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フロイト「自己を語る」Ⅲ

Ⅲ.技法の変更は、カタルシスという仕事の様相をも変化させた。「催眠術はある力動関係をかくしてしまっていたのだが、いまやそれがあらわにされ、それがとらえられることによって理論には確かな根底があたえられることになったのである」(p.440)。患者が多くのものを忘れているのは、その記憶が恐ろしいこと、心を痛めること、恥ずかしいこと、だからである。それゆえにこそ忘れられ、意識に残っていないのだ。こうして「抑圧の理論」ができあがった。正常な場合、心的なコンフリクトは二つの力動的な量(欲動と抵抗)がしばらくは相争い、結局は欲動が追い払われて、その志向からエネルギーの充当が取り去られる。しかし神経症の場合、「自我はいわば、不快な欲動の亢進に出会うや否や身をひっこめてしまい、それが意識されたり直接的な運動として現われる通路をさえぎってしまうのである。エネルギー充当はこのときにはそのままに保持されている。私はこの過程を抑圧となづけることにした」(p.441)。これは原初的な防衛のメカニズムであり、自我は抑圧された興奮が押しよせるのを逆充当によって防ぎ続けているために貧困化しており、抑圧されたものは発散と代償充足を見つけて抑圧の意図をむなしいものにしている。最早神経症の治療に必要なのは、感動の「除反応」ではなく、抑圧されたものをあらわにして承認し、抑圧を解消することであった。私はそれを「精神分析」と呼んだのである。

「ジャネの意見では、ヒステリーの患者とは、自分の体質的な弱さのために、その心的な行動を統一することのできないあわれな人間であった。このためにヒステリー患者は心的の分裂状態をきたし意識の狭隘化におちいってしまったのである。しかし、精神分析による検討の結果からいうと、この現象はあるダイナミックな要因による帰結、すなわち、心的なコンフリクトと完遂された抑圧との帰結であった。私はこの差異からくる結果はかなり大きいものがあって、精神分析において価値のあるものはすべてみなジャネの思想に借りてきているのだ、などという噂に終止符をうつものだと思った」(p.442)。また、ジャネは「無意識的な」心的作用についても云々したが、それは別に意味のあることではなく、「いいまわし方のひとつ」にすぎないと公言したので、私の目から見れば、彼の業績は価値を失ったのである。

精神分析では、「無意識」の概念をまじめに取り上げねばならなかった。「精神分析にとっては、すべての心的なものは、はじめには無意識的であり、ついで意識的な性質のものがそれに加わったり、加わらないままだったりするのであった。この点では、もちろん、哲学者たちの反対にあうことになった。彼らにとっては、「意識的」であることと「心的なものである」こととは同一であり、「無意識的で心情的なもの」というようなおかしいものは考えてみることができないと断言したのであった」(p.442)。しかし、病的な資料について経験の示すところは、哲学者に有無を言わせるようなものではなかった。

「われわれは、他人の心的な行為についての直接的な意識をもつことはなく、ただ表明されたものや行動によってそれを察知するしかないにもかかわらず、なお他の人に心的な行為があるとしてきたのである。しかし他人について正しいことは自分についてもそうでなければならない。この主張をおしすすめてゆき、自分の分かっていない行為はまさしく第二の意識に属するものだということを導き出すならば、自分の知ることのない意識、すなわち無意識的意識という概念に当面することになる」(p.443)。この概念は「無意識的な心的なもの」と呼んでも大差はなく、はっきりそう呼ぶことに決めたほうがよい。(*フロイトの言うとおり、無意識をある特殊な意識と考えることに意味はない。また、フロイトはここで「他人の意識」の確信成立を例に挙げ、「無意識」の確信成立という問題に触れている。しかし、そこから一気に「無意識」の存在を正当化している)。

