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10. メラニー・クライン『児童の精神分析』

メラニー・クライン著作集〈2〉児童の精神分析

・クライン『児童の精神分析』(誠信書房)より作成

(2002.6.3)


第〓部 児童分析の技法

第1章 児童分析の心理学的基礎

リタ(2歳9ヶ月)は、最初の1年目までは母親を好み、その後は父親を好んで母親に嫉妬を感じるようになる。18ヶ月の時、再び母親に愛着を示して父親に嫌悪を示したが、同時に夜驚症と動物恐怖に苦しみ始めるようになり、分析を受ける頃には強迫神経症になっていた。強迫的な儀式を示して、自責の念の混じった‘いい子〓いい子’と‘悪い子’の間をゆれ動き、抑うつの徴候を示す気分発作、遊びの抑止、激しい不安などが見られた。彼女の不安と怒りの発作は夜驚症の反復であり、それは早期エディプス葛藤から生じる罪悪感への神経症的な対処であった。

幼い子供の早期の不安と罪悪感は、エディプス葛藤に関連する攻撃的な傾向に原因がある。例えば、トルド(3歳9ヶ月)は分析の中で‘ごっこ’遊びを繰り返し、クラインの手足を縛りたがったり、ソファの上の膝掛けを持ち上げて‘ポー〓カキ〓クキ’(Po〓Kaki〓kuki)をしていると言った。それは、母親のお尻の中の‘カキス’(Kakis)(大便)、つまり‘子供’を探したいということを意味しており、その直後にお漏らしをした。実際、彼女は性交している両親への攻撃性を、両親のベッドに駆け込んでお漏らしをすることで示していた。トルドは妊娠している母親から子供を略奪したかったし、父親と性交している地位に取って代わりたかったのであり、その罪悪感から夜驚症になっていたのだ。

リタの場合も、1歳3ヶ月から2歳の間、彼女は父親との関係における母親の場所を奪いたい、母親の中にある子供達を奪いたい、父母を傷つけたいと感じており、その攻撃性から罪悪感が生じ、遊びの抑止の原因となっている。彼女の強迫症状は、就寝時に寝具の中にしっかり包み込まれなければ、ブゼンが彼女のブゼンを噛みきってしまうというものだが、ブゼンとは父親の男根を意味している。父親を去勢したいと思ったことに対する処罰として、彼女自身の性器が父によって噛みきられるかもしれない、だから自分自身の攻撃性を抑えるために、ベッドの中に包み込まれる必要があるのだ。分析は遊戯療法によって行われたが、あるセッションの中で、リタは人形のベッドの近くにゾウを置き、ゾウが両親のベッドルームに行って彼らを守るようにした。ゾウは彼女の内在化された両親の役割を意味しており、超自我が人生の早期に形成されることを示しているのだ。

子供の現実に対する関係は弱く、自分を病気とも感じていないので、分析を受ける動機が欠如しているだけでなく、会話による連想もほとんど使えない。しかし、「子どもはその幻想、願望そして現実の経験を、遊びを通して象徴的な方法で表現する。そうすることによって、子どもは同じ太古的で系統発生的に獲得された表現形式を使用し、いわば私たちが夢において慣れ親しんでいるのと同じ言語を使用する。」(p.8)。夢と同じように、遊びに使われるおもちゃや人形の意味も多義的であり、夢分析と同じように遊びを解釈すれば、子どもにも分析的な効果を得ることができる。子どもは解釈に喜びを示すこともあり、解釈がスムーズに進めば次の遊びへと関心を向け、分析は進展することになる。途中、非常に強い抵抗に遭遇するが、それは深い層の不安と罪悪感にぶつかったのであり、これが分析されなければ、十分な分析的効果は得られないのである。子どもの行動化(acting out)は非常に重要であり、それは言葉に代わって無意識を表している。特に反復的に繰り返す行動は重要である。クラインによれば、遊びの様々な形態の背後にはマスターベーション幻想(特に原光景を中心とする性的な経験に関わるもの)の放出過程が隠れており、この過程は反復強迫として遊びに現れるのだ。

