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フロイト「自己を語る」Ⅰ

〓.「さて、私は一八五六年、五月六日、メーレン地方のフライベルクに生まれたのである。そこはいまのチェコスロバキア領にある小都市であった。私の両親はユダヤ人であった。だから私はまさしくユダヤ人である」(p.423)。そして四歳の時にヴィーンに来て、その地ですべての学業を終えたのだ。青年時代の私は医師の地位や活動に特別な関心はなかった。「はっきりいえば、私を動かしたものは、どちらかといえば自然の事物にたいしてよりは人間関係のほうに関連をもつといえるような一種の知識欲であったと思う」。「大学には一八七三年に入ったわけであるが、そこでははじめはいくつかのかなりの幻滅をあたえられた。まず第一に私が遭遇したのは、私はユダヤ人であるというだけのことで、自分自身を劣等なものだと考え、また、同じ国民だといえるものではないのだと感ずべきだという不当な要求であった」。これほど早い時期に多数者から反対を受けたことは、私の判断のある種の独自性を準備することにもなった。

やがてブリュッケの生理学の研究室に入り、(魚類の)神経系の組織学を研究するようになった。しかし、一八八二年、経済的な事情から理論的研究に生涯を委ねることは断念し、一般病院の就職志願医となった。私の研究対象は人間の中枢神経(脳解剖学)に移ったのである。数年の間に、私は神経系の器質疾患に関する症例報告をいくつも発表した。一八八五年、組織学ならびに臨床上の業績によって神経病理学の講師の資格を得ることができた。その後まもなく、ブリュッケの推薦によって多額の旅費を支給され、私はシャルコーのいるパリのサルペトリエール病院へ旅立ったのである。

シャルコーによるヒステリー現象の研究は驚くべきものであった。彼は催眠術によって麻痺や拘縮を引き起こしてみせた。そして、この人工的な産物が自然発生の、時としては外傷によって引き起こされたヒステリーと同じ性質のものであることを示したのである。パリを去る前に、私はシャルコーと話し合った。私は「ヒステリーの場合には、身体の個々の部分の麻痺や知覚喪失はその人のいだいている通俗的な(解剖学的ならぬ)表象と一致するような境界を示すものである」(p.427)と彼に言ったところ、同意はしてくれたが、さして興味を抱いていないことは容易に読み取れた。シャルコーは結局、病理解剖の人であった。

一八八六年、私はヴィーンに定住し、結婚した。シャルコーのところで見たこと、学んだことを医師会に報告したが、信頼してもらえなかった。「偉大な大家たちが私の新説を拒否しているのだなという印象はぬぐうことができなかった。私はヒステリーが男性にもあるということ、ならびに、暗示によってヒステリー性麻痺を発生させることができるという説とともに自分が反対されていることを知らされた」(p.429)。その後、私は脳解剖学の研究室からも閉め出され、講義すべき場所も奪われた。

神経病の患者の治療によって生活しようとすれば、彼らに何かしてやることができねばならない。私の武器は電気治療と催眠術だけであった。しかし、電気治療については、メビウスが電気治療の効果は暗示によるものだと喝破する以前に、私は電気器具を片付けてしまった。催眠術については、学生の頃に催眠術の公開演出を見て、催眠現象には真実性があると確信していたし、パリでは催眠術によって患者にある症状を作り出したり消失したりする方法を見てきていた。またナンシーには、催眠術を用いたり用いなかったりして、暗示によって治療を企図し特別な効果をあげている学派があると言われていた。「だから、私の医療の活動の初期の時代にすでに、むしろ、偶然ともいうべき、体系的ならぬ心理療法を別とすれば、催眠術による暗示が私の主たる仕事の上の方法となったことは自然のなりゆきというべきものであった」(p.430)。

しかし、患者のすべてに催眠術をほどこすことはできないし、催眠術がかかっても、思いどおりの深さの催眠状態にすることはできなかった。「自分の催眠術の技術を完璧なものにしようという考えで、一八八九年の夏に私はナンシーに向かって旅立ち、そこに数週間とどまった。年老いたリエボーが貧しい人や労働者の子弟たちに施術しているのを見たとき私は感動した。また、ベルネイムが自分の病院の患者たちに施したおどろくべき実験をまのあたりに見、また、人間の意識に秘められている力づよい心的な転機の可能性についての強い印象をもうけたものであった」。そして自分の女性患者にもナンシーに来るように勧めた。私は催眠術によって彼女をいくども悲惨な状態から救い出すのだが、やがて再発するのが常であったからだ。原因は催眠術が弱いためだと思っていたのだが、ベルネイムが催眠術を試みても同じ結果であった。