神経症の誘因に関する研究は「児童性愛」の事実に突き当たったため、強い反感を引き起こした。しかし、当時は私自身にもある誤りがあった。「その当時の私の技術的な操作の圧力の下におかれて、私の患者の大部分のものは、小児期における成人による性的な誘惑を内容とするような光景を再現したのであった。女性の場合には誘惑者の役割はいつも父親に帰せられた。私はこの報告に信をおいた。そして、この児童期における性的誘惑の体験にこそ後来の神経症の源泉が見出されたのだと仮定したのであった。(中略)しかし後になって、このような誘惑の光景などは、けっして現実にあったものではなく、私の患者たちが創作した、あるいは私が彼らに無理じいして創作させさえしたところの空想にすぎないということを認識せざるをえなかったときには、私はしばらくのあいだはどうしてよいか分からなくなってしまったのであった」(p.445)。私の技法への信頼は手痛い衝撃を受けたのだが、この光景は技法によって得られたものであり、その内容は症状と明白な関係をもっていた。そこで、「私の経験から神経症の症状は直接的な実際の体験から発するものではなくて、願望による空想から発するものであること、また神経症にとっては、物質的な実在よりも心的な実在のほうがより大きい意味をもつのであるのだという正しい結論をひき出していたのである」。私はこの時にはじめて、エディプス・コンプレクスに突き当たった。

性的な機能ははじめから存在しているが、最初は他の生存に必要な機能に依存しており、後に独立することになる。それは最初、快感の対象を自己の身体に見出すような欲動の成分として現われ、中心点もはっきりせず、自体愛的なのだが、後にそれらの中に集中化が見られる。第一段階では、口唇部的成分が支配的になり、次にサディズム的肛門愛的な成分に移行し、最後に性器が優位を占めるようになり、生殖という役割の中に入る。この間に、多くの部分欲動は不要なものとして捨てられ、性器の統裁下におかれるのである。こうした性愛的欲求のエネルギーを、私は「リビドー」と名づけた。「個々の成分がつよすぎる結果として、あるいはあまり早期に欲求が満足されるという体験の結果として発達の途上におけるリビドーの固着が起こるということがある。そして、抑圧をうけたときにその場所へと向かってリビドーはもどってゆく(退行Regression)のである。そして、ここから症状への炸裂が起こる」(p.446)。

リビドーの組織化にならんで、対象発見の過程が進んでゆく。最初の愛の対象は母親だが、はじめは母親の乳房は自分の身体と区別されなかったであろう。幼児期になるとエディプス・コンプレクスが生じる。「男児はその性愛的な願望を母親に集中するようになり、父親にたいしてはこれを自分の競争者となるものとみて、敵視するような感情興奮を示すようになる。女児の場合にもこれと類似的な姿を示してくる」(p.447)。「児童の最初にする対象の選択は、したがって近親相姦的なものである」。性生活は四歳か五歳頃に前期の最盛期に達し、やがて抑圧作用の働きを受けて潜在期に入る。潜在期には道徳、羞恥、嫌悪といった反動形成が建設され、思春期とともに初期の欲求や対象への充当は再び活気づく。幼児期の性愛の最盛期にも性器が重要になるが、これは男性性器のみが重要になるのであり、ペニスを有しているか去勢されているかが問題になる。そして、去勢コンプレクスは性格形成や神経症の成立にも影響するのである。

こうした研究を通して(『性欲論三篇』等)、私は「性欲」の概念を拡大することになった。「この性愛の拡大には二重のものがある。第一には、性愛があまりにも密接に性器と関係づけられることから解放されて、よりひろく包括的な、性感を追いもとめる身体的機能であり、この機能が第二次的に生殖という仕事をするようになるものであるとして考えられるようになるということである。第二には、われわれの言葉遣いの中では非常に多義的に用いられる「愛」という言葉があてられるような単なる優しさにみちたとか友情的とかいわれているあらゆるものが、性的な感情のたかまりの中に数えいれられてしまっているということである」(p.448)。精神分析的見解では、倒錯者も独立的に快感を求めている部分欲動の表現として説明できる。ある意味で、児童は「多形倒錯的」なのである。同性愛にいたっては、体質的な両性具有性やファルスの価値をもつ段階の後作用に帰せられるので、倒錯という名に価しない。また、「愛」のような優しい感情の高まりも、根源的には性的欲求が昇華されたものだ。