「持続的な解釈、抵抗の漸進的な解消、陽性のものであれ陰性のものであれ、転移を早期の状況につねに帰って言及すること――それらは、成人と同様に子どもにおいても正しい分析状況を造り上げ維持する。この達成に必要な条件は、分析家は、成人の患者に対してするように、子どもに対して非分析的で教育的な影響を与えることをさし控えるべきである。それゆえ、転移は成人の分析におけるのと同じやり方で、始めから終わりまで扱われるべきである。」(p.15)。子どもの分析は、まず無意識に注意を向け、徐々に自我に触れ、超自我の過剰な圧力を弱めていく必要がある。超自我の圧迫が弱まれば、自我は抑圧ではなく批判的な拒絶ができるようになる。また、転移によって早期の状況が反復されるので(例えば3〓4歳の子が1〓2歳の子のように話し始める)、これを解釈していかなければならない。治療の最初から陰性転移を組織的に扱うことができれば、不安は急速に解決され、分析状況を構築することができるのである。

「子どもの心の非常に原始的な性質は、特別に子どもに適した分析的技法を見つけ出すことを必要とした。そして私たちはそれを遊戯分析法の中に発見したのである。遊戯分析によって、私たちは子どもの非常に深く抑圧された経験と固着点に近づき、その子どもの発達に徹底的な影響を及ぼすことができる。しかし、この分析の方法と成人の分析との違いは、純粋に技法的なものであり、原則上のものではない。転移状況と抵抗の分析、幼児期の健忘と抑圧の効果の除去、そして原光景を明らかにすること――これらすべてのことは、遊戯分析においても行うのである。」(p.17)。


第2章 早期分析の技法

成人の分析と同じように、遊戯分析は現実の状況を転移状況として組織的に扱い、最初に経験されたもの、幻想されたものとの関連を造り上げることで、徹底操作する可能性を子どもに与えることになる。彼らの乳児期の経験と性的発達の最初の原因を明らかにすることで、分析は固着を解決して、発達の失敗を修正することができるのだ。

ピーター(3歳9ヶ月)は強く母親に固着しており、遊びは抑制され、欲求不満にも耐えられず、重い神経所と抑止に苦しんでいた。初回のセッションで、彼は二つのおもちゃの馬車をぶつけ合い、「フリッツという新しい弟ができたぞ」と言ったので、クラインは、「見て、それらの馬はぶつかり合っている二人の人間なのよ」と言ったところ、彼はそれを認めた。2回目のセッションでも再び二つの荷馬車、二つの機関車をぶつけ合った後、二つのぶらんこを並べて「どんなに絡まってぶつかり合っているか見てよ」と言ったので、クラインは次のように解釈した。ぶらんこ、機関車、馬車、馬を指さして、‘何とかさん(thingummy)’(彼の性器をさす言葉)をぶつけ合っているお父さんとお母さんである、と。「君は、お父さんとお母さんが何とかさんをぶつけ合って、君の弟のフリッツができたんだと一人で考えていたんだ」。

その時、ピーターはもう一つの荷馬車を取り上げて、三つを一緒にぶつけたので、クラインは「それは君の何とかさんで、君はそれをお父さんとお母さんの何とかさんに一緒にぶつけたかったんだ」と解釈した。すると、彼は馬車と馬を指さして「これはお父さん」と言い、もう一つを「これはお母さん」と言った。そして今度はお父さんとお母さんの馬車と馬を指さして、「これは僕だよ」と言い、性交中の両親との同一化を表明したのだ。また、彼は両親の性交を目撃したときの怒りを、2頭の馬が死んで埋められればいい述べたり、動くのをやめようとしない自動車(常時性交をしている父親のペニス)を賞賛した後で、怒り、排泄をしたくなる、という形で表現されている。(これは原光景を目撃したときにうんこをしたことの反復であり、うんこは両親を困らせもの、劣等なペニスの代理物である)。特に父親を表すおもちゃに対しては、強い恐怖心や攻撃性を示した。連続した解釈は、ピーターの抑止を弱め、次第に遊びの範囲を拡大させることになった。そして、原光景を明らかにすることによって、ピーターの強い受身的、同性愛的な態度に接近することができたのである。

一般に、解釈は転移が生じるまで待つべきだという原則がある、しかし、クラインによれば、子どもが自分のコンプレックスに対する洞察を、遊びや絵、幻想、振る舞いなどを通して提示した時、ただちに解釈を始めるべきだという。「なぜなら、子どもにおいては転移がただちに起こるからである。そして、分析家はしばしば、ただちにその陽性の性質の証拠を得るであろう。しかし子どもが内気であったり、不安や信用を抱いていないことだけを示すようだったら、そのような行動は陰性転移と見なされるべきである。そして、ましてこのことによって、解釈をできるだけ早く開始することが重要になる。なぜならば、解釈は関連した否定的な感情を、彼らのもともとの対象や状況にまで遡ってたどっていくことによって、患者の否定的な転移を減少させるからである。」(p.24)。例えばリタは抵抗を感じて部屋を出て行きたがったが、すぐに抵抗の解釈したことで、友好的になったし、それはトルドも同じであったのだ。

