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13. フロイト『快感原則の彼岸』

フロイト著作集 第6巻 自我論・不安本能論 (6)

自我論集

フロイト全集〈17〉1919‐1922―不気味なもの、快原理の彼岸、集団心理学

〓.精神分析理論では心的過程が「快感原則」に支配されて進行するものと考える。経済論的な観点からすれば、快は興奮量の減少に、不快は興奮量の増加に対応するので、心的装置は興奮量を低めに、あるいは恒常に保とうとする(快感原則は恒常原則に由来する)。しかし、快感原則は自己を守る際には無用であり、危険でさえあるため、自我の自己保存本能の影響を受けて「現実原則」が交代し、満足を延期または断念させることになる。衝動要求と危険威嚇に対する反応は、快感原則か、それを修正する現実原則によって導かれるのである。

〓.「外傷神経症」とは生命の危険と結びついた災害(戦争や事故)の後に生じる病であり、主観的な苦痛、衰弱、混乱などの徴候がみられ、災害の回想に心を奪われる。この場合、特定の対象への「恐怖」が支配しているのであって、危険の予期である「不安」が原因とはいえない。

生後一年半の男児による糸巻き遊びの例。この子は糸巻きを投げては「オーオーオー」と言い、ひもを引っ張って糸巻きが姿を現すと「ダー」Da(いた)と言いながら、何度もこれを繰り返した。この遊びは母親がいなくなることと現れることに関係している。糸巻きが現れると「ダー」と言うのは、母親が現れることへの歓びを意味している。しかし、糸巻きを投げることは母親が消えることを意味しているので、これを繰り返すことは苦痛をともなうはずである。これは快感原則に一致するのか?

〓.「患者は抑圧されたものを医師が望むように、過去の一片として追想するかわりに、現在の体験として反復するように余儀なくされる。この再現は、望ましくはないがいとも忠実に登場して、いつも小児の生活、したがってエディプス・コンプレックスと、それからの派生物との幾分かを内容としており、つまり医師に対する関係という転移の領域で規則的に演ぜられる。治療がここまで進めば、以前の神経症は、いまや新しい転移神経症にとってかわられたのだということができる。」(p.159)

医師は患者に忘れた過去を再体験させ、外見上の現実が忘れた過去の反映であることをさとらせねばならないのであり、その意味では転移神経症に移行する段階を避けるわけにはいかない。このように反復される体験(反復強迫)は、抑圧された衝動興奮を発現させるので、自我に不快をもたらすはずなのだが、一定の満足を与えるものでもあるため、快感原則には矛盾しない。しかし、反復強迫が快感の見込みのない体験を再現する場合もある。苦痛に満ちた人間関係を何度も繰り返す人たち、あるいは災害神経症者や子どもの糸巻き遊びを考えれば、快感原則の埒外にある反復強迫が存在するのではないかという仮定が成り立つ。「反復強迫の仮定を正当づける余地は充分にあり、反復強迫は快感原則をしのいで、より以上に根源的、一次的、かつ衝動的であるように思われる。」(p.163)

〓.生命ある有機体にとって、外界の影響に対する刺激保護は刺激受容以上に重要な課題である。刺激保護によって外界の影響による興奮量は抑えられるのだが、この刺激保護を突破するほど強力な興奮は外傷性と呼ぶことができる。外傷性神経症も刺激保護の破綻の結果だと解してよい。外傷神経症の原因は不安の発生が途絶えたことにあるので、外傷場面の苦しい夢を見るのは、不安(危険の予期という防衛反応)を発展させつつ刺激の統制を回復するためであり、これは「夢は願望実現」であるという命題の例外といえる(不安夢や処罰の夢は例外ではない)。この夢は反復強迫にしたがうものであり、これは「快感原則の彼岸」が存在することを意味している。

〓.本能とは生命ある有機体に内在する衝迫であって、以前の状態を回復しようとするものだと考えるなら、結局それは死へと繋がっていることがわかる。「もし例外なしの経験として、あらゆる生物は内的な理由から死んで無機物に還るという仮定がゆるされるなら、われわれはただ、あらゆる生命の目標は死であるとしかいえない」(p.174)。一方、性的本能は本来「生の本能」であり、死に導く他の本能と対立する関係にある。自我本能は死を、性的本能は生の継続を強いるのである。

〓.*ここでは、自我本能と性的本能の対立は、「死の本能」Todestriebと「生の本能」Lebenstriebの対立に置き換えられ、生物学的観点からの検討がなされている。その結果、生物学では死の衝動を否定しきれないことがわかったとフロイトは述べている。

リビドー説の発展を概観してみると、まず転移神経症の分析によって「性的本能」と「自我本能」の対立を考えざるをえなかった。「性」の概念は生殖機能に属さない多くのものを包含することになったが、自我本能のほうはまず自己保存に役立つ本能として、抑圧し、検閲するものだと考えられていたにすぎない。やがて、リビドーが自我に向けられることが注目を集め、自我を性的対象とする自己愛的リビドーは性的本能の表現であり、自己保存本能と同一視されるにようなるのだが、それによって自我本能と性的本能の対立は不十分なものになった。自我本能の一部がリビドー的であるとみなされたからである。だとすれば、リビドー的本能以外に他の本能はないことになるのだろうか? 「否」とフロイトは答える。ここに「生の本能」と「死の本能」の対立という新しい考え方が登場することになる。

生の本能と死の本能の対立は、対象愛そのものに見いだせる。それは愛(情愛)と憎(攻撃)との対立である。以前から性的本能のサディズム的要素は認めていたが、サディズムは自我の自己愛的リビドーの影響によって、自我からはみ出して、対象に向かってはじめて現れる死の本能だと仮定することができるかもしれない。また、マゾヒズムを死の本能の直接的な現れとして、一次的なものだと考えることもできる。

「われわれは精神生活の、いや、おそらくは神経活動一般の支配的な傾向として、快感原則においてうかがわれるように、内的な刺激緊張を減少させ、一定の度合いにたもつか、またはそれを取りのぞく傾向があるのを知った。(バーバラ・ロウの表現による涅槃原則Nirvanaprinzip)。このことが、われわれが死の衝動の存在を信ずるもっとも有力な動機の一つである。」(p.187)

〓.快感原則は心的装置に興奮が起こらないようにするか、興奮の量を一定に保つのだが、それは無機的世界の静止状態にもどるという、全生物の普遍的努力の一翼を担っている。性的行為の快感は高度にたかまった興奮の瞬間的な消滅と結びついているが、衝動興奮の「拘束」は準備的な機能であって、興奮を放出の快感において解消するように調節する。ここに快感原則が死の本能に関係する可能性が認められるのである。「快感原則は、まさに死の本能に奉仕するもののように思われる」(p.194)。