と顕示とはわかちがたい一体をなしている。おそらく、フロイトはただこのような事態の予想からして、《無意識》について、とくにつぎのように言うことができたのであろう。無意識は《本来的なもの》であり、《人間の精神におけるけっして損われざるもの》である、と。」(p.203)。

『精神分析と現存在分析論』主要箇所の抜粋と検討

「つまり人間はその本質からして隷属ではなく自由な存在可能に属しているのであるが、それに相応して人間はまたつねに本来の責任ある自己存在から逃れ、無人称的な共同世界のメンタリティへと、つまり「ひと」へと転落し、日常生活の中にわれを忘れるものでもある。それゆえフロイトは、精神分析の治療においてはつねにまず第一に、まったく誠実に自己自身に対することへの反抗と抵抗をこそまず第一に処理すべきことを、つよく忠告するのである。」(p.54)。

ボスはハイデガーの考えを踏襲し、人間は自由な存在の可能性を有しているが、日常生活の中で本来の自己を忘れて頽落しているという。そのため、神経症も頽落したあり方と見なされ、本来の自己に立ち戻らせようとすれば抵抗が生じるのであり、フロイトが抵抗を重視したのはそのためだと主張している。精神分析は、実践においては現存在分析的な理解があった、少なくとも暗黙のうちにそうした理解が実践に結びついていた、というのである。

こうしたボスのフロイト評価は、フロイト理論の証明し得ない仮説性ばかりを批判する他の実存派のセラピストとは違って、かなり公平な見方だと言える。また、実存論の視点から精神分析の実践を捉え直すという考え方も、方向性としては正しいと思う。しかし、ボスはハイデガーの考え方をあまりにも鵜呑みにし過ぎている面がある。特に本来性/非本来性といった区分や、後期の存在論など、ハイデガーの最も悪い面をも踏襲しているために、彼の現存在分析そのものが非常に仮説性の高いものに陥っているように見えるのだ。そうした側面は、次のような文章にも端的に示されている。

「人間の本質が世界の開示であり世界を明けひらくことだというのは、存在の明るみの境域としての人間本質の中に、事物や共人間がそれらのもつすべての指示性と附記連関において立ちあらわれてきうる、といういみにおいてである。ところがまさにこのような本質特徴が、同時にそれ自身のうちに、次のような可能性を蔵している。つまり人間が彼にとってあらわれでてくる存在者によって圧倒され、この存在者へと頽落し、この存在者のそばに自分を喪失するという可能性を蔵している。そこから帰結してくるのは、非本来的な生活、事物の超力にひきわたされ伝統と因習の中にとらえられた無人称な生活であり、眩惑と盲目の中での実存なのである。」(p.78)

こうした無人称な生活、つまり頽落した状態から脱却することは難しいことだとボスは言う。そもそも人間は子どもの頃は両親に頼って生きているので、そこから自分自身の自立的な存在可能へと至るのは、誰でも少しづつしか進めないものだと言うのである。そして、このような本来の自己への途上における停滞、後退こそ、心身の疾患をもたらすことになる。「こうした病的に非本来的な、停滞した生命の事実的な諸現象は、次のような一連の段階をなしてのびひろがるのがつねである。つまり漠然とした《文明の中での不快感》から、いろいろのニュアンスをもった負い目の感情、劣等感、さらにはヒステリー症状や強迫症状をもこえて、もっとも重篤な身体障害にまでも至るのである。」(p.79)。

このように、ボスは神経症を頽落した非本来的な状態が極度に進行したものだと考えている。伝統や権威に従い、無名の非本来的な自己喪失者になること、それが神経症の発症に繋がっているというわけだ。したがって心理療法において重要なのは、本来の自己を取り戻し、本来の可能性、自由な選択の可能性を取り戻すことだと、ボスは主張する。それは、フロイトが精神分析において実践しているように、本来の可能性、特に他者との関係における可能性を意識化し、可能性の選択を、つまり自由をもたらすことである。だからこそ、フロイトは近代心理療法の父となり得たのだ。

「事実フロイトは彼のプラクシスにおいては、人間の自由性ということをまったくハイデガーのいういみに、つまり選択可能(Wahlenkonnen)と解していた。両者がその言葉によって考えていたことは、一方では人間の存在の本領をなしている《機能》や《能力》や《性格特徴》や《行動特性》のすべてを、そしてまたそれとともに彼の関係可能性一切の自立的自己への集中を、意識的に責任をもって自己のものとすることへの決断であり、(フロイトの言葉では)《意識にもたらす》ことへの決断であった。」(p.88)。

メダルト・ボスが心理療法と精神分析の本質を、自由という選択の可能性を拡げることだと考えたのは、全く正しいと思う。が、しかし、彼はそれを本来の自己を取り戻すことだと述べており、神経症や頽落の状態を非本来的なあり方、社会の制度や文化の影響下に失われたものだと考えている点に問題がある。これでは社会のルールは個人の自由を抑圧する、というフロイト左派や他の実存派のセラピストたちが信じている仮説と同じではないだろうか。しかも、ボスは後期ハイデガーの悪しき影響も受けているため、結局その現存在分析論は、非常に問題の残る理論になっているのである。

例えば、ボスは同じ現存在分析派のビンスワンガーを主観主義だと批判し、その精神医学的現存在分析を実存の性格づけとしての世界内存在という表象のみしかないと言い、次のように述べている。「したがってハイデガーの意味での人間の内存在は、つまり存在から言い求めをうける明るみの境域の出でたち、といういみでのそれは、必然的に従来の古い主体客体表象の主体性をただほんの少しばかり拡大し、かつ応用しやすくしたにすぎないような把握へと、退却せざるをえなくなる。」(p.99)。そしてボスは人間が《存在の明るみの場》であるという、後期ハイデガーの考え方を何度も強調するのである。

「また心理学や精神医学や精神分析が現存在分析論の助けによってなしうることは、一人の人間の自分に対する、また自分に出会ってくる共人間に対する、そしてまた事物に対する事実的な態度様式を記述すること以外の何ものでもありえない。なぜならこの事実的な態度様式においてこそ、またその態度可能性としてのみ、人間の本質は、存在者のすべてと存在のすべてとの根底から、存在の明るみの境域として言い求めをうけるのであり、この明るみの領域の中で照らし出されてくる諸現象の呼びかけ(Zuspruch)に向かって人間のほうから呼応する(entsprechen)のであるから。」(p.102)。

このように、ボスは心理的な治療の本質を自由の獲得、選択の可能性を拡げることだと言いながらも、一方では主観に還元する視点を批判し、人間は存在から呼び求めに対して、呼応するのだと述べている。これは矛盾しているのではないだろうか。何故なら、自由とは主体的な選択の可能性が広がることであるのに、主体的に行為を選択するのではなく、呼び求めに応ずることが本来的なあり方だ、と述べているのだから。それは、自由という言葉の本質に反する主張ではないだろうか。確かにメダルト・ボスは、ビンスワンガー以上にハイデガーの哲学を深く理解しているし、フロイト批判も他に類を見ないほど的確で優れていると思う。しかし、そのハイデガー理解の深さが裏目に出てしまい、結果的にはハイデガーの悪い面まで受け継ぎ、非常に具合の悪い側面を残す現存在分析論になっていると言わざるを得ないであろう。