また、解釈は活性化されている精神の層に到達するように適切なものでなければならない。例えばピーターは原光景を明らかにすることで、母親(恐ろしい父親の男根を内部に取り入れた存在)に対する去勢不安のテーマへと様々なやり方で帰っている。分析の早期に与えられる深層の解釈は、性的発達の解釈や徹底操作を妨げることはないのである。「分析家はたとえ分析の出発点においても、深い解釈をすることを気おくれして避けるべきではない。なぜならば、心の深い層に属した題材は、後にまた戻ってきて徹底操作されるであろうからである。私が以前に言ったように、深層に達する解釈は、まさに無意識の扉を開くためであり、掻き立てられた不安を軽減するためであり、そのようにして分析的な治療への道を準備するためである。」(p.27)。

子どもが自然に転移を生じやすいのは、成人と比べて激しい不安があるからである。特に不安に対する準備性の強い子どもはすぐに陰性転移を表現するし、潜伏期の子どもなら不信に満ちた控えめな態度を取るだろう。分析家は陰性転移のサインを見つけ出すや否や、もともとの状況を追跡して解釈し、分析的な状況を作る必要がある。緊急のポイントにおける解釈こそ、子どもの無意識への道を開くのだ。もし、子どもの遊びの中にある緊急なものを見逃したなら、子どもは遊びを止めてしまい、強力な抵抗や不安を示すだろう。不安や抵抗がはっきした場合や陰性転移から始まる症例においては、解釈を与えることが絶対に必要である。しかも、時期を得た解釈というだけでなく、深層に到達する解釈こそ不安を軽減し、分析的な状況を造り上げるのであり、成人における分析のように表層の解釈から始めるのは、子どもの場合は失敗に終わるであろう。

ルース(4歳3ヶ月)は母親や姉に強く執着し、見知らぬ他者に対して強い不安を示していた。最初のセッションにおいても、姉が同席し、クラインを無視して遊び始めた。ある日ルースがコップと丸いボールを描いたので、クラインがコップの中のボールはお母さんの中にいる子どもたちであり、もうそれ以上弟や妹を持たないように閉じこめておきたいのだと解釈すると、彼女は初めてクラインに関心を示した。こうして陰性転移は減少し、陽性転移が育まれつつあったのだが、姉が突然の病気で分析に同席できなくなったため、ルースは激しい不安を示し、部屋の隅に座って怯えることになる。その間、クラインは一人で遊びながら、ルースに自分がしていることを語り続けた。

クラインが人形を眠らせ、その横にぬれたスポンジを置くと、ルースは泣きながら「そうじゃないよ、その子は大きいスポンジを持つんじゃあないわ。それは子どもの物ではなくて大人の物よ」と叫んだ。そこでクラインは次のように解釈した。

母親が性交中に父親の男根を取り入れたために、ルースは母親に羨望を抱き、憎んだのであり、母親の内部から父親の男根や子どもを盗み出し、母親を殺したいと思ってしまった。そのために罪悪感を抱き、‘よい’母親に見捨てられるという不安を抱き、‘悪い’母親に罰せられることを怖れるようになったのだ。クラインが人形を通して解釈を繰り返すと、ルースは次第に静かになり、クラインと一緒に遊び始め、帰りには情感を込めて‘さようなら’と言った。‘悪い’母親がクラインに転移されたために、陰性転移が生じていたのであり、それは解釈によって次第に弱められていったのである。母親の身体を破壊し、そこから子どもを取り出してしまうという観念は、母親から見捨てられるという不安を生み出し、母親に固着することがある。これは女の子に特有な不安であり、男の子の去勢不安と同等のものなのである。

早期分析においては、まず提出された題材を確実につかむことが必要である。特に潜在的な不安や罪悪感を即座に感知することは、正しい解釈を与えるための条件なのだ。また、(ピーターの例で示したように)子どもたちが自分自身のイメージを使って考え、会話するやり方を採用する必要がある。次に遊戯分析に使うおもちゃだが、これは小さくて数が多く、簡潔で種類も豊富なほうがよい。それは、変化に富んだ広範囲の遊びができるからである。さらに流れる水と洗面器があるほうがいいだろう。水遊びは前性器的な衝動に対する洞察を与えてくれるのだ。遊戯分析は非常に有効であり、遊びの制止が見られる子どもでも、何もしないということは希にしか起こらないのである。


