フロイト「自己を語る」Ⅱ
Ⅱ.私は催眠術を暗示のみに使ったわけではない。「私は、この催眠術を用いて、覚醒している状態ではまったくなにもいえないか、いえるとしてもまったく不完全きわまるようなものにしかすぎないような患者の症状の発生史をきわめるのに役立てたのである。この操作は、単にあることをするように命令したり、または、やめるように命令したりする暗示によるよりも有効であるばかりではなく、この方法によって医師の知識欲を満たすこともできた」(p.431)。この操作をするようになったのは、次のような次第によってである。
私はブリュッケの研究室にいた頃、優れた家庭医であったヨゼフ・ブロイアー博士と知り合い、われわれの関係は次第に親密なものとなったのだが、精神分析学を発展させるためには、彼との友情を犠牲にしなければならなかった。「ブロイアーは私がパリに行く以前にすでに、自分が一八八〇年から一八八一年にかけて彼の独特な仕方で治療したヒステリーの一症例についての話をしてくれていた。彼はこの例で、ヒステリーの症状の原因と意味とにたいする深い洞察をうることができたのであった。そうしてみれば、このことはジャネの研究などがまだ実現されなかった時代のことなのである。ブロイアーはくりかえし私にその病歴の一切を呼んできかせてくれた。それをきいたとき、私は、神経症を理解するうえにこれまでにないほど多くのことがなされているという印象をうけたのであった」(p.432)。パリでシャルコーにその話をしたのだが、何の関心も示さなかった。そしてヴィーンに帰った後、私はまたブロイアーの観察に関心を向けたのである。
その少女は父親の看病をしている間に病気になり、拘縮や抑制、精神錯乱をともなう麻痺など、多彩な病像を呈していた。「偶然の観察からこの医師は、患者がそのときに支配されている感動にみちた空想にたいして言語的な表現をあたえるようにさせると、このような意識障害から解放されるものだということを認識するようになった。ブロイアーこの種の経験から治療の一方法を手に入れたのである」。彼は患者を深い催眠状態に導き、その都度、何が彼女の気分を苦しめているのかを語らせた。すると、「彼女の症状はすべて病気の父親の看護をしているあいだに起こった印象ぶかい体験に帰することができること、したがって意味があるものであり、感動的な状景の残滓であり回想であることが分かったのである」(p.433)。彼女は父親の看護の間、ある考えまたは衝動を圧迫しなければならず、この圧迫されたものの代わりに症状が現われたのだ。それは一つだけの外傷的状景の沈殿物ではなく、多くの類似の状景の集計された結果だった。「そこで、患者が催眠状態でそのような状況を幻覚的にふたたび回想し、その当時におさえつけられていた心的行為にたいして、後になってではあるが自由な感動の発散をさせることで結末をつけてしまうと、その症状は消しさられてしまい二度と現われることはなかった」。
この症例が一般的なものか否かを決定するものは経験だけである。私はブロイアーの技法を試みはじめ、特にベルネイムに暗示の限界を示されてからは、これ以外には最早何もしなくなった。そして、この方法に確信がもてるようになったので、私はブロイアーに一緒に著書を出そうと提案したが、彼は最初反対した。しかし、ジャネが、ヒステリー症状を生活上の印象に帰すること、催眠術によってそれが発生した状況を再現し、除去できることを先取りしてしまったので、結局はブロイアーも承知した。一八九三年に「ヒステリー現象の心的メカニズムについて」という予報を出し、一八九五年には『ヒステリー研究』を出版した。
『ヒステリー研究』においては、「感情的生活の意義、無意識的ならびに意識的(より正しく表明すれば意識化できる)心的行動のあいだの区別が重要であることを強調し、症状を感動の鬱滞によって生じるものであるとすることによっては力動的な要因を導入したし、また、その症状が、正常の場合ならば他に使用しうるはずと思われるエネルギー量の変化の結果としてくる(いわゆる転換Konversion)とすることによって経済的な要因を導入したのであった。このわれわれの方法をブロイアーはカタルシス法(通利法kathartisch)とよんだ。その治療にあたっての企図するところは、間違った路線にふみこんで、いわばそこにひっかかり動きがつかなくなっている感動の総量が症状を保持するに与っているのであるから、それを運び出すことができる(除反応abreagieren)ように正常の路線へと導くことにあるとされたのである」(p.434)。
その後、ブロイアーはこの協働の仕事から退いてしまった。理由の一つは私との意見の違いである。例えば「類催眠状態」について、彼は生理学的理論に傾いていたが、私は「ある力の勝負のようなもの、すなわち、正常な生活においても見られるような企図や傾向の作用」を推察したため、「防衛神経症」と「類催眠ヒステリー」を分けねばならなかった。また、ブロイアーは家庭医としてひどく忙しい立場にあり、加えて、『ヒステリー研究』がシュトリュンペルから強く批判されて気落ちしてしまったのだ。
『ヒステリー研究』の理論はまだ不完全であった。「しかし、どんどんと急速に経験がふえてくるにつれて、私には神経症という現象の背後にはたらいている感動的興奮はどういう種類のものでもよいのではなくて、いつでもきまって性的な性質をおびたものであること、現在における性的なコンフリクトであるか、あるいは過去における性的な体験の後作用であるかは別としても性的なものであることが分かってきた」(p.436)。『ヒステリー研究』に載せた病歴にも性生活の契機があるのだが、まだ特殊な役割とは見られていなかった。また、ブロイアーやシャルコーの発言には、彼ら自身も気づいていなかったこと(性的問題)がすでに語られていたのだ。
鋭く観察してみると、病態像は多彩でも二つの基本的な類型を見出すことができた。一つは「不安神経症」であり、不安の発作が中心現象で、不安に代わる等価症状や痕跡的なもの、慢性の代償的症状をともなっている。また、この病気の背景には、中絶性交、挫折興奮、性的禁欲が見られる。もう一つは「神経衰弱症」で、この病気の背景にも、(過度の手淫などの)性的機能のひどい悪用が見られる。どちらにも異なった性生活の異常態が対応している。こうして私は、精神神経症は性の機能障害の心的表現であると認めるようになった。
やがて、私は催眠法に対して重要な懸念を抱くようになった。なぜなら、催眠がうまくいっても、患者と治療者の関係がくもってくると、急にその効果が失われてしまうからだ。「個人的な感情的な関係のほうがカタルシスによる仕事よりもより力強いということ、および、この契機こそが支配の手からのがれていたものだということを教えられたのである」(p.439)。次に、私はある経験をした。疼痛発作のある女性患者を催眠法によってその誘因にまで遡り、苦悩から解放してやったとき、彼女は覚醒するや、腕を私の首に巻きつけてきたのだ。「そして今こそ、催眠法の背後にあってはたらいている神秘な要素の本性をとらえたのだと考えたのであった。それを除外するか、少なくとも、それを切りはなすためには私は催眠法をやめなければならなかったのであった」。
しかし、催眠法は、覚醒しているときには得られない知識を獲得できる点で優れている。それに代わる方法かあるのか模索しているとき、私はベルネイムの実験を思いだした。催眠中の記憶は失われているように見えるが、実は被験者はそれを知っているのだ、とベルネイムは主張し、被験者の額に手を置くと、ためらいがちに話し始めたのである。私は同じようにやろうと決心した。普通なら催眠によって到達できることを患者は全部知っているはずだ、と思ったからだ。私は催眠法を廃止し、静かにベッドの上に横臥させ、後方に私が座って見えないようにして、忘れたことを思い出すように(力づけたり、額に手を置いたりしながら)促しはじめた。