第3章 6歳の少女における強迫神経症

エルナ(6歳)は不安と強迫的行為によって不眠に悩んでおり、うつぶせになって顔を枕に打ちつけたり、体を揺り動かしたりし、その間は座っていたり仰向けになっていた。親指しゃぶりや過剰なマスターベーションといった強迫的行動は、睡眠の妨げになっていたのだ。また、母親には過剰に優しかったり敵意のある態度が見せたりして悩ませ、学習においてはひどい制止があり、級友にも適応できなかった。彼女は1歳以前から神経症的な徴候を示し、2歳から3歳の間には、明確な強迫神経症になっていたのである。

初期の分析において、エルナはおもちゃの小さな馬車を取って、クラインのほうに走らせる遊びを始めた。おもちゃの女と男を馬車に入れ、二人はキスをして行ったり来たり動き回ったが、その後、別の馬車の男が二人に衝突してひき殺し、彼らを焼いて食べてしまった。それから攻撃していた男は投げ捨てられたが、それを女が助けて慰め、夫と別れて新しい男と結婚したのだ。この第三の男はゲームにおいて様々な役を与えられたが、それはエルナ自身であり、父親を追い出したいという願望を示している。また、エルナはしょっちゅう母親ごっこの遊びをし、クラインは子どもの役をして、消防車を口に入れることになっていたが、それはいけないことであった。エルナは消防車を賞賛し、口で吸ったのだが、それは母親の乳房であり、父親の男根を意味している。彼女は紙を切る遊びもしたが、それは‘ミンチ肉’で紙から血が出ていると言ったり、クラインの鼻の‘ふち’を切っていると言った。さらにエルナは切り紙から水遊びに移り、洗面器に浮かんだ紙切れを船長だと言い、彼の頭を破り裂いた。これらはエルナのサディスティックな衝動を示している。

しばしば彼女は、クラインを子どもの役にして下着を汚させ、それに対して母親として罰を与え、父親にお尻を叩かせる遊びをした。父親の代わりに魔術師が現れて、魔法の杖で子どもの肛門と頭を叩いたこともあり、魔法の杖から黄色い液体が溢れ出したこともある。魔法使いは男根を表し、液体は大便や性液、血液を表しており、それらは母親が口や肛門、性器を通した性交によって自分の中に取り入れたものである。エルナは両親の性交を様々な遊びの中で示しており、母親が父親の男根と精液を取り入れて、父親は母親の乳房とミルクを取り入れたという幻想は、両親に対する憎しみと羨望の基礎を造り上げている。また、彼女は自分で‘お汚し’をしてしまう子どもの役を演じたこともあり、クラインが母親として彼女を叱ると、エルナは反抗的になってさらに汚している。母親を病気で死なせて、子どもが代わりに父親と結婚したり、他にもサディスティックなやり方で母親を苦しめたのだ。

エルナの幻想は尿と大便で汚し合っているようなものが多く、彼女の精神生活が肛門期サディズムの幻想によって支配されていたことを示している。エルナは一人っ子であったが、一人っ子は現実に弟や妹と陽性の関係を発展させる機会がないため、弟や妹に関連する不安や彼らへの攻撃心による罪悪感に強く苦しむことが多く、社会への適応が難しくなりやすい。エルナは弟や妹を欲していたが、それは母親を殺害して父親の男根を手に入れる上で、同盟者となるからである。しかし、想像上の弟や妹に対する憎しみもあり、エルナが他の子どもたちとうまくやっていけないのは、彼らに弟や妹を同一化しているためなのだ。また、エルナの現実に対する関係はほとんど見せかけであり、彼女は夢の世界を存在させて、現実からそれを守ろうとし、妄想的な傾向を帯びていた。

エルナには同性愛的な傾向もあったが、そこには早期エディプス的な状況や口愛期的サディズムによる母親への憎しみがあり、両親の性交に対する羨望がある。この憎しみが排泄物による母親への攻撃など、サディスティックな幻想を生み出しているのだ。実際、この幻想や衝動を分析した後は、同性愛的な固着は軽減されて異性愛的な衝動が強くなり、父親への陽性の感情を抱き始め、母親に対するアンビバレントな関係も改善された。エルナは現実との接触を強めて、母親への無意識の憎しみは意識化され、正直に批判し始めるようになったのである。

エルナの排泄の訓練は全く問題がなかったが、肛門期的サディスティックな幻想は、肛門期への固着を示していた。それは素質的なものだけでなく、リビドーに比較して自我の発達が早すぎることも原因である。こうした要素に加え、2歳半と3歳半の時、彼女は両親の性交を目撃することになり、これが神経症を全開させることになった。両親の性交の光景(原光景)は、彼女の欲求不満と羨望の感覚を強め、性的な快楽に対するサディスティックな幻想と衝動を極端に高めたのだ。強迫的な親指しゃぶりは、父親の男根と母親の乳房を吸ったり噛んだりする幻想によって引き起こされている。枕に頭をぶつける行為は、父親の性交における動きを表現しており、恐怖の対象と同一化することで、恐怖から自分を解放している。また、体を揺り動かすのは、マスターベーションの願望を示しており、その幻想は原光景と深く結びついている。エルナは異常に性的なこだわりを示していたのだが、深い水準の不安を明確にしていくことで、強迫的な症状は除去されたのである。また、彼女は情動を爆発させることが多かったが、これも継続的な解釈によって軽減された。

「私が強調しておきたいもう一つの分析的な原理は、子どもがその無意識の中に抱いている、その両親に関しての、特に彼らの性的な生活に関しての疑惑と批判を、できるだけ意識化することは必要不可欠であるという点である。子どもの環境に対する態度は、これにより良い影響を受けないわけにはいかない。というのは、意識にもたらされることによって、その無意識の苦情や敵意に満ちた判断などが現実に対して検証され、そうして以前の敵意を失うのである。それと同時に、子どもの現実に対する関係が改善する。」(p.63)。


第4章 潜伏期における分析の技法

潜伏期の子どもは非常に限定された空想生活を営み、それは強力な抑圧の傾向と一致している。幼い子どもなら、本能的な経験と幻想の直接的な影響下にあるため、分析材料に直接現れる性交やサディスティックな幻想を、最初から解釈することが適切である。しかし、潜伏期の子どもはそれらの経験や幻想が抑圧されているため、脱性欲化され、合理化された形態になっている。そこで、解釈は抑圧をある程度取り除きつつ行う必要がある。それによって分析的な状況が造られ、子どもの創造力が自由になって、会話はより幻想的で豊富になってくるのだ。この時期の子どもは、おもちゃと遊ぶより役を演じ始めるもので、その意味が分析によって明確化されると、その内容に関連するような新しい内容の遊びに移行するのである。

ケネス(9歳半)は非常に抑制されていて激しい不安に苦しんでいた。学業的には落伍者で、性的なことには抑制されていない異常な関心を示していた(わいせつな言動、羞恥心のないマスターベーション)。彼は幼い時に乳母のメアリーに誘惑されており、彼女の性器を擦るように言われている。分析において、5歳の頃から繰り返されている夢を報告したが、それは、見知らぬ女性の性器を擦っていて、彼女にマスターベーションをしている、というものであった。しかし、別の夢や連想から明らかになったのは、メアリーが激しくケネスをぶっていたこと、それによる彼女への恐怖は否認されていたこと、そしてメアリーに対する恐怖の背後には、父親と共謀した母親に対する恐怖が潜んでいたことである。それは、男根を持った母親への恐怖であった。ケネスはある程度までは言葉で語り、積み木遊びなどで補足していた。しかし、早期の重要な部分(激しい不安)については、話すことよりも行動によって意識化している。そして解釈の結果、不安が軽減されると、再び自由に話し始めたのである。

潜伏期の子どもを扱うには、象徴的な内容を不安と罪悪感に関連づけて解釈し、無意識の幻想との接触を持つことが重要である。彼らの抑圧は激しいので、何週間も何ヶ月もの間、与えられた連想に何の意味もないように思える。しかし、幻想のない活動や会話でも本当の材料として扱い、罪悪感や不安との関連で解釈していけば、無意識に通じる道を開くことができる。逆に、(教育的手法のように)自我に焦点を当て、自我の関心に基づく想像力を刺激すれば、抑圧を緩和することはできず、無意識への道を閉ざしてしまうことになりかねない。例えば、子どもの絵をほめて自我の欲望を刺激するのではなく、強迫的に描かれた絵を早期の不安や罪悪感と結びつけて解釈すべきであろう。分析過程を進展させていくのは解釈だけなのである。


第5章 思春期における分析の技法

思春期の子どもの場合、潜伏期の子どもより本能的な衝動は強力で幻想的な活動も多く、幼い子どもと同じように、無意識的なものや幻想生活が優位である。違うのは自我が発達していることであり、これによって不安の回避はより強力に遂行される。例えば、思春期の幻想は現実的で自我の関心に適応しているため、そうした関心領域(スポーツや他の興味)が不安を代償するのだ。しかし、思春期に特徴的な反抗的態度は、分析において陰性転移となりやすい。そこで陰性転移を軽減させるために、治療の早期から潜在的な不安を解釈し、分析状況を構築する必要がある。

イルゼ(12歳)はスキゾイドの特徴を示し、知的には8歳か9歳以下で、どんな創造活動にも著しい制約を示していた。他者にも無関心で、娯楽には嫌悪を抱き、主な関心は食べ物だけであった。また、彼女は兄と性的交渉があり、母親に対しては強い固着を示していた。顕著な幼児性と言語は、自分を表現することが困難だと思われ、クラインは遊技技法を採用することにした。正確な計測によって描かれた描画は、母親の身体内部における子どもの人数や、性の違いを見出すための、強迫的衝動を示していた。彼女の知的な制約は、両親の性交において何が進行しているのかを無視し、こうした知識に対する抑圧が原因だったのである。その後の分析によって明らかになったのは、性交において父親を所有していた母親への羨望と攻撃的な衝動であり、それは深い罪悪感の原因となっていた。だから彼女は母親に固着していたのである。分析によってイルゼの罪悪感は減少し、学習障害も減少、友達づきあいもできるようになり、母親に対しても率直に批判し、より安定した関係を築けるようになった。

思春期の子どもの分析は、基本的には成人と同じように、言語的な連想を中心とした技法を使うのだが、それに加えて遊戯技法が必要になる。クラインによれば、早期分析の技法は全ての年齢の子ども有効であり、思春期の患者にも不可欠なのである。そして幼児期や潜伏期と同じように、深いレベルの潜在的な不安やサディスティックな幻想、それに対する自我の防衛機制を明らかにし、それを意識化しなければならない。「これをするためには、分析家は患者に関して、厳格な分析的態度を取るべきことは絶対に必要である。というのは、分析家が子どもの心の最も深いレベルを分析できるのは、子どもに対してどんな教育的あるいは道徳的な影響を与えることを控えることによってのみ可能であるからである。なぜなら、もし彼が子どもがある種の本能的な衝動を提示することを妨害したならば、分析家は必然的に他のイド〓衝動をも押さえつけてしまうであろう。」(p.111)。


第6章 子どもの神経症

「不安は非常に多様で偽装された形態をとり、2〓3歳の早期の年齢においてさえ、抑圧の非常に複雑な過程を示す修正された不安を示す」(p.114)。不安の顕在化は神経症の現れであり、摂食障害や夜驚症、恐怖症といった形で現れる。夜驚症を乗り越えた後でも睡眠障害が続くなら、それは夜驚症の修正された形態であり、就眠儀式のような強迫神経症に変わることもある。同様に恐怖症が社会的な交流の抑止、変わった癖や習慣に繋がることも多い。簡単な行為さえ嫌うようなら、その行為が母親への攻撃を意味する場合もある。もっと広範な遊びの抑制が生じることもあり、それは後に学習やスポーツの抑止にも繋がりやすい。他にも様々な形で早期の不安や攻撃性から生ずる罪悪感が表現されるので、特に重症の神経症のサインであれば、それを見逃さずに対処することが必要となる。「すべての子どもたちは、個人個人において程度の違いによる神経症を通過するのである」(p.121)。

したがって、成人の神経症は常に幼児神経症をその下に持っているのであり、幼児神経症の治癒は成人の神経症に対する最もよい予防となるのだ。子どもの分析が完了したと考えられるのは、遊びの抑止が減少され、広範な興味を持った状態においてである。子どもの遊びは夢の潜在内容を発見するのと同じ方法で発見できるのだが、現実との近い関係もあって強力な二次的加工を受けている。したがって、子どもの精神生活を知ることができるのは、遊びを通して徐々にだけである。また、子どもの遊びはマスターベーション幻想の表現であるため、それは後の性生活の性質を示してもいる。いずれにせよ、子どもの精神分析は安定性と昇華の能力をもたらし、成人における心の幸せを保証することになるだろう。


第7章 子どもの性的活動

「精神分析の重要な業績の一つは、子どもたちが直接的な性的活動や性的な幻想のなかに表現を示すような性的生活を持っているということを発見したことである」(p.134)。赤ん坊のマスターベーションは一般に起こることであり、それは潜伏期まで延長する。潜伏期においては、エディプス・コンプレックスの解消が本能欲求の減少をもたらすこともあるが、マスターベーションへの罪悪感が強くなるので、あまりはっきりした性的活動は見られなくなる。この罪悪感が強すぎると、マスターベーション幻想は過剰に抑圧されて、重大な障害を呈することにある。例えば接触恐怖症になったり、後に学習障害になる場合も少なくない。何故なら、マスターベーション幻想は子どもの遊びの基礎というだけでなく、後の昇華の基礎でもあるからだ。

「性的な行為の強迫的な誘因を決定するものは、超自我からの過剰な圧力である。それはちょうど、それが性的活動の完全な抑圧を決定するものと同じであり、つまり、不安と罪悪感は、性的な固着を再強化し、性愛的な願望を高めるのである。」(p.139)。過剰な不安と罪悪感は、潜伏期における本能欲求の減少を妨げるため、強迫的なマスターベーション(性器接触)か性器接触恐怖という、二つの極端な結果をもたらすのである。ここで挙げられた兄弟(ギュンターとフランツ)の症例では、相互的な性的行為が強迫的に繰り返されているが、これは両親への攻撃心に基づくサディスティックなものであり、陽性の要素は欠如していた。陽性の性愛的要素が優勢であれば、そうした関係は愛情の能力に好ましい影響を与えるのだが、破壊的衝動と強迫的行為が支配的である場合、子どもの発達を強く害してしまうのである。


第〓部 早期不安状況と子どもの発達に対するその影響

第8章 エディプス葛藤と超自我形成の早期の段階

口唇期的な吸乳時期における満足の欠乏は、口唇期的な噛む段階における欲求を増大させ、サディズムを強めることになる。口唇期的サディズムが激しく始まれば、対象関係と性格形成はサディズムとアンビバレンスに支配され、早く始まり過ぎれば自我が早く発達し過ぎてしまい、強迫神経症になることもある。それは、生の本能に対する死の本能の現れでもある。フロイトは不安をリビドーの直接的な変化として(つまり欲求による緊張増加の結果として)説明しているが、クラインは破壊的な本能の危険性(攻撃性)こそ不安を生じさせるのだと主張する。欲求不満はサディスティックな本能を高め、不安を遊離して増強させるというのである。しかし、こうした破壊衝動による不安を克服するために、自我は破壊衝動の一部を他の部分に対する防衛として動員することができる。破壊衝動は、一方では内的な本能的危険への恐怖となり、他方ではこの恐怖を外的な対象に移し変え、破壊衝動を対象へ向けることで自我を防衛するようになるのだ。

サディスティックな幻想は早期分析の中で明確に展開されるので、それがあることに疑いの余地はない。口唇期的サディズムの幻想は、母親の乳房の内容物を吸ったりえぐり出したいという願望を含んでおり、それは母親の身体内部の内容物を奪い取り破壊するという幻想へと拡大する。尿道サディズムでは、洪水や多量の尿によってすぶ濡れにすることで、破壊したり、溺れさせたり、燃やしたり、毒殺するという幻想になる。火遊びとおねしょの関連も尿道サディズムのサインである。肛門期サディズムは、つねに飲み込んだり濡らしたりすることによって、母親の身体を破壊したい願望と交互に代わる。母親の身体を破壊したいという願望は、その身体が(性交によって取り入れられた)父親の男根を含んでいるからであり、男根は父親そのものとして(部分による全体の‘置き換え’)、特に強い恐怖を引き起こしているのだ。

「私の見解によれば、男の子においては、エディプス葛藤は、彼が父親の男根に対して憎しみの感情を持ち始め、彼の母親と性器的な結合を達成することを欲し、彼が母親の内部に存在すると見なしている父親の男根を破壊してしまいたくなるや否や始まるのである。早期の性器的衝動と幻想は、サディズムによって支配されている段階の時期に始まり、両方の性の子どもの中にエディプス葛藤を構成すると私は考えている。」(p.160)。この早期の段階において、子どもは口唇期的、尿道期的、肛門期的願望に加えて、すでに異性の親に対する性器的な願望を感じ、同性の親に対して嫉妬と憎しみを感じ始めている。この時期における子どもの夜驚症や恐怖症は、エディプス葛藤によって生じるのである。

フロイトによれば、超自我の形成は男根期に始まり、それはエディプス・コンプレックスの相続人である。しかしクラインによれば、「エディプス葛藤と超自我が、前性器期の衝動の優勢の下で始まり、口唇期的サディズムの段階において、取り入れられた対象――最初の対象カセクシスであり、同一化であるが――早期超自我の始まりを形成する」(p.164)。つまり、口唇期的サディズムによって取り入れられた対象が超自我の先駆的な機関となるのだ。フロイトも父親の禁止の繰り返しと破壊的な衝動という二つが超自我を形成するのだと主張しているのだが、その後の精神分析は前者ばかりを重視してきたのだと言える。エディプス葛藤と超自我の形成を支配するのは、主として破壊衝動とそれらが引き起こす不安なのである。

早期超自我は、後の(エディプス・コンプレックスを引き継いだ)超自我より厳しく、自我との対立も強い。口唇期的サディズムの時期に取り入れた恐るべき超自我に対し、自我は肛門期サディズム時期になると超自我を排出し、外界に投影するようになる。こうして投影と取り入れの機制が交互に働き始めることになり、超自我の形成だけでなく、対象関係の発達や現実への適応に決定的な影響を与えることになるのだ。早期の不安が強すぎれば、超自我(取り入れられた対象)への恐怖は外界の対象に投影されやすくなる。そうなると、外界の対象への憎しみや破壊衝動は増加し、犯罪を起こしやすくなる。さらには、外界から迫害される不安が強くなるために、投影と取り入れをやめることで防衛し、外界との関係を断つことにもなりかねない。それが精神分裂病なのである。

「超自我形成と対象関係の相互関係は、投影と取り入れの相互関係に基礎をおいているが、子どもの発達に多大な影響を与える。早期の段階においては、外界の中に彼の恐ろしい対象を投影することは、その世界を危険な場所に変え、彼の対象を敵に変える。他方で実際に子どもに対して好意をよせる現実の対象を同時に取り入れることは、反対の方向に働き、恐ろしい対象表象に対する彼の恐怖を軽減する。この視点から見ると、超自我形成および対象関係や現実に対する適応は、個人のサディスティックな衝動の投影と取り入れの間の相互関係の結果である。」(p.178)。


第9章 強迫神経症と超自我の早期段階との関係

この章では、早期の不安がどのように修正されるのかが問題となっている。例えば動物恐怖症は、早期肛門期における超自我に対する恐怖の修正(動物への置き換え)である。「最も早期の不安状況における不安は、赤ん坊が乳房に対してもつ恐怖症の中に現れる。早期の肛門期の段階に始まる幼児期の動物恐怖症は、激しく脅かす対象を巻き込み続ける。肛門期の後期の段階においては、そして性器的段階においてはさらに、これらの不安対象は大きく修正される。」(p.194)。この後期肛門期において始まる不安の修正は、強迫的な機制によって行われるわけだが、この不安が強すぎて十分に修正されなければ、重い強迫神経症となる。クラインによれば、「強迫神経症は非常に早期の精神病的状況を救おうとする試みである」というのである。

強迫神経症は超自我への恐怖が原因であり、それは後期肛門期に始まる(潜伏期において肛門期への退行として現れる)。母親の身体から排泄物と子どもを盗み出したという幻想は、それを返すように要求する悪い母親への恐怖を生み出し、清潔にするように要求する実際の母親への恐怖へと変わる。母親が子どもの排泄物を取り出そうと(取り戻そうと)する、と感じられるからだ。また、排泄物によって両親を攻撃するという幻想は、排泄物や汚れたもの全般に対して恐怖を感じさせることになり、それが清潔に関連した子どもの不安と罪悪感の原因となる。子どもは両親への破壊的な衝動に対して罪悪感を生じ、汚れた物は清潔に、壊れた物は修復しようと(強迫的に)試みる。しかし、性器期において性愛的衝動が強くなり、破壊的衝動が弱まるにつれて、超自我に質的な変化が起こる。不安は減少し、修復の機制は強迫的ではなくなり、超自我は警告的なものになるのである。


第10章  自我の発達における早期不安状況の意義

精神神経症的な病気は不安を克服する試みの失敗だが、不安を修正する方法は病理的なものばかりではない。潜伏期に自我が強くなってくると、自我は超自我と手を組んでイドを支配し、現実の対象と外的世界の要求に対して適応できるようになる。この時期の自我理想は‘良い’子どもであり、両親や教師を満足させるようになるのだ。潜伏期の子どもが対象の承認を強く必要とするのは、マスターベーション幻想を抑圧し、脱性欲化された形に昇華するためである。しかし、この安定は思春期にイドの要求が強くなると崩れるので、新たな対象や理想、昇華、そしてより強い自我が必要となる。こうして自我が強くなると、超自我と共通の目的(自我理想)のために協力し、精神的な安定性がもたらされる。これが正常な発達過程ということになるが、どんなに健康な人間でも、早期の不安を完全に捨て去ってはいないものなので、誰もが神経症になる可能性を持っていると言えるだろう。